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ギルドホールアートギャラリー (Guildhall Art Gallery → 2025年5月13日 / 5月18日 / 5月23日 / 5月28日付ブログで紹介済)に 所蔵 /展示されているエドワード7世の胸像(その1) < By Walter Merrett(1873年ー1911年)/ 1902年 / Marble > |
後にサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝(House of Saxe-Coburg and Gotha)の初代英国国王 / インド皇帝であるエドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年)となるアルバート・エドワード(Albert Edward)と女優のネリー・クリフデンの交際報道が、1861年11月のある日、外国の大衆紙上に掲載され、父のアルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)は、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)から呼び出しを受ける。当時、ケンブリッジ大学の総長でもあったアルバート公は、風邪気味で体調が悪かったにもかかわらず、無理を押して、アルバート・エドワードが居住するケンブリッジ(Cambridge)へと向かった。
これが原因となり、ケンブリッジからウィンザー(Windsor)へと戻って来たアルバート公は、腸チフスを併発して、同年12月14日に崩じてしまう。まだ42歳の若さだった。
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ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、 英国のロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手(その3)- 画面右側の人物がヴィクトリア女王で、 画面左側の人物が馬係のジョン・ブラウン(John Brown:1826年ー1883年) |
夫のアルバート公を亡くしたハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王で、かつ、初代インド女帝であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)の悲しみは深く、その後、10年以上にわたって、隠遁生活を始めた。
ヴィクトリア女王は、ワイト島(Isle of Wight)にある英国王室の離宮オズボーンハウス(Osborne House)やスコットランド(Scotland)アバディーンシャー(Aberdeenshire)にあるバルモラル城(Balmoral Castle)等に隠遁して、ロンドンへは滅多に出てこなくなった。国の儀式にも出席せず、社交界に顔を出すこともなくなった。偶に人前に姿を見せる場合でも、常に喪服姿だった。
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ギルドホールアートギャラリーに 所蔵 /展示されているアレクサンドラ・オブ・デンマークの胸像(その1) < By Walter Merrett(1873年ー1911年)/ 1904年 / Marble > |
ヴィクトリア女王は、息子を早く一人前にするために、夫アルバート公の死去から約1年後の1863年3月に、アルバート・エドワードをデンマーク王女のアレクサンドラ・オブ・デンマーク(Alexandra of Denmark:1844年ー1925年 / デンマーク国王クリスチャン9世の娘)と結婚させた。
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ギルドホールアートギャラリーに 所蔵 /展示されているエドワード7世の胸像(その2) < By Walter Merrett(1873年ー1911年)/ 1902年 / Marble > |
その一方で、「バーティー(Bertie - アルバート・エドワードの愛称)が、愛する夫を殺したのだ。こんな不肖の息子に、自分の後を継がせたくない。」と思ったヴィクトリア女王は、以降、アルバート・エドワードを疎むようになり、意図的に公務から遠ざけ、貴族院議員で枢密院顧問官にもなっていた息子が政治に関与することを頑なに拒んだ。
ヴィクトリア女王による隠遁生活が続く中、本来であれば、ウェールズ公(Prince of Wales)であるアルバート・エドワードが公務を代行すべきところであったが、彼は「生殺し」状態におかれたのである。その結果、アルバート・エドワードは、愛人を囲い、また、パリでの社交生活に浸るようになっていく。
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ギルドホールアートギャラリーに 所蔵 /展示されているアレクサンドラ・オブ・デンマークの胸像(その2) < By Walter Merrett(1873年ー1911年)/ 1904年 / Marble > |
アルバート・エドワードには、母のヴィクトリア女王も認めていた唯一の美点として、社交好きで、人当たりがよいことがあり、この時期、その美点が発揮される。
(1)
1866年11月、ロシア皇子であるアレクサンドル(1845年ー1894年 → 後のロマノフ朝第13代ロシア皇帝アレクサンドル3世(在位期間:1881年ー1894年)とデンマーク王女であるマリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマー(Marie Sophie Frederikke Dagmar:1847年ー1928年)の結婚式に出席するために、訪露。
マリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマーは、アルバート・エドワードの妻となったアレクサンドラ・オブ・デンマークの妹だった。
アルバート・エドワードは、母のヴィクトリア女王の反対を押し切って、ペテルブルク(Petersburg)へと出向き、ロマノフ朝第12代ロシア皇帝であるアレクサンドル2世(1818年ー1881年 在位期間:1855年ー1881年)が駅まで彼を出迎えると言う異例の歓迎であった。
こうして、クリミア戦争(Crimean War:1853年ー1856年)以降、険悪な状態になった英国とロシアの関係修復を行ったのである。
(2)
1867年6月、フランス第二帝政の皇帝であるナポレオン3世(Napoleon III:1808年ー1873年 在位期間:1852年ー1870年)が国運を賭けて開催した「パリ万国博覧会(Exposition Universelle de Paris 1867)」にも、隠遁中のヴィクトリア女王に代わって出席して、ロマノフ朝第12代ロシア皇帝であるアレクサンドル2世にガーター勲章(Order of the Garter)を授与することに尽力、ロシア皇室との更なる親善を図った。
1864年、妻アレクサンドラ・オブ・デンマークの母国であるデンマークとプロイセン / オーストリアの間に、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発したため、アルバート・エドワードは、ロンドンにおいて、仲裁会議を開催したものの、残念ながら、失敗に終わり、最終的に、デンマークはシュレースヴィヒとホルシュタインを失う。
これを契機となり、アルバート・エドワードとアレクサンドラ・オブ・デンマークは、反プロイセン派となっていたが、アルバート・エドワードは、同じく「パリ万国博覧会」に出席していたプロイセン国王とも、旧交を温めた。
(3)
1869年1月から、エジプト、トルコとギリシャの3ヶ国を訪問。
上記の通り、ヨーロッパ国際政治の「王室外交」と言う分野において、アルバート・エドワードは、自分の美点を遺憾なく発揮したのである。

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