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| バーナードストリート側からダウニングコートを見上げたところ <筆者撮影> |
英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)と弟のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)の2人は、1911年11月、より広い家を求めて、ロンドンの中心部にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のフィッツロヴィア地区(Fitzrovia)内に所在するフィッツロヴィア(Fitzrovia)の端正なフィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square → 2026年6月6日 / 6月11日付ブログで紹介済)からロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camdenブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在するブランズウィックスクエア(Brunswick Square → 2026年6月23日付ブログで紹介済)の家へ引っ越した。
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| ナショナルポートレイトギャラリー (National Portrait Gallery)で販売されている ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書 (by George Charles Beresford / 1902年7月 / platinum print / 152 mm x 108 mm) |
引越後、ヴァージニア・ウルフと弟のエイドリアンの2人は、著述家や芸術家の知的サークルである「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」のメンバーのうち、
*ダンカン・ジェイムズ・コロウ・グラント(Duncan James Corrowr Grant:1885年ー1978年)- 英国の画家 / 織物・陶芸・舞台美術・服飾デザイナー
*レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年)- 英国の作家 / 出版業者 / 公務員
*初代ケインズ男爵ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes, 1st Baron Keynes:1883年ー1946年)- 英国の経済学者
の3人を下宿人 / 間借り人として招き、同居している。
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| ヴァージニア・ウルフが住んでいた家は、 ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎の非常口の辺りに建っていたと思われる。 <筆者撮影> |
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| ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎の非常口の右側の外壁に、 1911年から1912年にかけて、ヴァージニア・ウルフ達がここに住んでいたことを示す プラークが掛けられている。 <筆者撮影> |
ヴァージニア・ウルフは、レナード・シドニー・ウルフと結婚する1912年までの間、ブランズウィックスクエアの家に住んでいた。
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| ヴァージニア・ウルフが住んでいた家の跡地には、現在、 ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎が立っている。 <筆者撮影> |
ヴァージニア・ウルフが住んでいたブランズウィックスクエアの家は現存せず、現在は、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)薬学部(School of Pharmacy - 住所:ブランズウィックスクエア29-39番地)の校舎が、その場所に建っている。
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| ブランズウィックスクエアガーデンズ内の案内板 <筆者撮影> |
ヴァージニア・ウルフが住んでいたブランズウィックスクエアの家は、ブランズウィックスクエアガーデンズ(Brunswick Square Gardens → 2026年6月28日付ブログで紹介済)に面しているが、同ガーデンズを挟んだ反対側に、サー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年)が住んでいた。
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| 「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。 |
サー・ジェイムズ・マシュー・バリーは、スコットランドのキリミュア(Kirriemuir)生まれの劇作家/童話作家で、「ピーターパン(Peter Pan)」シリーズ等の作者として有名である。
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| バーナードストリート側からダウニングコートを見たところ <筆者撮影> |
シャーロック・ホームズシリーズの作者であるサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)と同じスコットランドの出身で、彼の友人であった。その関係で、ジェイムズ・バリーが創設したアマチュアのクリケットチーム(Allahakbarries)に、コナン・ドイルも所属していた。
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| グレンヴィルストリート側からダウニングコートを見上げたところ <筆者撮影> |
1860年、織工の父と石工の娘の母の下、彼は10人兄弟の9番目として出生(なお、そのうちの2人は、彼が生まれる前に既に死亡)。
彼の家族は彼に聖職者になってほしいと願ったが、彼は作家になりたいという希望が強く、エディンバラ大学(University of Edinburgh)に入学し、文学を専攻。
1882年に大学を卒業した後は、ノッティンガムの新聞社(Nottingham Journal)に勤めながら、雑誌への寄稿等を行った。そして、1885年に彼はロンドンへ行き、文筆業に専念した。
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| グレンヴィルストリート側からダウニングコートを見たところ <筆者撮影> |
その際、ジェイムズ・バリーは、ブランズウィックスクエアガーデンズの南西の角、東西に延びるバーナードストリート(Bernard Street)と南北に延びるグレンヴィルストリート(Grenville Street)が交差する場所に、1885年から1888年までの間、住んでいた。
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| バーナードストリート側にある ダウニングコートの1階外壁に、プラークが掛けられている。 <筆者撮影> |
現在、この場所には、「ダウニングコート(Downing Court)」と言うフラットが建っており、バーナードストリートに面した建物の1階外壁に、「サー・ジェイムズ・マシュー・バリーが、1885年から1888年までの間、ここに住んでいた」ことを示す Marchmont Association のプラークが掛けられている。
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| バーナードストリート側にあるダウニングコートの1階外壁に掛けられているプラークには、 「ピーターパン」の作者であるサー・ジェイムズ・マシュー・バリーが、 1885年から1888年までの間、ここに住んでいたと記されている。 <筆者撮影> |
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| サー・ジェイムズ・マシュー・バリーが、1885年から1888年までの間、住んでいた場所には、 現在、「ダウニングコート」と言うフラットが建っており、 入口はグレンヴィルストリート側に面している。 <筆者撮影> |
1888年に発表した「オールドリヒト物語(Auld Licht Idylls)」で成功をおさめ、一躍有名となった彼は劇作家としても活動するようになる。
1891年、彼にとって3作目の劇で知り合った女優メアリー・アンセル(Mary Ansell)と1894年7月9日に彼の出生地であるキリミュアで結婚する。1893年から1894年にかけて、彼は体調が優れず、メアリーは彼の家族と一緒に彼の看病を行い、彼の体調が回復したことに伴い、結婚式が行われたのである。
1895年に、バリー夫妻はサウスケンジントン地区(South Kensington)内にあるグロースターロード(Gloucester Road)沿いに家を購入したが、彼がよく散歩に出かけるケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens → 2026年1月31日付ブログで紹介済)からかなり距離があった。
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| ケンジントンガーデンズ内に設置されている案内板 - ウェストキャレッジドライブ(West Carriage Drive → 2024年11月5日付ブログで紹介済)が、 ハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)と ケンジントガーデンズを東西に分ける境界線となっている。 <筆者撮影> |
そのため、1900年に、バリー夫妻はケンジントンガーデンズの北側のベイズウォーターロード(Bayswater Road → 2026年1月30日付ブログで紹介済)沿いの家を購入して、移り住んだ。この家がベイズウォーターロード100番地(100 Bayswater Road → 2015年7月25日付ブログで紹介済)の建物で、東西に延びるベイズウォーターロードと南北に延びるレンスターテラス(Leinster Terrace)が交差する北西の角に建っている。ジェイムズ・バリーの希望通り、ベイズウォーターロード100番地の家からケンジントンガーデンズを一望することが可能な上、ベイズウォーターロードを横切れば、ケンジントンガーデンズは目と鼻の先という立地条件であった。
| レンスターテラスの入口から見たベイズウォーターロード100番地の建物 <筆者撮影> |
ジェイムズ・バリーは、このベイズウォーターロード100番地をベースにして、以下の有名な作新を執筆している。
*「小さな白い鳥(The Little White Bird)」(1902年)- 第13章から第18章にピーターパンが初めて登場。
*戯曲「ピーターパンー大人になりたがらない少年(Peter Pan, or The Boy Who Wouldn't Grow Up)」(1904年)
*「ケンジントン公園のピーターパン(Peter Pan in Kensington Gardens)」(1906年)
*「ピーターパンとウェンディー(Peter and Wendy)」(1911年)
| ベイズウォーターロード100番地の建物には、 サー・ジェイムズ・バリーがここに住んでいたことを示す London City Council のプラークが掛けられている。 <筆者撮影> |
これらの作品は、彼がよく散歩していたケンジントンガーデンズで1897年に知り合ったディヴィス夫妻とその息子達(5人兄弟)のうち、ディヴィス夫人のシルヴィア(Sylvia Davies:1866年ー1910年)と彼女の長男ジョージ・ディヴィス(George Davies:1893年ー1915年)がモデルとなっていると一般に言われている。
1908年に、妻メアリーは夫の友人であるギルバート・キャナン(Gilbert Cannan)と不倫関係になり、これが1909年7月にジェイムズ・バリーの知るところとなる。当初、彼は妻メアリーに不倫関係を止めるよう説得するが、彼女はこれを拒否したため、最終的には、妻の不貞行為を理由にして、1909年10月に、彼は妻と離婚する。
上記の離婚後、彼はベイズウォーターロード100番地を彼の友人で南極探検家だったロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott:1868年ー1912年)の未亡人キャスリーン・ブルース(Kathleen Bruce:彫刻家)に売却してしまう。
仲が良かったディヴィス夫妻の死亡(夫アーサー:1907年+夫人シルヴィア:1910年)に伴い、ジェイムズ・バリーは、ディヴィス夫妻の子供2人を養子にする。アーサーの死亡後から、彼はシルヴィア夫人への財政的な援助を始めている(ピーターパン関係の著作による収入が充分にあり、シルヴィア夫人への財政的な援助には全く問題なかった)が、こういった彼の行動が妻メアリーの不貞行為につながった要因の一つではないかと、個人的には思う。
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| ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その1) <筆者撮影> |
| ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その2) <筆者撮影> |
1912年5月に、ジェイムズ・バリーは、ケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズ(Italian Gardens)の南側にある湖ザ・ロング・ウォーター(The Long Water)の西岸に、養子マイケル(Michael Davies:1900年ー1921年 ディヴィス夫妻の四男)をモデルにしたピーターパンの像(Peter Pan Statue)を建てた。
実際には、彫刻家サー・ジョージ・フランプトン(Sir George Frampton)は別の子供をモデルにして、ピーターパンの像を制作したため、ジェイムズ・バリーを大いに失望させた。彼によると、「ピーターパンの中に悪魔が表現されていない。(It doesn't show the devil in Peter.)」とのこと。
| ケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズの南側にあるザ・ロング・ウォーター <筆者撮影> |
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| ケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズの南側にある 湖ザ・ロング・ウォーターの西岸に建つピーターパンの像 <筆者撮影> |
悪いことは続き、ディヴィス夫妻の長男ジョージは、1915年に第一次世界大戦(1914年ー1918年)において死亡した上、四男のマイケルは、1921年に21歳の誕生日まであと1ヶ月を控えた20歳の若さで、オックスフォード(Oxford)の近くにある湖で友人(同性愛の相手と思われる)と一緒に溺死したため、ジェイムズ・バリーを非常に悲しませたのである。

















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