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2016年に英国の Faber & Faber 社から出版された 「ウィリアム・ワーズワース詩集」<Poems selected by Seamus Heaney>に収録されている 「ルーシー詩篇」の1篇である 「She dwelt among the untrodden ways(ルーシーは、訪れる人もない地で孤独に暮らしていた)」 |
アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表したエルキュール・ポワロシリーズ作品「杉の柩(Sad Cypress)」の「第二部:捜査編」において、婚約していたロデリック・ウェルマン(Roderick Welman)の心を奪ってしまったウェルマン家の門番の美しい娘であるメアリー・ジェラード(Mary Gerrard)をモルヒネで毒殺した容疑により、警察に逮捕されたエリノア・カーライル(Elinor Carlisle)の無実を証明するべく、エルキュール・ポワロは、事件の関係者達の元を一人一人訪ねて行く。
エルキュール・ポワロが、エリノア・カーライルの元婚約者であるロデリック・ウェルマンの元を訪れた際、英国の代表的なロマン派詩人であるウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth:1770年ー1850年)の詩「ルーシーは、訪れる人もない地で孤独で暮らす(She dwelt among the untrodden ways)」の一節を引用している。
今回、詩「She dwelt among the untrodden ways(ルーシーは、訪れる人もない地で孤独に暮らしていた)」について、全文と筆者による日本語訳を紹介したい。
<詩の全文>
She dwelt among the untrodden ways
Beside the springs of Dove,
A Maid whom there were none to praise
And very few to love:
A toilet by a mossy stone
Half hidden from the eye!
- Fair as a star, when only one
Is shining in the sky.
She lived unknown, and few could know
When Lucy ceased to be;
But she is in her grave, and, oh,
The difference to me!
<筆者による日本語訳>
ルーシーは、訪れる人もない地で孤独に暮らしていた。
ダヴの泉のほとりで。
彼女は、誰からも称賛されることもなく、
そして、愛されることもほとんどなかった乙女だった。
苔生した岩の側に咲く菫(スミレ)は、
人目には付かないように、半分隠れていた。
夜空に輝くたった一つの星の如く、
彼女は美しく輝いていた。
ルーシーは、人知れず生きたため、
彼女がいつ亡くなったのかを知る者は、ほとんど居ない。
彼女は、墓の中で眠る。
ああ、なんといたましいことか!
英国のロマン派詩人で、批評家 / 哲学者でもあるサミュエル・テイラー・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge:1772年ー1834年)との親交と妹のドロシー(Dorothy Wordsworth:1771年ー1855年)との再会 / 同居が契機となり、次第に精神的な危機(モラルクライシス)から立ち直ったウィリアム・ワーズワースは、1798年にサミュエル・テイラー・コールリッジとの共著「抒情民謡集(Lyrical Ballads)」を刊行して、英国のロマン主義運動(Romantic movement)の先駆けとなる。
その後、同年の秋から1799年の秋にかけて、ウィリアム・ワーズワースは、サミュエル・テイラー・コールリッジと妹のドロシーと一緒に、ドイツを旅行した。
精神的な危機からの立ち直りが完全ではなかった彼がドイツに滞在した際に書いた「ルーシー詩篇(Lucy Poems)」の5篇のうちの1篇が、本作品に該る。
そして、本作品は、ウィリアム・ワーズワースがドイツから帰国した後に発表した「抒情民謡集」の第2版に収められた。
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筆者が所有している株式会社 昭文社が出版した 「マップルマガジン イギリス」(1998年1月15日発行)から抜粋 |
ドイツ旅行から帰国したウィリアム・ワーズワースは、1799年12月末に湖水地方(Lake District → 2024年12月21日付ブログで紹介済)のグラスミア湖(Lake Grasmere)近くにあるタウンエンド(Town End)に居を構えた。この住居が、後に「ダヴコテージ(Dove Cottage)」と呼ばれる。
これを、本作品の「ダヴ」は指していると思われる。
ウィリアム・ワーズワースは、このダヴコテージに、1799年から1808年までの10年間、妹のドロシー、そして、幼馴染で、1802年に結婚したメアリー・ハッチンスン(Mary Hutchinson)や彼らの子供達と一緒に住んだ。
湖水地方の自然を称賛した彼の作品の大半は、ここで書かれたと言われている。

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