2024年8月13日火曜日

ロンドン ハンプトンコート宮殿(Hampton Court Palace)- その2

英国のロイヤルメール(Royal Mail)から、
2018年7月31日に発行されたハンプトンコート宮殿の記念切手の1枚 -
Hampton Court Palace : Great Hall


イングランドの聖職者 / 政治家であるトマス・ウォルズィー(Thomas Wolsey:1473年頃ー1530年)は、テューダー朝(House of Tudor)の第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)に重用された結果、1514年にヨーク大司教(Archbishop of York)に、1515年には枢機卿(Cardinal)にも任命され、同年に大法官(Lord Chancellor - 様々な行政上の職務を管理下に置く大臣職)となり、聖俗両方の司法権を掌握し、内政や外交に辣腕を振るった。


英国のロイヤルメール(Royal Mail)から、
2018年7月31日に発行されたハンプトンコート宮殿の記念切手の1枚 -
Hampton Court Palace : King's Great Bedchamber


上記の通り、権力の頂点に達したトマス・ウォルズィーは、「聖ヨハネ騎士団」が開いた荘園を1514年に賃借すると、翌年の1515年から1521年にかけて、14世紀に建てられたカントリーハウスを再建し、現在のハンプトンコート宮殿(Hampton Court Palace)の基礎を作り上げる。

非常な浪費家でもあったトマス・ウォルズィーは、聖俗の両方から入ってくる富を惜しみなく注ぎ込み、イングランド随一の宮殿を建設したが、ヘンリー8世の嫉妬を買ったため、已む無く、1525年に、ヘンリー8世に対して、ハンプトンコート宮殿を進呈する羽目となったが、1529年に失脚するまで、そこに住み続けた。


ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイクが描いた
ヘンリー8世とキングスカレッジ合唱団の絵葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum
→ 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入>


トマス・ウォルズィーからの進呈を受けたヘンリー8世は、ハンプトンコート宮殿を使い始め、1532年から1535年にかけて、大ホール(Great Hall)とロイヤルテニスコート(Royal Tennis Court)を追加した。


英国のロイヤルメール(Royal Mail)から、
2018年7月31日に発行されたハンプトンコート宮殿の記念切手の1枚 -
Hampton Court Palace : Chapel Royal


1599年4月25日、ケンブリッジシャー州(Cambridgeshire)のハンティンドン(Huntingdon)の地主の家に出生したオリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell:1599年ー1658年 → 2024年xx日 / xx日付ブログで紹介済は、ケンブリッジ(Cambridge)のシドニーサセックスカレッジ(Sidney Sussex College)に進んだ後、1640年にケンブリッジ選挙区から議会へと選出され、議会派に所属。


ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイクが描いた
オリヴァー・クロムウェルの絵葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum
→ 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入>


清教徒革命Puritan Revolution:1642年ー1649年)において、議会派(Parliamentarians)と王党派(Royalists)の対立から内戦が不可避となり、第一次イングランド内戦(First English Civil War:1642年ー1646年)が勃発すると、彼は議会派軍の鉄騎隊(Ironside)を指揮して、王党派と戦いを繰り広げた。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
チャールズ1世の肖像画の葉書
(Daniel Mytens
 / 1631年 / Oil on canvas
2159 mm x 1346 mm) 


1645年6月14日に行われたネイズビーの戦い(Battle of Naseby)において、彼が指揮する議会派軍は、ステュアート朝(House of Stuart)の第2代国王であるチャールズ1世(Charles I:1600年-1649年 在位期間:1625年ー1649年 → 2017年4月29日付ブログで紹介済)が率いる王党派軍に対して、壊滅的な損害を与える。

第一次イングランド内戦は更に1年続いたが、王党派軍は劣勢を挽回することができず、スコットランドへと亡命したチャールズ1世は、スコットランドにも見捨てられ、ハンプトンコート宮殿において、議会派の監視下、軟禁状態に置かれている。


英国のロイヤルメール(Royal Mail)から、
2018年7月31日に発行されたハンプトンコート宮殿の記念切手の1枚 -
Hampton Court Palace : King's Staircase


1688年の名誉革命(Glorious Revolution)を経て、ステュアート朝の第5代国王に就いたウィリアム3世(William III:1650年ー1702年 在位期間:1689年ー1702年)/ メアリー2世(Mary II:1662年ー1694年 在位期間:1689年ー1694年)による共同統治時、1689年から1694年にかけて、ヘンリー8世が建てた部分が取り壊され、新しい翼が建て増しされた。


地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の
ベーカールーライン(Bakerloo Line)のプラットフォーム壁に
描かれているサー・クリストファー・マイケル・レン


特筆すべきなのは、英国の建築家 / 天文学者 / 数学者であるサー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)が建てた宮殿の「South Front」である。


英国のロイヤルメール(Royal Mail)から、
2018年7月31日に発行されたハンプトンコート宮殿の記念切手の1枚 -
Hampton Court Palace : South Front


この功績により、サー・クリストファー・マイケル・レンは、ステュアート朝の第6代で、最後の国王であるアン(Anne:1665年ー1714年 在位期間:1702年ー1714年)より、ハンプトンコート宮殿の敷地内にある邸宅(The Old Court House)を貸し与えられて、居住していた。



妻で、共同統治者であるメアリー2世の崩御後、ウィリアム3世は、ハンプトンコート宮殿改築への興味を失ってしまう。

奇しくも、ウィリアム3世は、ハンプトンコート宮殿において、乗馬中、彼の馬がモグラの穴に足を踏み入れたため、落馬事故に遭い、重体となった。この時の怪我が原因となり、1702年3月8日、ケンジントン宮殿(Kensington Palace)

において、51歳で崩御したのである。


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