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夏目漱石の2番目の下宿先である プライオリーロード85番地の家の正面(その1) |
1900年(明治33年)5月、夏目漱石(本名:夏目金之助 / 1867年ー1916年)は、英語教育法研究のため、文部省より英国への留学を命じられ、同年9月10日に日本を出発した。そして、彼は、藤代禎輔や芳賀矢一のドイツ留学組とパリで別れた後、英仏海峡を渡り、同年10月28日、英国に辿り着いた。晩秋の倫敦(ロンドン)で、彼は留学生活を始めることとなった。
夏目漱石は、ロンドン中心部のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内のガワーストリート(Gower Street)沿いの下宿(ガワーストリート76番地 / 76 Gower Street, London WC1E 6EG)に入り、一旦荷を解いた。
この下宿は、講義を聴講するロンドン大学(University of London)に近くて便利ではあったが、下宿代が非常に高かったため、もっと安い下宿を早急に探す必要があった。ガワーストリートの下宿代は、当時の日本円に換算すると、週40円以上で、東京では2ヶ月分の月給に相当していた。
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画面左下から画面右上に延びているのが、プライオリーロードで、 画面中央から画面左方向へ向かっているのが、クリーヴロード。 プライオリーロード85番地の家は、 画面左に居る男性の左側に建っている。 |
新聞広告や日本公使館等で直ぐに引越先を探して、夏目漱石が2番目の下宿に決めたのは、ロンドン北西部のサウスハムステッド地区(South Hampstead)内にあるプライオリーロード(Priory Road → 2019年10月13日付ブログで紹介済)の高台にあった。そして、同年11月12日、彼はガワーストリート76番地の下宿から新しい下宿へと移って来た。従って、夏目漱石がガワーストリート76番地の下宿に居たのは、1900年10月28日から同年11月11日までの約2週間だった。
新しい下宿は、木立に囲まれた赤煉瓦造りの一戸建てで、下宿代は週24円と、ガワーストリート76番地の下宿よりかなり安くなったものの、それでも高いと彼は感じていた。
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プライオリーロード85番地の家の前から プライオリーロードを北方面に見たところ。 |
夏目漱石がプライオリーロードの下宿に移って来て、少し経った同年12月初旬のある夜、彼が寝床でうとうとしていると、パチンと何かが爆ぜるような不審な物音を聞いたのである。最初はごく小さな音だったが、次第に大きくなってくるように聞こえた。当初は不審な物音だけだったが、息遣いのような音が更に聞こえてきて、次の夜には、「出て行け…。この家から出て行け…」という囁くような声に変わった。
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プライオリーロード85番地の家の前から プライオリーロードを南方面に見たところ。 |
毎夜の出来事に困惑した夏目漱石は、テムズ河(River Thames)南岸のキャンバーウェル地区(Camberwell → 2017年12月9日付ブログで紹介済)内のあるフロッデンロード(Flodden Road)沿いに手頃な下宿(フロッデンロード6番地 / 6 Flodden Road, London SE5 9LJ)を見つけて、そこへ移った。新しい下宿は元は私立の学校だったようで、下宿代はプライオリーロードの下宿のほとんど半分となった。
一安心した夏目漱石であったが、同年のクリスマスの夜、例の何かが爆ぜるような音がまだ始まり、翌晩には息遣いが、そして、3-4日すると、例の囁き声が聞こえ始めたのである。
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夏目漱石の2番目の下宿先である プライオリーロード85番地の家の側面 |
折角、下宿を移ったにもかかわらず、事態の改善が見られなくて困った夏目漱石は、翌年の1901年(明治34年)2月5日、毎週個人教授を受けているウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare:1564年ー1616年)研究家のウィリアム・ジェイムズ・クレイグ(William James Craig:1843年ー1906年 / ベイカーストリートに在住)に対して、自分の亡霊体験談を話したところ、「近所に住むシャーロック・ホームズ向きの話なので、彼に相談した方が良い。」との提言を受けたのであった。
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日本の出版社である集英社から1984年9月に出版された 島田荘司作「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」ハードーカバー版の表紙 |
これが、日本の推理小説家 / 小説家である島田荘司(1948年ー)氏が1984年に発表した推理小説「漱石と倫敦ミイラ殺人事件(’A Study in 61 : Soseki and the Mummy Murder Case in London’ by Soji Shimada → 2019年9月22日 / 9月29日 / 11月7日 / 12月7日付ブログで紹介済)」の冒頭の話である。
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日本の出版社である集英社から1987年10月に出版された 島田荘司作「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」文庫版の表紙 |
物語では、その後、恐ろしい呪いをかけられた弟キングスレイ・ホプキンスが一夜にしてミイラになってしまうという奇怪な事件が発生するが、その事件が発生した姉のメアリー・リンキイが住む屋敷が、プライオリーロード沿いに所在している。
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日本の出版社である光文社が発行する光文社文庫 島田荘司作「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」(完全改訂総ルビ版)の表紙 カバーデザイン:泉沢 光雄氏 カバーイラスト:城芽 ハヤト氏 カバー印刷:近代美術 |
プライオリーロードについては、2019年10月13日付ブログで紹介済であるが、夏目漱石が寝床でうとうとしていた際、パチンと何かが爆ぜるような不審な物音を聞いた2番目の下宿に関して、まだ紹介していなかったので、今回、紹介したい。
夏目漱石が居た2番目の下宿は、プライオリーロード85番地(85 Priory Road, London NW6 3NL)の家である。
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夏目漱石の2番目の下宿先である プライオリーロード85番地の家の正面(その2) |
プライオリーロードは、ロンドン北西部のサウスハムステッド地区(South Hampstead)内に所在している。
プライオリーロードの北側は、ジュビリーライン(Jubilee Line)が通る地下鉄フィンチリーロード駅(Finchley Road Tube Station)と地下鉄ウェストハムステッド駅(West Hampstead Tube Station)を東西に結ぶブロードハーストガーデンズ通り(Broadhurst Gardens)から始まり、サウスハムステッド地区内を南下。プライオリーロードは、ビートルズ(Beatles)が発表したアルバム「アビーロード(Abbey Road)」のカバー写真でも有名なアビーロード(Abbey Road)を横切った後、同じくジュビリーラインが通る地下鉄スイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)から西方面へ延びるベルサイズロード(Belsize Road)と交差したところで、プライオリーロードの南側は終わっている。
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夏目漱石の2番目の下宿先である プライオリーロード85番地の家の正面(その3) |
夏目漱石が居た2番目の下宿であるプライオリーロード85番地の家は、ブロードハーストガーデンズ通りから南下するプライオリーロードが、プライオリーロードの西側にほぼ並行して走るウェストエンドレーン(West End Lane)から東へ延びるクリーヴロード(Cleve Road)と交差した南西の角に建っている。
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夏目漱石の2番目の下宿先である プライオリーロード85番地の家の正面(その4) |
夏目漱石がプライオリーロード85番地の家を2番目の下宿に決めた理由は、「赤煉瓦の小じんまりした二階建が気に入った。」とのことで、裏庭に面した2階の部屋を使用した。
プライオリーロード85番地の家に下宿中、夏目漱石は、同じ家に下宿する鉄道技師の長尾半平とお茶を楽しんだり、一緒に出かけたりした。また、ハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)までよく出かけて、ヒース内を散歩していた。
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夏目漱石の2番目の下宿先である プライオリーロード85番地の家の正面(その5) |
島田荘司作「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」とは異なり、夏目漱石がプライオリーロード85番地の家から引っ越したのは、寝床でうとうとしていた際、パチンと何かが爆ぜるような不審な物音を聞いたからではなく、(1)大家一家の複雑な家族構成、(2)家の暗い雰囲気に馴染めなかったこと、また、(3)ガワーストリート76番地の下宿対比、下宿代が安くなったものの、まだ割高だったこと等が影響している。
従って、夏目漱石がプライオリーロード85番地の家に居たのは、1900年11月12日から同年12月5日までの3週間強だった。

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