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| ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)の ハイゲイト地区(Highgate)内にあるハイゲイト墓地 (Highgate Cemetery → 2018年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)の 東区画(East Cemetery)にある ハーバート・スペンサーの墓(その1) <筆者撮影> |
アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が執筆した長編としては、第6作目に、そして、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)シリーズの長編としては、第3作目に該る「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd → 2023年9月25日 / 10月2日付ブログで紹介済)」において、事件の記録者となる「わたし」こと、キングスアボット村(King's Abbot)に住むジェイムズ・シェパード医師(Dr. James Sheppard)が、村の富豪であるロジャー・アクロイド(Roger Ackroyd)から夕食に招待され、9月17日(金)の午後7時半に、ロジャー・アクロイドが住むフェルンリーパーク館(Fernly Park)を訪れる。会席者を待つ間、ジェイムズ・シェパード医師は、応接間において、ロジャー・アクロイドによる蒐集品の数々を眺めていると、そこへフローラ・アクロイド(Flora Ackroyd - ロジャー・アクロイドの義理の妹で、未亡人のセシル・アクロイド夫人(Mrs. Cecil Ackroyd)の娘)が姿を見せる。
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| 2022年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の 愛蔵版(ハードカバー版)の表紙 (Cover design by Holly Macdonald / Illustrations by Shutterstock.com) |
その際に交わされたジェイムズ・シェパード医師とフローラ・アクロイドの会話に出てくる「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」の作者であるジョージ・エリオット(George Eliot)は、英国の作家である。実は、「ジョージ・エリオット」はペンネームで、本名はメアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans:1819年ー1880年)。
| ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が 1860年に発表した長編小説第2作目「フロス河の水車場」 <筆者撮影> |
1819年11月22日、土地差配人である父ロバート・エヴァンズ(Robert Evans:1773年ー1849年)と母クリスティアナ・エヴァンズ(Christiana Evans:1788年ー1836年 / 旧姓:ピアスン(Pearson))の下、ウォーリック州(Warwickshire)ヌニートン(Nuneaton)に出生したメアリー・アン・エヴァンズは、1850年、作家を志して、ロンドンへと移った。
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| ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery内で 所蔵 / 展示されているジョージ・エリオット (本名:メアリー・アン・エヴァンズ)の肖像画 (By Sir Frederic William Burton / chalk / 1865年 / 514 mm x 381 mm) |
英国の哲学者 / 社会学者 / 倫理学者であるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer:1820年ー1903年)の紹介により、メアリー・アン・エヴァンズは、1851年に英国の哲学者 / 文芸批評家であるジョージ・ヘンリー・ルイス(George Henry Lewes:1817年ー1878年)と知り合い、恋愛関係になる。当時、ジョージ・ヘンリー・ルイスは、アグネス・ジャーヴィス(Agnes Jervis)と結婚して、3人の子供が入る身だったが、メアリー・アン・エヴァンズとジョージ・ヘンリー・ルイスの恋愛関係は、彼が1878年11月30日に亡くなるまで、25年以上続いた。
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| ハイゲイト墓地の東区画(East Cemetery)にある ハーバート・スペンサーの墓(その2)- 墓の左側面に、ハーバート・スペンサーが、 1820年4月27日に生まれたことが記されている。 <筆者撮影> |
父親のウィリアム・ジョージ・スペンサー(William George Spencer:1790年ー1866年)は、教師で、学校も経営していた。
ハーバート・スペンサーは、当初、父親の方針により、学校教育を受けず、家庭で教育を受けたが、その後、叔父のトマス・スペンサー牧師(Reverend Thomas Spencer)が経営する寄宿学校において、ラテン語、数学や物理学等を学んだ。
ハーバート・スペンサーは、1837年(17歳)、ロンドン ・バーミンガム鉄道の技師として働き始め、空いた時間を使って、著作活動を行った。その間、地質学に関心を持ったり、骨相学に傾倒したりした。
彼は、1843年、最初の著作「政府の適正領域(Proper Sphere of Government)」を刊行。
また、1848年から1853年までの間、経済誌「エコノミスト(The Economist)」の副編集長(sub-editor)を務めている。





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