![]() |
英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている アガサ・クリスティー作エルキュール・ポワロシリーズ 「杉の柩」のペーパーバック版表紙 |
アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表したエルキュール・ポワロシリーズ作品「杉の柩(Sad Cypress)」において引用されているウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth:1770年ー1850年)の詩について、今回、紹介したい。
なお、本作品は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第27作目に該り、エルキュール・ポワロシリーズの長編のうち、第18作目に該っている。
「杉の柩」の原題である「Sad Cypress」は、イングランドの劇作家 / 詩人であるウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare:1564年ー1616年 → 2023年5月19日付ブログで紹介済)作の喜劇「十二夜(Twelfth Night, or What You Will → 2023年6月9日付ブログで紹介済)」(1601年 / 1602年頃)の第2幕第4場に出てくる歌詞が由来となっていることに関しては、2023年11月24日付ブログで紹介済。
「杉の柩」は、以下の通り、三部構成になっている。
<第一部:事件編>
婚約中のエリノア・カーライル(Elinor Carlisle)とロデリック・ウェルマン(Roderick Welman)の2人が、見舞いのため、金持ちの未亡人であるローラ・ウェルマン(Mrs. Laura Welman)が住むハンターベリー(Hunterbury)の屋敷を訪れるところから、物語が始まる。
ローラ・ウェルマンは60歳過ぎで、脳溢血により、寝たきりの状態だった。
エリノア・カーライルは、ローラ・ウェルマンの姪(ローラ・ウェルマンの兄の娘)に、また、ロデリック・ウェルマンは、ローラ・ウェルマンの義理の甥(ローラ・ウェルマンの夫ヘンリー(30年以上前に死去)の甥)に該る。
その際、ロデリック・ウェルマンは、ウェルマン家の門番の美しい娘であるメアリー・ジェラード(Mary Gerrard)に心を奪われて、エリノア・カーライルから気持ちが離れていってしまう。
気持ちが離れてしまったロデリック・ウェルマンに対する嘆きを募らせたエリノア・カーライル、ロデリック・ウェルマン、そして、メアリー・ジェラードの三角関係が展開し、第一部の最後に、メアリー・ジェラードが多量のモルヒネにより毒殺される事件が発生するまでが描かれる。
<第二部:捜査編>
ローラ・ウェルマンの主治医で、エリノア・カーライルに対して想いを寄せるピーター・ロード医師(Dr. Peter Lord)からの依頼を受け、メアリー・ジェラード毒殺の容疑により、警察に逮捕されたエリノア・カーライルの濡れ衣を晴らすべく、エルキュール・ポワロが、事件の関係者を一人一人訪ねて回って、詳細な証言を引き出していく。そして、第二部の最後には、各人の証言には、嘘がいろいろと含まれており、綻びが少しずつ判明する。
<第三部:解決編>
メアリー・ジェラード毒殺の容疑で起訴されたエリノア・カーライルの裁判において、驚くべき真相が明らかにされ、メアリー・ジェラードを毒殺した真犯人が誰なのかを、エルキュール・ポワロが説明する。
上記の「第二部:捜査編」において、エルキュール・ポワロは、エリノア・カーライルの元婚約者であるロデリック・ウェルマンの元を訪れる。
その際、エルキュール・ポワロは、ロデリック・ウェルマンに対して、ウィリアム・ワーズワースの詩の一節である
「きみ、今、墓所にねむる、わが心永久にかき暮れ、日の色もむなし(But she is in her grave, and, oh, The difference to me!)」(早川書房のクリスティー文庫18「杉の柩」(恩地三保子訳))
を引用するとともに、「ウィリアム・ワーズワースの詩は、よく読むんです。」と付け加えている。
上記の詩は、ウィリアム・ワーズワースによる「ルーシーは、訪れる人もない地で孤独に暮らしていた(She dwelt among the untrodden ways)」の末節部分で、次回、全文を紹介する予定。
ウィリアム・ワーズワースは、英国の代表的なロマン派詩人で、湖水地方(Lake District → 2024年12月21日付ブログで紹介済)をこよなく愛し、グラスミア湖(Lake Grasmere)畔の小さな村であるグラスミア(Grasmere)の外れに建つダヴコテージ(Cove Cottage)に、1799年から1808年までの10年間、一家と妹のドロシー(Dorothy Wordsworth:1771年ー1855年)と一緒に住んだ。湖水地方の自然を称賛した彼の作品の大半は、ここで書かれたと言われている。

0 件のコメント:
コメントを投稿