ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、 英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイクが描いた ウィリアム・ウィルバーフォースの絵葉書 <筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum → 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入> |
2009年にケンブリッジ大学(University of Cambridge)が創立800周年を迎えたことを記念して、英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイク(Quentin Blake:1932年ー)が、ケンブリッジ大学に関係する人物を描いて、寄贈した。
祖父のウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce:1690年ー1774年)は、バルト海諸国との交易により、莫大な富を築くとともに、フルの市長に2回選出されている。
ウィリアム・ウィルバーフォースは、当初、フルグラマースクール(Hull Grammar School)に通うが、9歳(1768年)の時、父のロバートを亡くすと、ロンドンのセントジェイムズプレイス(St. Jame’s Place)やウィンブルドン(Wimbledon)に住む親戚の元へ送られた。
ウィリアム・ウィルバーフォースは、1776年10月、僅か17歳で、ケンブリッジ大学のセントジョンズカレッジ(St. John's College)へと進む。
1768年の父ロバート、そして、1774年の祖父ウィリアムの死去に伴い、彼は多額の遺産を相続していたため、学問追求への意欲はあまり強くなく、学生達との交流や快楽主義的な生活に没頭するようになる。
大学時代、後に24歳の若さで英国最年少の首相となるウィリアム・ピット(William Pitt the Younger:1759年ー1806年 首相在任期間:1783年ー1801年 / 1804年ー1806年)と親友になったことが、ウィリアム・ウィルバーフォースにとって、大きな宝となり、彼らの友情は生涯続いた。
彼は、1781年に学士号(Bachelor of Arts)を、また、1788年に修士号(Master of Arts)を取得した。
大学卒業後、家業である貿易業を行うことに興味を持てなかったウィリアム・ウィルバーフォースは、英国議会への立候補を決め、1780年9月、21歳の若さでハル選出の国会議員となり、トーリー党(Tory Party - 現在の「保守党」の前身となる政党)に所属。
1783年2月19日、親友のウィリアム・ピットが、トーリー党の党首として、第16代英国首相に就任すると、彼の少数派政権の支援者となった。
1784年に議会が解散して、総選挙(general selection)が行われた際には、24歳でヨークシャー州選出の国会議員となる。
1787年に、ウィリアム・ウィルバーフォースは、奴隷貿易に反対するグループを紹介され、議会における奴隷貿易反対運動のリーダーとなるよう、説得を受けた。その結果、同年、彼は奴隷貿易廃止促進協会(1786年に設立)に参加。
奴隷を解放して、アフリカへ解放奴隷を移住させる計画を数ヶ月かけて策定した後、ウィリアム・ウィルバーフォースは、1789年5月12日、庶民院において、奴隷貿易廃止にかかる最初の主要演説を行った。
その後、彼は、1791年4月、奴隷貿易廃止のための最初の議案を提出するも、「賛成88対反対163」で却下。更に、彼は、1792年4月と1793年2月にも、奴隷貿易廃止法案を提出したが、又もや否決された。
ウィリアム・ウィルバーフォースは、引き続き、奴隷貿易廃止にかかる運動を進めたが、1789年7月14日のフランス革命(French Revolution)に伴う第一次対仏同盟(First Coalition:1793年ー1797年)に基づくフランスとの戦争が勃発したため、彼が提唱する奴隷貿易廃止法案は、当面の間、棚上げとされたのである。
上記のフランスとの戦争が終結した後、ウィリアム・ウィルバーフォースは、1804年と1805年に奴隷貿易廃止法案を提出するも、途中で頓挫する憂き目に遭う。
その後も、彼は、自身が所属するトーリー党だけではなく、ホイッグ党(Whig Party - 後の「自由党」と「自由民主党」の前身に該る政党)の奴隷貿易廃止主義者であるチャールズ・ジェイムズ・フォックス(Charles James Fox:1749年ー1806年)との協力を深めたが、
*第18代英国首相を務めていた親友のウィリアム・ピットが、46歳の若さで、1806年1月23日に死去
*ウィリアム・ピットの死後に成立した初代グレンヴィル男爵ウィリアム・ウィンダム・グレンヴィル(William Wyndham Grenville, 1st Baron Grenville:1759年ー1834年)を第19代英国首相とするホイッグ・トーリー連立内閣で外務大臣として入閣していたチャールズ・ジェイムズ・フォックスが、1806年9月13日に死去
があり、ウィリアム・ウィルバーフォースにとって、大きな打撃となった。
ウィリアム・ウィルバーフォースに協力する初代グレンヴィル男爵ウィリアム・ウィンダム・グレンヴィル首相は、1807年1月2日に「奴隷貿易廃止法案(Slave Trade Act 1807)」を貴族院に提出して、熱のこもった演説で法案への支持を訴えた結果、「賛成41対反対20」と言う大差で、貴族院を通過させた。
同年2月23日、庶民院に提出された同法案は、「賛成283対反対16」で可決され、同年3月25日、国王の裁可を経て、「奴隷貿易廃止法」は成立した。
ここに、約20年間にわたり、奴隷解放を目指してきたウィリアム・ウィルバーフォースの尽力は、遂に実を結んだのである。
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