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| ケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている ジョージ・ロムニー作「Emma Hart as 'The Spinstress'」(1784年ー1785年) <筆者撮影> |
アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。
そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。
1765年4月26日、鍛治職人(blacksmith)の父ヘンリー・ライオン(Henry Lyon)と母メアリー・キッド(Mary Kidd)の下、チェシャー州(Cheshire)のネス(Ness)に出生したエイミー・ライオン(Amy Lyon)は、エマ・ハート(Emma Hart)へと名前を変え、1779年、もしくは、1780年初めに、ロンドンへ向かう。
1781年6月 / 7月頃、エマ・ハートは、初代ウォーリック伯爵フランシス・グレヴィル(Francis Greville, 1st Earl of Warwick:1719年ー1773年)の次男であるチャールズ・フランシス・グレヴィル(Charles Francis Greville:1749年ー1809年)と親しくなり、彼の愛人となる。
1782年4月、チャールズ・フランシス・グレヴィルが、新しい愛人である彼女を連れて、友人のジョージ・ロムニーの元を訪れた。目的は、ジョージ・ロムニーに彼女の肖像画を依頼するためだった。当時、ジョージ・ロムニーは47歳、彼女は17歳で、2人は30歳と言う年齢の開きがあったが、この出会いは、芸術家としてのジョージ・ロムニーにとって、非常に得難い邂逅となり、ジョージ・ロムニーは、彼女にすっかりと魅せられた。こうして、彼女は、ジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神とも言える存在となっていった。
1786年、エマ・ハートは、ナポリ(Naples)へと向かい、チャールズ・フランシス・グレヴィルの叔父で、英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人となる。当時、チャールズ・フランシス・グレヴィルは、裕福な妻を見つけて、正式な結婚をしようと考えており、彼女を叔父のサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの愛人とさせて、叔父の再婚を阻止するとともに、自分も彼女を厄介払いしようとしたのである。
エマ・ハートにすっかり魅了されたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンは、彼女と正式に結婚することを決める。英国に一時帰国した彼女(26歳)は、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとの結婚(1791年9月6日)後、ナポリへと戻る。
サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、ナポリ王妃のマリア・カロリーナ・ダスブルゴ(Maria Carolina d’Asburgo:1752年ー1814年)と親密な友人関係を結ぶ。
なお、マリア・カロリーナ・ダスブルゴは、後のルイ16世と結婚して、フランス王妃となるマリー=アントワネット=ジョセフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌ(Marie-Antoinette- Josephe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine:1755年ー1793年)の姉である。
レディー・エマ・ハミルトンは、直ぐにフランス語やイタリア語を習得して、流暢に話すようになった。
また、彼女は、コヴェントガーデン(Covent Garden)のドルリーレーン劇場(Drury Lane Theatre)で女優業を始め、絵画モデルや舞踏家としても働いた経験があったことに加えて、アマチュアながら歌が非常に上手かったので、ナポリ公使邸において、多くの王族、貴族、芸術家や作家達を楽しませた。彼女のゲストの中には、ドイツを代表する文豪であるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johan Wolfgang von Goethe:1749年ー1832年 → 2017年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)も含まれる。彼女の歌唱力は素晴らしかったため、一時、マドリッド(Madrid)のオペラハウスから出演を要請される位だった。
| フランクフルトのゲーテ博物館(Goethe Haus / Goethe Museum → 2017年11月18日 / 11月25日付ブログで紹介済)内に展示されている ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの肖像画アップ <筆者撮影> |
そして、1793年に入り、レディー・エマ・ハミルトンの運命は、動き出す。
1793年9月10日、後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)が、ナポリを訪れる。トゥーロン攻囲戦(Siege of Toulon:1793年9月18日ー同年12月18日)でフランス共和国軍を攻撃するため、特使として援軍を求めて、ナポリへやって来たのである。
レディー・エマ・ハミルトンは、ナポリ公使夫人として、ホレーショ・ネルソンを歓迎。ホレーショ・ネルソンは、5日後の1793年9月15日にナポリを離れるが、この時点で、彼は彼女に対して恋愛感情を既に抱いていたようである。
| トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar → 2022年4月18日 / 4月24日付ブログで紹介済)における 英国勝利を伝える新聞(タイムズ紙)とホレーショ・ネルソン提督 - 地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の ベイカールーライン(Bakerloo Line)のプラットフォームの壁に描かれている。 <筆者撮影> |
レディー・エマ・ハミルトンは、1786年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの愛人となり、1791年に正式な妻となっていたが、2人の間には、まだ子供が居なかった。
子供を熱望をしていたレディー・エマ・ハミルトンは、夫のサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンに対して、彼女が1780年(15歳)に第2代準男爵サー・ヘンリー・フェザーストノー(Sir Henry Fetherstonhaugh, 2nd Baronet:1754年ー1846年)の愛人として産んだ娘エマ・カルー(Emma Carew)を、自分の母親の姪として、ナポリへ呼び寄せることを要望するが、残念ながら、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンは、これを認めなかった。
その結果、5年後の1798年9月22日、ホレーショ・ネルソンがナポリを再訪した際、事態は大きく動き出したのである。


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