英国のロイヤルメール(Royal Mail)から、 2018年7月31日に発行されたハンプトンコート宮殿の記念切手の1枚 - Hampton Court Palace : South Front |
オリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell:1599年ー1658年 → 2024年x月x日 / x月x日付ブログで紹介済)は、清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)時に、議会派(Parliamentarians)を率いて、王党派(Royalists)を破り、時の英国王チャールズ1世(Charles I:1600年-1649年 在位期間:1625年ー1649年 → 2017年4月29日付ブログで紹介済)を処刑した英国の政治家 / 軍人で、イングランド共和国(Commonwealth of England:1649年ー1660年)の初代護国卿( Lord Protector)である。
英国のロイヤルメール(Royal Mail)から、 2018年7月31日に発行されたハンプトンコート宮殿の記念切手の1枚 - Hampton Court Palace : West Front |
清教徒革命において、議会派と王党派の対立から内戦が不可避となり、第一次イングランド内戦(First English Civil War:1642年ー1646年)が勃発すると、彼は議会派軍の鉄騎隊(Ironside)を指揮して、王党派と戦いを繰り広げた。
1645年6月14日に行われたネイズビーの戦い(Battle of Naseby)において、彼が指揮する議会派軍は、チャールズ1世が率いる王党派軍に対して、壊滅的な損害を与える。
第一次イングランド内戦は更に1年続いたが、王党派軍は劣勢を挽回することができず、スコットランドへと亡命したチャールズ1世は、スコットランドにも見捨てられ、ハンプトンコート宮殿(Hampton Court Palace)において、議会派の監視下、軟禁状態に置かれている。
英国のロイヤルメール(Royal Mail)から、 2018年7月31日に発行されたハンプトンコート宮殿の記念切手の1枚 - Hampton Court Palace : East Front |
ハンプトンコート宮殿は、ロンドン南西部のリッチモンド・アポン・テムズ・ロンドン特別区(London Borough of Richmond upon Thames)内にある旧王宮である。
具体的に言うと、ハンプトンコート宮殿は、ロンドンの中心部から南西方向へ約20㎞、テムズ河(River Thames)を上流に遡った場所に所在している。
11世紀に起源を有する宗教騎士団で、「テンプル騎士団」と「ドイツ騎士団」と一緒に、中世ヨーロッパにおける3大騎士修道会の1つに数えられている「聖ヨハネ騎士団」が、現在、ハンプトンコート宮殿が建つ地に、13世紀前半より荘園を開いていた。
ナショナルポートレートギャラリーで販売されている ヘンリー7世の肖像画の葉書 (Unknown Netherlandish artist / 1505年 / Oil on panel 425 mm x 305 mm) |
イングランドの聖職者 / 政治家であるトマス・ウォルズィー(Thomas Wolsey:1473年頃ー1530年)は、イングランド東部サフォーク州(Suffolk)のイプスウィッチ(Ipswich)に出生した後、オックスフォード大学(University of Oxford → 2015年11月21日付ブログで紹介済)のモードリンカレッジ(Magdalen College)で学んだ。
テューダー朝(House of Tudor)の初代イングランド王であるヘンリー7世(Henry VII:1457年ー1509年 在位期間:1485年ー1509年 → 2024年7月5日付ブログで紹介済)の統治時の1507年に王室礼拝堂付き司祭(royal chaplain)となり、外交使節を務めたが、ヘンリー7世から能力を警戒されたため、残念ながら、出世できなかった。
ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、 英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイクが描いた ヘンリー8世とキングスカレッジ合唱団の絵葉書 <筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum → 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入> |
テューダー朝の第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)が即位すると、トマス・ウォルズィーは、非公式の秘書官(almoner)に抜擢され、1511年には枢密院(Privy Council - 国王の諮問機関)の顧問官へ昇格。
ヘンリー8世のフランス遠征(1513年)に伴う兵站等の移送準備に奔走した功績により、翌年の1514年には、ヨーク大司教(Archbishop of York)に任命される。彼は、1529年に失脚するまで、任地であるヨーク(York)へ赴任しない教区不在聖職者であった。また、ヘンリー8世からローマ教皇レオ10世(Pope Leo X)への推薦を経て、1515年には枢機卿(Cardinal)にも任命された。
更に、同年、大法官(Lord Chancellor - 様々な行政上の職務を管理下に置く大臣職)となり、トマス・ウォルズィーは、聖俗両方の司法権を掌握し、内政や外交に辣腕を振るった。
上記の通り、権力の頂点に達したトマス・ウォルズィーは、「聖ヨハネ騎士団」が開いた荘園を1514年に賃借すると、翌年の1515年から1521年にかけて、14世紀に建てられたカントリーハウスを再建し、現在のハンプトンコート宮殿の基礎を作り上げたのである。
非常な浪費家でもあったトマス・ウォルズィーは、聖俗の両方から入ってくる富を惜しみなく注ぎ込み、イングランド随一の宮殿を建設したが、ヘンリー8世の嫉妬を買ったため、已む無く、ヘンリー8世に対して、ハンプトンコート宮殿を進呈する羽目となった。
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