ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、 ロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手6種類の一つ - ヴィクトリア女王から引見を受ける初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ (彼は、当時、第二次ディズレーリ内閣(1874年ー1880年)を組閣しており、 南アフリカ連邦をまとめるべく、 1877年4月に、最後に残ったトランスヴァール共和国を併合した直後) |
大英帝国によるケープ占領に反発して、アフリカ大陸内陸部へ更なる植民を行なったオランダ系移民の子孫であるボーア人は、1839年にナタール共和国(Natal Republic)を設立するが、1843年に大英帝国の侵攻により潰えてしまう。その後、ボーア人は、1852年にトランスヴァール共和国を、そして、1854年にオレンジ自由国(Orange Free State)を設立した。大英帝国は、一旦、両国の設立を承認した。
第二次ディズレーリ内閣(1874年ー1880年)下の大英帝国は、南アフリカにあった英国植民地であるケープ植民地(Cape Colony)とナタール植民地(Natal Colony)に、上記のトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を加えた計4つの白人植民者共同体を南アフリカ連邦としてまとめることで、好戦的なズールー族をはじめとする先住民の黒人部族に対抗すべく、1876年7月にトランスヴァール共和国と黒人部族ペディ族の間で争いが勃発したことを口実に介入して、1877年4月、(既に領有化していたオレンジ自由国を除くと、残った唯一の)トランスヴァール共和国を併合したのである。
第二次ディズレーリ内閣の後を受けて、自由党党首であるウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone:1809年ー1898年)が組閣した第二次内閣(1880年ー1885年)下において、トランスヴァール共和国の再独立を求める独立派が武装蜂起して、大英帝国との間で、第一次ボーア戦争(First Anglo-Boer War:1880年ー1881年)が勃発した。
スウェーデンに住む英国出身の作家兼編集者であるスティーヴン・サヴィル(Steven Savile:1969年ー)と米国の作家兼編集者であるロバート・グリーンバーガー(Robert Greenberger:1958年ー)が合作して、2016年に発表した「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / ソローズクラウンでの殺人(The further adventures of Sherlock Holmes / Murder at Sorrow’s Crown → 2022年8月2日 / 8月4日 / 8月9日付ブログで紹介済)」において、第一次ボーア戦争を終結させず、長期化させたい犯人達が、大英帝国内に混乱を招くべく、初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリを殺害したというストーリーになっているが、史実としては、以下の通り。
1880年の総選挙で敗北して、自由党党首のウィリアム・グラッドストンに政権を明け渡したベンジャミン・ディズレーリは、以前から喘息と痛風に苦しんでいたものの、死を予期させるような病状や徴候はなかった。
亡くなる直前となる1881年3月1日に、ウィンザー城(Windsor Castle)において、彼はヴィクトリア女王から引見を受けたり、2週間後の3月15日には、貴族院において、暗殺されたロシア皇帝アレクサンドル2世を悼み、ヴィクトリア女王が弔辞を送ることに賛成する演説を行っており、彼の健康状態に全く問題は見受けられなかった。
ところが、1週間後の3月22日、帰宅途中に雨に濡れて風邪をひき、その病状がなかなか回復しなかったため、心配したヴィクトリア女王が有名医をベンジャミン・ディズレーリのところへ派遣させた。3月29日、胸部疾患の権威が気管支炎と診断し、24時間体制での看護が行われたが、その甲斐もなく、4月19日に入った深夜に危篤状態に陥り、同日の午前4時半頃、意味を引き取ったのである。
ベンジャミン・ディズレーリの訃報を聞いたヴィクトリア女王は、悲しみのあまり、暫くは口をきけなかったと言われている。
上記の通り、公式には病死であるが、あまりにも突然だったこと、そして、ベンジャミン・ディズレーリが亡くなる要因となった風邪を引いたのが、「1881年3月22日」、そして、彼が亡くなったた日が「1881年4月19日」で、第一次ボーア戦争が終結した「1881年3月23日」と非常に近かったこともあって、「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / ソローズクラウンでの殺人」の合作者であるスティーヴン・サヴィルとロバート・グリーンバーガーは、このようなストーリーを創り上げたものと思われる。
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