2020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された 英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、 第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(=バイロン卿)が選ばれている。 |
社交界の寵児となった第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年)は、乱れた生活を続けたが、1815年にアン・イザベラ・ノエル・ミルバンク(Anne Isabella Noel Millbanke:1792年ー1860年 / 愛称:アナベラ(Annabella))と結婚して、同年に2人の間に娘を設けた。彼女が、後のラブレス伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キング(Augusta Ada King, Countess of Lovelace:1815年ー1852年 → 通称:エイダ・ラブレス(Ada Lovelace))で、「世界初のコンピュータープログラマー」と呼ばれるようになる。
アン・イザベラ・ノエル・バイロンとの間に娘を設けた第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンであったが、恋に憂き身をやつし続けたため、翌年(1816年)に彼女とは別居し、更に、近親相姦や同性愛(→ 当時は、死刑に値する犯罪)といったスキャンダルにより、世間からの糾弾を受けて、英国を去った。
英国のロマン派詩人であるパーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley:1792年ー1822年 → 2021年5月1日付ブログで紹介済)は、幼い頃に読んだ「政治的正義」を執筆した無政府主義の先駆者でもある英国の政治評論家 / 著述家のウィリアム・ゴドウィン(William Godwin:1756年ー1836年)の邸に足しげく通うようになる。
そして、そこで、彼は、ウィリアム・ゴドウィンの娘であるメアリー(当時の名前は、まだメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン)と出会い、彼女と付き合うようになる。ただ、当時、パーシー・シェリーは、妻帯者だったため、彼との恋愛に父親であるウィリアム・ゴドウィンは大反対をし、その結果、1814年、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンは、パーシー・シェリーと一緒に、欧州大陸へ駆け落ちをするのであった。
一旦、欧州大陸から英国に帰国するものの、スイスのジュネーヴに滞在していたパーシー・シェリーの友人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンに誘われて、1816年5月、バイロン卿、彼の愛人であるクレア・クレモント(Claire Clairmont:1798年ー1879年 / メアリー・シェリーの義姉妹)、パーシー・シェリーとメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンの4人は、ジュネーヴ近郊のレマン湖畔にあるディオダディ荘(Villa Diodati)に滞在した。
同年7月、長く降り続く雨のため、屋内に閉じ込められていた折、第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンは、「皆で一つずつ怪奇譚を書こう。(We will write a ghost story.)」と、他の3人に提案した。このディオダディ荘での怪奇談議を切っ掛けに、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンは、「フランケンシュタインの怪物」の着想を得て、小説の執筆に取りかかった。
その後、第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンは、パーシー・シェリー達と一緒に、スイス各地、イタリアのヴェネチア / ラヴェンナ / ピサ / ジェノヴァ等を巡礼して、退廃した生活を続けた。
同年9月、彼ら4人が英国に帰国した後、同年12月10日に、ハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)のサーペンタイン湖(Serpentine → 2015年3月15日付ブログで紹介済)から入水自殺したパーシー・シェリーの妻ハリエット・シェリーの遺体が発見される。検視によると、ハリエット・シェリーは、パーシー・シェリー以外の男の子供を身籠っていた、とのこと。
その20日後の同年12月30日、パーシー・シェリーは、ロンドンの教会でメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンと正式に結婚して、彼女は、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリーとなった。
メアリー・シェリーは、スイス / ジュネーヴ近郊のレマン湖畔にあるディオダディ荘での怪奇談議を切っ掛けに着想を得たフランケンシュタインの怪物の話を1817年5月に脱稿し、翌年の1818年1月に匿名で出版した。このゴシック小説の正式なタイトルが、「フランケンシュタイン、或いは、現代のプロメテウス」である。当作品の出版により、後に、彼女は SF の先駆者と見做されるようになる。
1818年3月に、彼女は、夫であるパーシー・シェリーの序文を付けて、再度、匿名で同作品を出版した。
現在、一般に流布している版は、1831年に出版された第3版(改訂版)がベースとなっている。
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)内の ベーカールーライン(Bakerloo Line)用ホームの壁に描かれている 第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンの肖像画 - 彼は、アルバニア風の衣装を身に着けている。 |
ギリシア暫定政府の代表からの訪問を受けた第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンは、1823年、2年前に始まったギリシア独立戦争へ身を投じることを決め、1824年1月、ギリシアへと向かった。
彼は、相手方の要塞等を攻撃する計画を立案していたが、現地において熱病に罹患して、1824年4月19日、瀉血が原因で、同地で死去したのである。まだ36歳の若さであった。
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