2022年8月22日月曜日

ウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone) - その1

ウィリアム・ユワート・グラッドストンの銅像 -
ストランド通り(Strand)がフリートストリート(Fleet Street)へと変わる道の中央の浮島にある
セント・クレメント・デーンズ教会(St. Clement Danes Church)の前に、
この銅像は建っている。

スウェーデンに住む英国出身の作家兼編集者であるスティーヴン・サヴィル(Steven Savile:1969年ー)と米国の作家兼編集者であるロバート・グリーンバーガー(Robert Greenberger:1958年ー)が合作して、2016年に発表した「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / ソローズクラウンでの殺人(The further adventures of Sherlock Holmes / Murder at Sorrow’s Crown → 2022年8月2日 / 8月4日 / 8月9日付ブログで紹介済)」において、英国政府の中に潜む犯人達が言及していたウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone:1809年ー1898年)は、英国の政治家で、ヴィクトリア朝の中期から後期にかけて、自由党の党首として、英国首相を4回務めている。



ウィリアム・ユワート・グラッドストンは、スコットランド出身の大富豪である貿易商の四男として、リヴァプール(Liverpool)に出生した後、イートン校(Eaton)からオックスフォード大学(Oxford University)のクライストチャーチ(Christchurch)へと進学して、エリートコースを歩む。


1832年の総選挙において、23歳で初当選し、保守党所属の庶民院議員となり、その後、下級大蔵卿(1834年-1835年)、陸軍・植民地省政務次官(1835年)、商務庁副長官(1841年-1843年)、商務庁長官(1843年ー1845年:関税削減 / 廃止による自由貿易を推進)、そして、陸軍・植民地大臣(1845年ー1846年)を歴任して、順調に政治的キャリアを積んでいく。


穀物法廃止をめぐって発生した保守党分裂の際(1846年)、ウィリアム・ユワート・グラッドストンは、穀物自由貿易を唱うピール派に属していた他の議員とともに、保守党を離党。

ピール派とホイッグ党の連立政権であるアバディーン伯爵内閣において、彼は、大蔵大臣(1852年ー1855年)として入閣し、多くの品目の関税を廃止して、自らが信じる自由貿易を更に推進したが、次の内閣となるホイッグ党政権の第一次パーマストン子爵内閣において、首相の方針と食い違い、そのために大蔵大臣を辞任する。


保守党政権打倒のため、ホイッグ党、ピール派と急進派が団結して、1859年に自由党を結成し、これに伴い、ウィリアム・ユワート・グラッドストンも自由党議員となる。

保守党政権である第二次ダービー伯爵内閣を打倒した自由党は、第二次パーマストン子爵内閣を組閣し、彼も大蔵大臣(1859年ー1865年)として再入閣して、英仏通商条約の締結等、自由貿易体制の完成に努めた。続く第二次ラッセル伯爵内閣でも、大蔵大臣(1865年ー1866年)として留任するとともに、庶民院院内総務を兼務。



1867年末に、ウィリアム・ユワート・グラッドストンは、自由党党首となり、1868年11月の総選挙で勝利した後、

・第一次グラッドストン内閣(1868年-1874年)

・第二次グラッドストン内閣(1880年-1885年)

・第三次グラッドストン内閣(1886年)

・第四次グラッドストン内閣(1892年ー1894年)


と、首相を4回務め、特に、前半の2回に関しては、保守党の党首である初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield:1804年-1881年 → 2022年8月14日 / 8月16日付ブログで紹介済)と交互に首相に就任し、ヴィクトリア朝の政党政治を代表する人物となった。


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