2025年2月14日金曜日

ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth)- その3

2016年に英国の Faber & Faber 社から出版された
ウィリアム・ワーズワース詩集の裏表紙
<Poems selected by Seamus Heaney>
(Series design by Faber
 / Illustration : Glenn Tomkinson
) 

 

英国のロマン派詩人で、批評家 / 哲学者でもあるサミュエル・テイラー・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge:1772年ー1834年)との親交と妹のドロシー(Dorothy Wordsworth:1771年ー1855年)との再会 / 同居が契機となり、次第に精神的な危機(モラルクライシス)から立ち直ったウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth:1770年ー1850年)は、1798年にサミュエル・テイラー・コールリッジとの共著「抒情民謡集(Lyrical Ballads)」を刊行して、英国のロマン主義運動(Romantic movement)の先駆けとなる。


その後、同年の秋から1799年の秋にかけて、ウィリアム・ワーズワースは、サミュエル・テイラー・コールリッジと妹のドロシーと一緒に、ドイツを旅行。

精神的な危機からの立ち直りが完全ではなかったウィリアム・ワーズワースは、妹のドロシーと一緒に、英国に帰国。幼馴染で、後に結婚することになるメアリー・ハッチンスン(Mary Hutchinson)の家族が経営するダラム郡の農場に滞在した後、同年12月末に湖水地方(Lake District → 2024年12月21日付ブログで紹介済)のグラスミア湖(Lake Grasmere)近くにあるタウンエンド(Town End)に居を構えた。この住居が、後に「ダヴコテージ(Dove Cottage)」と呼ばれることになる。


筆者が所有している株式会社 昭文社が出版した
「マップルマガジン イギリス」(1998年1月15日発行)から抜粋


翌年の1800年になると、サミュエル・テイラー・コールリッジと英国のロマン派詩人であるロバート・サウジー(Robert Southey:1774年ー1843年)の2人が、湖水地方北部の中心地ケジック(Keswick)のグレタホール(Greta Hall)へと転居して来た。

ウィリアム・ワーズワース、サミュエル・テイラー・コールリッジとロバート・サウジーの3人は、「湖水詩人(Lake Poets)」として知られるようになる。特に、ウィリアム・ワーズワースの場合、「二巻詩集(Poems in Two Volumes)」を出版する1807年までの間に、傑作と呼ばれる中 / 小品詩を多く生み出している。


1802年のアミアンの和約(Peace of Amiens)により、英仏間の往来が可能になったことに伴い、ウィリアム・ワーズワースは、妹のドロシーと一緒に、フランスへ向かい、アネット・ヴァロン(Annette Vallon)と娘のキャロライン(Caroline)と再会。この旅を経て、アネット・ヴァロンとの関係清算と娘キャロラインの養育費支払にかかる話し合いが決着。


フランスから帰国したウィリアム・ワーズワースは、同年10月4日、幼馴染のメアリー・ハッチンスンと結婚。

その後、ワーズワース夫妻は、5人の子供に恵まれる。


(1)長男ジョン(John Wordsworth:1803年ー1875年)

(2)長女ドーラ(Dora Wordsworth:1804年ー1847年)

(3)次男トーマス(Thomas Wordsworth:1806年ー1812年)

(4)次女キャサリン(Catherine Wordsworth:1808年ー1812年)

(5)三男ウィリアム(William Wordsworth:1810年ー1883年)


妹のドロシーは、生涯、兄夫婦と彼らの子供達との同居を続けた。


ウィリアム・ワーズワースは、1807年に、サミュエル・テイラー・コールリッジとの共著「抒情民謡集(Lyrical Ballads)」(1798年)以降の抒情詩を収録した「二巻詩集」を出版。「二巻詩集」には、彼の傑作詩が数多く含まれており、後に彼が評価されることになる。


1802年に幼馴染のメアリー・ハッチンスンと結婚して、5人の子宝に恵まれたウィリアム・ワーズワースではあったが、経済的な窮乏が続いており、ワーズワース夫妻は、生活の拠点を「ダヴコテージ」から転々とする中、1812年に次男トーマス(享年:6歳)と次女キャサリン(享年:3歳)の2人を相次いで失くしている。


今まで非常に良好な関係を築いていたウィリアム・ワーズワースとサミュエル・テイラー・コールリッジであったが、サミュエル・テイラー・コールリッジが持病のリウマチ熱の痛み止めのために使用していた阿片への依存を増し始めたことが要因となり、1810年頃から、2人は次第に不仲となっていったのである。


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