英国で出版された「ストランドマガジン」 1903年10月号に掲載された挿絵(その6) - ロンドンに帰還したシャーロック・ホームズは、 相棒のジョン・H・ワトスンの協力を得て、 犯罪界のナポレオンこと、ジェイムズ・モリアーティー教授の右腕である セバスチャン・モラン大佐を捕えると、 スコットランドヤードのレストレード警部に引き渡した。 挿絵:シドニー・エドワード・パジェット (1860年 - 1908年) |
アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年-1930年)は、「最後の事件(The Final Problem → 2022年5月1日 / 5月8日 / 5月11日付ブログで紹介済)」(「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」1893年12月号)において、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝(Reichenbach Falls)に、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と一緒に、葬ったシャーロック・ホームズを一時的に復活させて、「ストランドマガジン」の1901年8月号から1902年4月号にかけて、「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」の連載を続けた。ただし、本作品の事件の発生年月について、「最後の事件」の発生年月である「1891年4月 - 5月」よりも前の「1888年9月」に設定して、「ジョン・H・ワトスンが記録はしたものの、未発表だった事件を今回発表する。」ということにした。雑誌への掲載ベースで言うと、8年弱ぶりのホームズ復活であった。
コナン・ドイルがホームズをまた使おうとしていることを知った各出版社は、コナン・ドイルに対して、高額の条件を提示し、ホームズが登場する新しい作品の執筆を求めてきた。
特に、米国のコリアー社(Collier)は、当時としては破格とも言える「13作品で4万5千ドル」という条件を提示してきたので、コナン・ドイルは、大変喜んで、これを受諾したと伝えられている。
ヴィクトリア女王統治時代に発行された切手(1891年発行) |
一方で、コナン・ドイルは、第二次ボーア戦争(Second Anglo-Boer War:1899年10月12日-1902年5月31日)にかかる英国軍の擁護に注力していた。
1900年3月13日にオレンジ自由国(Orange Free State)の首都ブルームフォンテーン(Bloemfontein)が、続いて、同年6月5日にトランスヴァール共和国(Republic of Transvaal → 正式名:South African Republic)の首都プレトリア(Pretoria)が陥落したものの、大英帝国の支配は、トランスヴァール共和国の北部までには及ばなかった。しかも、英国軍が物理的に支配できたのは、英国軍の分隊が駐在する町や地区のみであった。
25万人居た英国軍兵士では、オレンジ自由国とトランスヴァール共和国の二国が有した巨大な領域を完全に制圧することは物理的に無理で、ボーア軍の特別攻撃隊(コマンド部隊)はかなり自由に動き回ることができたので、ボーア人指揮官の下、ゲリラ戦のスタイルを採用して、1900年9月以降、非常に活発に活動した。この後、第二次ボーア戦争は、泥沼のゲリラ戦と化していく。
ボーア軍によるゲリラ戦に手を焼いた英国軍は、民家がゲリラの活動拠点になっていると考え、ゲリラが攻撃してきた地点から16㎞四方の村を焼き払うという焦土作戦を敢行した。この焦土作戦によって、広大な農地や農家等が焼き払われ、焼け出されたボーア人や先住民の黒人は、強制収容所(矯正キャンプ)へと送られた。この人数は、12万人に上ると言われている。強制収容所の衛生環境は非常に劣悪だったため、2万人以上の人達が、それが原因で命を落としたとされる。
英国軍による非人道的な焦土作戦や強制収容所戦略に対して、国内外から大きな批判が寄せられたが、コナン・ドイルは、大英帝国の領土拡大が世界に道徳と秩序をもたらすと信じ込んでおり、1902年3月に発表した小冊子「南アフリカ戦争 - 原因と行動」の中で、こうした批判に対して、徹底的に反論するとともに、英国軍の擁護に努めた。
(1)焦土作戦にかかる批判への反論
「英国軍が民家を焼き払うのは、そこがボーア人のゲリラ軍の活動拠点となった場合に限られる。」
「英国軍が焦土作戦を敢行せざるを得なくなった責任は、ボーア軍が最初にゲリラ戦を開始したことにある。」
(2)強制収容所戦略にかかる批判への反論
「英国軍は、文明国の義務として、焼き出された婦女子をキチンと保護している。」
「強制収容所内では、食事もちゃんと出されている。それにもかかわらず、収容者の死亡率が高いのは、病気によるものであり、英国軍内でも病死者が多く、差別的取扱いはない。」
(3)英国軍によるボーア人婦女子への乱暴にかかる批判への反論
「如何なる戦争においても、女性は、既婚、未婚を問わず、憎悪に晒されるので、避けられないことだ。」
コナン・ドイルが著したこの小冊子は、大英帝国政府やボーア戦争支持派から熱烈な支持を受けて、発売から6週間足らずで、30万部を突破した。
また、彼は、自分のポケットマネーや募金で集めた資金等を投じて、この小冊子をできる限り多くの言語に翻訳の上、各国へ配布し、大英帝国に対する国際的な批判をかわそうと尽力した。
一方、同じ頃、大規模な英国軍の増援部隊が、南アフリカの西トランスヴァールへと送られ、1902年4月11日、山側に配置した英国軍は、十分な距離をとって、ボーア軍の騎馬隊を迎撃して、これを撃破した。この戦いが、第二次ボーア戦争における最後の大きな戦闘となった。
同年5月に、ボーア人政府は降伏したため、フェリーニヒング条約の締結を経て、第二次ボーア戦争は終結を迎え、大英帝国は、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国を再度併合したのである。
エドワード7世統治時代に発行された切手(1910年発行) |
コナン・ドイルが大英帝国からナイトに叙せられたのは、シャーロック・ホームズシリーズの執筆によるものと誤解する方が居るかもしれないが、実際には、そうではなく、帝国主義を推し進める大英帝国の領土拡大に協力したことが認められたからであった。
実は、コナン・ドイル自身、これが非常に不本意であった。彼が「サー」に叙せられた理由が、彼が本分と考えていた文学者、それも、歴史小説家としての活動に対する評価ではなかったからである。
コナン・ドイルは、叙勲を辞退しようと考えたが、これを知った母親のメアリーは激怒して、「叙勲を辞退するのは、良識ある血統を誇るドイル家の伝統や騎士的礼節に背くばかりでなく、君主を侮辱することになる。」と強く訴えた。また、妻のルイーズや恋人のジーンも、同意見だった。
騎士道を尊ぶコナン・ドイルとしては、母親の訴えを退けることができず、爵位(サーの称号)を授与されたのである。これは、コナン・ドイル本人はともかく、ドイル家一族の誉れであり、非常に名誉なことであった。
コナン・ドイル、43歳の出来事である。
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