アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年-1930年)は、「最後の事件(The Final Problem → 2022年5月1日 / 5月8日 / 5月11日付ブログで紹介済)」(「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」1893年12月号)において、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝(Reichenbach Falls)に、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と一緒に、葬ったシャーロック・ホームズを一時的に復活させて、「ストランドマガジン」の1901年8月号から1902年4月号にかけて、「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」の連載を続けた。ただし、本作品の事件の発生年月について、「最後の事件」の発生年月である「1891年4月 - 5月」よりも前の「1888年9月」に設定して、「ジョン・H・ワトスンが記録はしたものの、未発表だった事件を今回発表する。」ということにした。雑誌への掲載ベースで言うと、8年弱ぶりのホームズ復活であった。
コナン・ドイルがホームズをまた使おうとしていることを知った各出版社は、コナン・ドイルに対して、高額の条件を提示し、ホームズが登場する新しい作品の執筆を求めてきた。
特に、米国のコリアー社(Collier)は、当時としては破格とも言える「13作品で4万5千ドル」という条件を提示してきたので、コナン・ドイルは、大変喜んで、これを受諾したと伝えられている。
そのため、コリアー社に対抗して、「ストランドマガジン」は、コナン・ドイルに「同じ作品の英国版に関して、1,000字につき100ポンドを支払う。」と申し出てきたのである。
オックスフォードサーカスの近くに建つ ランガムホテルの正面玄関 |
話は、10年以上前に遡る。
1889年8月30日、ロンドン市内のオックスフォードサーカス(Oxford Circus→2015年4月26日付ブログで紹介済)の近くに建つランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)において、以下のアイリッシュ系の男性3人が食事会を行った。
(1)米国のフィラデルフィアに本社を構える「リピンコット・マンスリー・マガジン(Lippincott’s Monthly Magazine)」のエージェントであるジョセフ・マーシャル・ストッダート博士(Dr. Joseph Marshall Stoddart → アイルランド生まれの米国人)
(2)新進気鋭の若い作家として売り出し中のオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年 → ダブリンの名門に生まれた生粋のアイルランド人)
(3)サー・アーサー・イグナチウス・コナン・ドイル(→アイルランドの血をひくスコットランド人)
ナショナルポートレートギャラリー (National Portrait Gallery)で販売されている オスカー・ワイルドの写真の葉書 (Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card 305 mm x 184 mm) |
この食事会で、ストッダート博士は、オスカー・ワイルドとコナン・ドイルの2人から、それぞれ長編物を一作同誌に寄稿する約束を取り付けた。
コナン・ドイルは早速執筆に取り掛かり、約1ヶ月間で原稿を書き上げて、それをストッダート博士宛に送付。その作品のタイトルが「四つの署名(The Sign of the Four → 2017年8月12日付ブログで紹介済)」である。事件の依頼人であるメアリー・モースタン嬢(Mary Morstan)の父親で、約10年前の1878年12月、インドから帰国した後、行方不明になったアーサー・モースタン大尉(Captain Arthur Morstan)の宿泊先として、コナン・ドイル達が食事会を行なったランガムホテルが使用された。
「四つの署名」は、「リピンコット・マンスリー・マガジン」の1890年2月号に掲載されたが、続いて、同誌の1890年7月号に掲載されたオスカー・ワイルドの作品は、あの有名な「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)」であった。
なお、コナン・ドイルの原稿料は、4万5千語の作品で100ポンドだったが、当時、英国の世紀末文学の旗手として期待されていたオスカー・ワイルドの原稿料は、コナン・ドイルの倍の200ポンドだった、とのこと。コナン・ドイルが「ストランドマガジン」の1891年7月号にホームズシリーズの短編小説「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」を発表して爆発的な人気を得る前のことであり、残念ながら、売れっ子のオスカー・ワイルドとは、それ位の開きがあったのである。
今回、コリアー社と「ストランドマガジン」の両誌が、コナン・ドイルに対して提示した原稿料は、その当時、売れっ子だったオスカー・ワイルドと比べても、極めて破格の条件だったと言える。
「バスカヴィル家の犬」の連載を経て、ホームズ復活への期待が高まる中、コナン・ドイルも遂にホームズを復活させる決意を固めると、「ストランドマガジン」の1903年10月号に「空き家の冒険(The Empty House)」を発表して、ホームズをロンドンに生還させた。皆さんも御存知の通り、ホームズは、「バリツ(Baritsu)」と呼ばれる日本武術を以って、ジェイムズ・モリアーティー教授のみをライヘンバッハの滝壺へと転落させ、本人は死なずに済んだという設定が為されたのである。
「空き家の冒険」から、コナン・ドイルが「ストランドマガジン」の1905年1月号に発表した「第二の染み(The Secon Stain)」までの13短編は、1905年に「シャーロック・ホームズの帰還(The Return of Sherlock Holmes)」として単行本化されている。
Metro Media Ltd. から、SelfMadeHero シリーズとして, 2010年に出版されている コナン・ドイル作「四つの署名」のグラフィックノベル版 (構成: Mr. Ian Edginton / 作画: Mr. I. N. J. Culbard) |
結核を患っていた妻のルイーズは、1906年に死去すると、コナン・ドイルは、ルイーズの一周忌を過ぎた1907年9月18日に、恋人のジーン・レッキーと再婚して、イーストサセックス州(East Sussex)のクロウバラ(Crowborough)に移住して、新居を構えた。
コナン・ドイルと前妻ルイーズの間には、 長女メアリー・ルイーズと 長男アーサー・アレイン・キングスレー(スペイン風邪のため、1918年に死去)が居たが、後妻ジーンとの間に、次男デニス・パーシー・ステュアート、三男エイドリアン・マルコム(Adrian Malcolm Conan Doyle:1910年ー1970年)と次女ジーン・レナ・アレットが生まれ、子供は全部で5人となった。
レーサー、探検家、そして、作家になった三男のエイドリアン・マルコムは、コナン・ドイルに傾倒して、彼の評伝「コナン・ドイル」を執筆し、1950年に MWA 賞を特別賞を受賞した米国の推理作家で、アンリ・バンコラン(Henri Bencolin)シリーズ、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズやヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズ等で知られるジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)と合作して、1954年にホームズのパスティーシュである「シャーロック・ホームズの功績(The Exploits of Sherlock Holmes)」を刊行している。
エイドリアン・マルコム・コナン・ドイルとジョン・ディクスン・カーは、コナン・ドイルの正典において言及されていた「語られざる事件」の中から12編を選び、正典を仔細に研究し、詳細な設定をした上で、1952年から1953年にかけて執筆を行なった。
ただし、ジョン・ディクスン・カーが途中でエイドリアン・マルコム・コナン・ドイルと執筆方針で喧嘩をした挙句、彼が当時患っていた病気により体調が芳しくなかったため、12編のうち、6編が完成した段階で、執筆から降りてしまった。そのため、残りの6編については、エイドリアン・マルコム・コナン・ドイルが単独で書き上げている。
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