パーラメントスクエアガーデン(Parliament Square Garden)内に建つ 初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリの銅像(その1) |
スウェーデンに住む英国出身の作家兼編集者であるスティーヴン・サヴィル(Steven Savile:1969年ー)と米国の作家兼編集者であるロバート・グリーンバーガー(Robert Greenberger:1958年ー)が合作して、2016年に発表した「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / ソローズクラウンでの殺人(The further adventures of Sherlock Holmes / Murder at Sorrow’s Crown → 2022年8月2日 / 8月4日 / 8月9日付ブログで紹介済)」において、英国政府の中に潜む犯人達が命を狙った初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield:1804年-1881年)は、英国の政治家 / 小説家で、ヴィクトリア朝の中期に、保守党の党首として、英国首相を2回務めている。
パーラメントスクエアガーデン(Parliament Square Garden)内に建つ 初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリの銅像(その2) |
15歳の時に学校から退学処分になった後、弁護士事務所で働くようになるが、仕事に関心が持てず、南米鉱山株に投機したり、新聞発行に手を出したり等して、失敗を続け、破産の憂き目に遭う。
暫く外国を旅行した後、1832年に英国へ帰国して、小説を執筆する傍ら、庶民院議員選挙に出馬する。4回の落選を経て、1837年の総選挙で初当選し、保守党に所属する。
穀物法廃止をめぐって発生した保守党の分裂(1846年)により、保守党の幹部の多くが穀物自由貿易を唱えるピール派へと離党したことに伴い、ベンジャミン・ディズレーリは、党内の有力者として、次第に台頭する。
彼は、1851年に保守党庶民院院内総務に就任すると、第一次ダービー伯爵内閣、第二次ダービー伯爵内閣及び第三次ダービー伯爵内閣を通して、大蔵大臣(1852年2月27日ー1852年12月17日 / 1858年2月25日ー1859年6月 / 1866年7月6日ー1868年2月27日)を務める。
パーラメントスクエアガーデン(Parliament Square Garden)内に建つ 初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリの銅像(その3) |
・第一次ディズレーリ内閣: 1868年2月27日ー同年12月3日
・第二時ディズレーリ内閣: 1874年2月20日ー1880年4月18日
と、首相を2回務め、自由党党首であるウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone:1809年-1898年)と交互に首相に就任して、ヴィクトリア朝の政党政治を代表する人物となった。
第一次ディズレーリ内閣は、少数与党政権だったため、短命に終わったが、第二次ディズレーリ内閣は、安定多数政権だったので、強力な政権運営を行った。特に、外交面では、積極的な帝国主義政策を遂行して、
(1)スエズ運河の買収(1875年)
(2)ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年-1901年 → 2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)のインド女帝への即位(1876年)
(3)露土戦争(1877年ー1878年)
(4)第二次アフガン戦争(1878年ー1880年 → 勿論、フィクションではあるが、ジョン・H・ワトスンは、医師として従軍したが、負傷のため、英国へと送還され、ロンドンでシャーロック・ホームズと出会い、「緋色の研究(A Study in Scarlet → 2016年7月30日付ブログで紹介済)」事件に関わるようになる。)
等により、大英帝国の植民地科を推し進めた。
自由党党首であるウィリアム・ユワート・グラッドストンとは対照的に、ベンジャミン・ディズレーリは、ヴィクトリア女王とは非常に親密な関係を保ち、1876年に女王からビーコンズフィールド伯爵(Earl of Beaconsfield)の爵位を与えられている。
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