2025年2月28日金曜日

アガサ・クリスティー作「ブラックコーヒー」<戯曲版>(Black Coffee by Agatha Christie )- その2

英国の Harper Collins Publishers 社から現在出版されていた
アガサ・クリスティー作エルキュール・ポワロシリーズ
「ブラックコーヒー」のペーパーバック版表紙 -
研究していた新しい原子爆発の方程式が盗まれた
科学者のサー・クロード・エイモリー

飲んだブラックコーヒーが入ったコーヒーカップが描かれている。


1930年にロンドン北西部のスイスコテージ(Swiss Cottage)内に所在するエンバシー劇場(Embassy Theatre)において初演されたアガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)による戯曲「ブラックコーヒー(Black Coffee)」は、以下の3幕で構成されている。。


<場所>

科学者のサー・クロード・エイモリー(Sir Claud Amory)邸の読書室


*第1幕:午後8時30分

*第2幕:翌朝

*第3幕:その15分後


科学者のサー・クロード・エイモリーは、新しい原子爆発の方程式を研究していたが、金庫からその方程式が盗まれていることを発見する。そこで、サー・クロード・エイモリーは、ロンドンのエルキュール・ポワロに電話を掛け、助力を求めた。

なお、サー・クロード・エイモリー邸は、アボットクレーヴ内に所在しており、ロンドンから約25マイル離れていた。


ポワロの到着を待つ間、サー・クロード・エイモリーは、以下の家族達を読書室に集めた。


(1)リチャード・エイモリー(Richard Amory:サー・クロード・エイモリーの息子)

(2)ルシア・エイモリー(Lucia Amory:イタリア人で、リチャード・エイモリーの妻)

(3)キャロライン・エイモリー(Caoline Amory:サー・クロード・エイモリーの妹)

(4)バーバラ・エイモリー(Barbara Amory:サー・クロード・エイモリーの姪)

(5)エドワード・レイナー(Edward Raynor:サー・クロード・エイモリーの秘書)

(6)カレリ博士(Dr. Carelli:イタリア人で、ルシア・エイモリーの旧友)


読書室に家族達を集めたサー・クロード・エイモリーは、彼らを前にして、


*彼が研究していた新しい原子爆発の方程式が、金庫から盗まれたこと

*ロンドンから私立探偵のエルキュール・ポワロを既に呼び、現在、彼の到着を待っていること


を告げる。


ルシア・エイモリーが皆にブラックコーヒーを配るが、それを飲んだサー・クロード・エイモリーは、「苦い味がする。」と話した。


サー・クロード・エイモリーは、読書室に鍵を掛けると、「部屋を真っ暗にしておく間に、原子爆発の方程式が入った封筒をテーブルの上に戻してほしい。そうすれば、このことはなかったことにする。ただし、原子爆発の方程式が入った封筒が返されない場合、容赦は一切しない。」と、彼らに勧める。


読書室の電気が点いた時、テーブルの上に、封筒が置かれていることに気付いた皆は、驚きの声を上げる。

丁度その時、サー・クロード・エイモリーに呼ばれていたポワロが、アーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)とスコットランドヤードのジャップ警部(Inspector Japp)を伴って、邸に到着。

リチャード・エイモリーが、ポワロに対して、「事件は無事解決しました。」と告げたものの、彼らが読書室に戻ったところ、サー・クロード・エイモリーは椅子に座ったままで亡くなっており、その上、テーブルの上に戻された封筒の中は空っぽだった。


サー・クロード・エイモリーの家族は、ポワロ達に対して、彼の死の捜査を依頼。

ルシア・エイモリーが配ったブラックコーヒーを飲んだサー・クロード・エイモリーが「苦い味がする。」と話していたことから、ポワロは、サー・クロード・エイモリーが飲んだブラックコーヒーに毒が入っていたものと考える。つまり、サー・クロード・エイモリーが読書室に鍵を掛けて、家族達を室内に閉じ込めた時点で、彼は既に毒を飲まされていたことになる。


果たして、サー・クロード・エイモリーが研究していた新しい原子爆発の方程式を金庫から盗んだ上に、彼を毒殺した犯人は、一体、誰なのか?

ヘイスティングス大尉とジャップ警部を助けを借りつつ、ポワロは、サー・クロード・エイモリー毒殺事件の捜査を進めるのであった。


2025年2月27日木曜日

アガサ・クリスティー作「ブラックコーヒー」<戯曲版>(Black Coffee by Agatha Christie )- その1

英国の Harper Collins Publishers 社から以前出版されていた
アガサ・クリスティー作エルキュール・ポワロシリーズ
「ブラックコーヒー」のペーパーバック版表紙 -
科学者のサー・クロード・エイモリー(Sir Claud Amory)が研究していた
新しい原子爆発の方程式が盗まれたことに端を発して、
彼が毒殺される事件が発生する。
そのため、当
ペーパーバック版表紙には、
原子モデルが描かれている。


今回は、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)による戯曲「ブラックコーヒー(Black Coffee)」について、紹介したい。

「ブラックコーヒー」の場合、エルキュール・ポワロが探偵役を務め、アーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)とスコットランドヤードのジャップ警部(Inspector Japp)も登場する。


アガサ・クリスティーは、1929年に戯曲「ブラックコーヒー」を書き始め、1930年にロンドン北西部のスイスコテージ(Swiss Cottage)内に所在するエンバシー劇場(Embassy Theatre)において初演された。

そして、翌年の1931年に、ロンドン市内のセントマーティンズ劇場(St. Martin’s Theatre → 2014年8月10日 / 2015年10月4日付ブログで紹介済)において再演された。


アガサ・クリスティーによる戯曲「ねずみとり(Mousetrap)」のロングラン公演が
行われているセントマーティンズ劇場 -
画面上は、63周年(2015年時点)であるが、
2025年2月27日時点では、73周年を既に達成済で、
同年11月25日には、74周年を迎える。


アガサ・クリスティー作品の戯曲化としては、「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd → 2023年9月25日 / 10月2日付ブログで紹介済)」(1926年)を原作とした「アリバイ(Alibi)」(1928年)が最初であるが、アガサ・クリスティー自身が執筆した戯曲としては、「ブラックコーヒー」が初作品である。


2022年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by Holly Macdonald /
Illustrations by Shutterstock.com) 


戯曲「ブラックコーヒー」は、1931年に映画化された後、1997年に、クリスティー財団(Christie estate)の許可を得て、オーストラリアのジャーナリスト / 批評家 / 詩人 / 小説家であるチャールズ・トーマス・オズボーン(Charles Thomas Osborne:1927年ー2017年)により小説化されている。


2025年2月26日水曜日

ロンドン ブルームズベリースクエア(Bloomsbury Square) - その2

ブルームズベリースクエアの西側から
ブルームズベリースクエアガーデンズ(Bloomsbury Square Gardens)越しに、
ブルームズベリースクエアの東側に建つヴィクトリアハウスを望む(その1)


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表したエルキュール・ポワロシリーズ作品「杉の柩(Sad Cypress)」において、エリノア・カーライル(Elinor Carlisle)の伯母で、金持ちの未亡人であるローラ・ウェルマン(Mrs. Laura Welman)の顧問弁護士であるエドマンド・セデン(Edmund Sedden)がパートナーの一人を務めるセドン、ブレイザーウィック・アンド・セドン法律事務所の住所として、「ブルームズベリースクエア104番地(104 Bloomsbury Square)」と記載されている。



セドン、ブレイザーウィック・アンド・セドン法律事務所が所在するブルームズベリースクエア(Bloomsbury Square)は、ロンドンの中心部にあるロンドン特別区の一つであるカムデン区(London  Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にある広場で、その北側を大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)の正門前を通るグレイトラッセルストリート(Great Russell Street)に、そして、その南側をブルームズベリーウェイ(Bloomsbury Way)に挟まれている。


ブルームズベリースクエアの西側から
ブルームズベリースクエアガーデンズ(Bloomsbury Square Gardens)越しに、
ブルームズベリースクエアの東側に建つヴィクトリアハウスを望む(その2)

ブルームズベリースクエアは、第4代サザンプトン伯爵トーマス・ウィリオセスリー(Thomas Wriothesley, 4th Earl of Southampton:1607年ー1667年)により、1660年代に開発されたため、当初は、サザンプトンスクエア(Southampton Square)と呼ばれた。サザンプトンスクエアは、ロンドン市内に開発された最も古いスクエアの一つである。


ブルームズベリースクエアガーデンズ内から、
ブルームズベリースクエアの東側に建つヴィクトリアハウスを望む

サザンプトン伯爵家が住むサザンプトンハウス(Southampton House)を含むサザンプトンスクエアの北側は、婚姻により、サザンプトン伯爵家からベッドフォード公爵家へと引き継がれ、サザンプトンハウスはベッドフォードハウス(Bedford House)へと変わる。

サザンプトンスクエアの他の部分には、テラスハウスが立ち並び、貴族階級や紳士階級が数多く入居。


ブルームズベリースクエアの南東の角から、
ブルームズベリースクエアの東側に建つヴィクトリアハウスを見上げたところ

19世紀初め頃には、サザンプトンスクエアは、上流階級にとって、人気がある場所ではなくなったため、当時のベッドフォード公爵は、スクエアの北側にあったベッドフォードハウスを取り壊して、更にテラスハウスを建設。スクエアの北側に新たに立てられたテラスハウスは、英国の建築家 / 不動産開発業者であるジェイムズ・バートン(James Burton:1761年ー1837年)が設計した。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手6種類の一つ -
ヴィクトリア女王から引見を受ける初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ
(彼は、当時、第二次ディズレーリ内閣(1874年ー1880年)を組閣しており、
南アフリカ連邦をまとめるべく、
1877年4月に、最後に残ったトランスヴァール共和国を併合した直後)


その結果、ブルームズベリースクエアに住むのは、貴族階級 / 紳士階級から中産階級へと変わった。

ブルームズベリースクエア6番地には、英国の作家 / 学者であるアイザック・ディズレーリ(Issac D’Israeli:1766年ー1848年)が、1817年から1829年にかけて住んだ。アイザック・ディズレーリは、英国の政治家 / 小説家で、ヴィクトリア朝の中期に、保守党の党首として、英国首相を2度務めた初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield:1804年-1881年)の父で、初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ自身も、当時、父と一緒に、ブルームズベリースクエア6番地に住んでいた。


パーラメントスクエアガーデン(Parliament Square Garden)内に建つ
初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリの銅像


20世紀に入ると、ブルームズベリースクエアを囲む建物の多くは、住居用からオフィス用へと変わる。

現在、ブルームズベリースクエアを囲む建物には、スクエアが開発された当初のものは現存せず、その多くが18世紀、もしくは、19世紀初めに建設されたものとなっている。ブルームズベリースクエアの東側を占めるヴィクトリアハウス(Victoria House)の場合、20世紀初めに建設されている。


ブルームズベリースクエアの北東の角から、
ブルームズベリースクエアの東側に建つヴィクトリアハウスを見上げたところ

なお、アガサ・クリスティーの原作上、セドン、ブレイザーウィック・アンド・セドン法律事務所の住所は「ブルームズベリースクエア104番地」となっているが、現在の住所表記上、104番地に該当する住所は存在していない。


2025年2月25日火曜日

ロンドン ドレイトンガーデンズ107番地(107 Drayton Gardens)


英国の物理学者 / 結晶学者で、DNA の二重螺旋構造の解明で知られているロザリンド・エルシー・フランクリン(Rosalind Elsie Franklin:1920年ー1958年 → 2024年12月30日付ブログで紹介済)が住んでいた家が、ロンドンの中心部にあるケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のチェルシー地区(Chelsea)内に所在している。



地下鉄サウスケンジント駅(South Kensington Tube Station)から地下鉄ウェストブロンプトン駅(West Brompton Tube Station)へ向かって南西に延びるオールドブロンプトンロード(Old Brompton Road)と、オールドブロンプトンロードの南側を同じく南西に延びるフラムロード(Fulham Road)を南北に繋ぐドレイトンガーデンズ(Drayton Gardens)と言う通りが存在している。



ドレイトンガーデンズとフラムロードが交差する角に近いドレイトンガーデンズ107番地(107 Drayton Gardens)にあるドノヴァンコート(Donovan Court - 107 Drayton Gardens, Chelsea, London SW10 9QS)と言うフラットが、それに該る。



ロザリンド・フランクリンは、1920年7月25日、ロンドンに住むユダヤ人家系の銀行家の家庭に、6人兄妹の長女として出生。

両親が裕福だったため、彼女は9歳から寄宿学校に入学して、可能な限り最高の教育を受けた。



寄宿学校を卒業した後、ロザリンド・フランクリンは、ケンブリッジ大学のニューナムカレッジ(Newnham College)に入学。当時、ケンブリッジ大学は、女性とユダヤ人の入学を認めてから、間もない頃だったが、彼女は、ニューナムカレッジをトップクラスの成績で卒業すると、大学院へと進んだ。

第二次世界大戦(1939年-1945年)中、石炭の結晶構造にかかる研究を進め、1945年(25歳)、ケンブリッジで物理化学の博士号を取得して、1947年には、パリの国立化学研究所へ留学、黒鉛の結晶構造にかかる研究を行った。



フランス留学から帰国したロザリンド・フランクリンは、1950年にロンドン大学(University of London)のキングスカレッジ(King’s College)に研究職を得ると、X線による DNA 構造の解析を研究テーマとして与えられた。

彼女は、この研究に没頭し、1953年に、DNA の螺旋構造の解明に繋がる X線回折写真の撮影に成功、これが「photo51」と呼ばれている。



ロザリンド・フランクリンは、キングスカレッジにおいて、彼女よりも前から、X線回折による DNA の構造研究を進めていたモーリス・ヒュー・フレデリック・ウィルキンス(Maurice Hugh Frederick Wilkins:1916年ー2004年 / 英国の生物物理学者)との間で、DNA の構造研究をめぐり、しばしば衝突。

モーリス・ウィルキンスは、彼女が撮影したX線回折写真を、ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所(Cavendish Laboratory)に在籍していたフランシス・ハリー・コンプトン・クリック(Francis Harry Compton Crick:1916年ー2004年 / 英国の科学者・生物学者 → 2025年1月8日付ブログで紹介済)とジェイムズ・デューイ・ワトスン(James Dewey Watson:1928年ー / 米国出身の分子生物学者 → 2025年1月19日付ブログで紹介済)に見せる。これが、DNA の二重螺旋構造解明の手掛かりへと繋がるが、後に大問題の引き金となる。


ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイクが描いた
ロザリンド・エルシー・フランクリン(一番左側の人物)、
フランシス・ハリー・コンプトン・クリック(中央の人物)および
ジェイムズ・デューイ・ワトスン(一番右側の人物)の絵葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum
→ 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入>


ロザリンド・フランクリンが撮影したX線回折写真を元に、 DNA の二重螺旋構造を解明したフランシス・クリック、ジェイムズ・ワトスンとモーリス・ウィルキンスの3人は、1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞。

ロザリンド・フランクリン自身は、1958年4月16日に、卵巣癌と巣状肺炎により、37歳で亡くなっていたため、残念ながら、ノーベル生理学・医学賞受賞の栄誉を得ることはできなかった。一説によると、X線による DNA 構造の解析のため、大量のX線を浴びたことが、彼女の癌の原因だと言われている。



ドレイトンガーデンズ107番地ドノヴァンコートの入口の右上に架けられているブループラーク(Blue Plaque)によると、「ロザリンド・フランクリンは、1951年から1958年にかけて、ここに住んでいた」と記されているので、時期的には、フランス留学から帰国した後、ロンドン大学のキングスカレッジにおいて、X線による DNA 構造の解析を始めた頃から、卵巣癌と巣状肺炎により亡くなる頃までの間と言える。 


2025年2月24日月曜日

ロンドン ブルームズベリースクエア(Bloomsbury Square) - その1

ブルームズベリースクエアガーデンズ内から
南側のブルームズベリーウェイ方面を見たところ


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表したエルキュール・ポワロシリーズ作品「杉の柩(Sad Cypress)」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第27作目に該り、エルキュール・ポワロシリーズの長編のうち、第18作目に該っている。



「杉の柩」は、以下の通り、三部構成になっている。


<第一部:事件編>

婚約中のエリノア・カーライル(Elinor Carlisle)とロデリック・ウェルマン(Roderick Welman)の2人が、見舞いのため、金持ちの未亡人であるローラ・ウェルマン(Mrs. Laura Welman)が住むハンターベリー(Hunterbury)の屋敷を訪れるところから、物語が始まる。

ローラ・ウェルマンは60歳過ぎで、脳溢血により、寝たきりの状態だった。

エリノア・カーライルは、ローラ・ウェルマンの姪(ローラ・ウェルマンの兄の娘)に、また、ロデリック・ウェルマンは、ローラ・ウェルマンの義理の甥(ローラ・ウェルマンの夫ヘンリー(30年以上前に死去)の甥)に該る。

その際、ロデリック・ウェルマンは、ウェルマン家の門番の美しい娘であるメアリー・ジェラード(Mary Gerrard)に心を奪われて、エリノア・カーライルから気持ちが離れていってしまう。

気持ちが離れてしまったロデリック・ウェルマンに対する嘆きを募らせたエリノア・カーライル、ロデリック・ウェルマン、そして、メアリー・ジェラードの三角関係が展開し、第一部の最後に、メアリー・ジェラードが多量のモルヒネにより毒殺される事件が発生するまでが描かれる。


<第二部:捜査編>

ローラ・ウェルマンの主治医で、エリノア・カーライルに対して想いを寄せるピーター・ロード医師(Dr. Peter Lord)からの依頼を受け、メアリー・ジェラード毒殺の容疑により、警察に逮捕されたエリノア・カーライルの濡れ衣を晴らすべく、エルキュール・ポワロが、事件の関係者を一人一人訪ねて回って、詳細な証言を引き出していく。そして、第二部の最後には、各人の証言には、嘘がいろいろと含まれており、綻びが少しずつ判明する。


<第三部:解決編>

メアリー・ジェラード毒殺の容疑で起訴されたエリノア・カーライルの裁判において、驚くべき真相が明らかにされ、メアリー・ジェラードを毒殺した真犯人が誰なのかを、エルキュール・ポワロが説明する。


ブルームズベリースクエアの西側に並ぶ建物のうち、
一番南側の建物である「ブルームズベリースクエア5a番地」には、
英国で最も古いロシア文化センターが入っており、
「プーシキンハウス(Pushkin Hose)」と呼ばれている。

ローラ・ウェルマンの顧問弁護士であるエドマンド・セデン(Edmund Sedden)が、「第一部:事件編」と「第二部:捜査編」に登場する。

「第一部:事件編」において、ローラ・ウェルマンの死後、エドマンド・セデン弁護士は、ハンターベリー邸を訪れ、エリノア・カーライルに対して、「ローラ・ウェルマンは、遺言をしないで、亡くなった。従って、夫人の全財産は、最も近い親族、即ち、あなた(エリノア・カーライル)に譲られる。」ことを告げる。

「第二部:捜査編」において、エルキュール・ポワロは、ロンドンのセドン、ブレイザーウィック・アンド・セドン法律事務所を訪問して、エドマンド・セデン弁護士と面談する。


ブルームズベリースクエアの西側に並ぶ建物のうち、
「ブルームズベリースクエア9−11番地」の正面玄関

「ブルームズベリースクエア9−11番地」の建物には、
英国の皮膚病学者(dermatologist)である
ロバート・ウィラン(Dr. Robert Willan:1757年ー1812年)が住んでいた。

エドマンド・セデン弁護士がパートナーの一人を務めるセドン、ブレイザーウィック・アンド・セドン法律事務所の住所として、アガサ・クリスティーの原作上、「ブルームズベリースクエア104番地(Bloomsbury Square)」と記載されている。


ブルームズベリースクエアの西側に並ぶ建物のうち、
「ブルームズベリースクエア15番地」の建物には、
パリの伝統ある料理教育機関である「ル・コルドン・ブルー」のロンドン校が、現在、入居している。


セドン、ブレイザーウィック・アンド・セドン法律事務所が所在するブルームズベリースクエア(Bloomsbury Square)は、ロンドンの中心部にあるロンドン特別区の一つであるカムデン区(London  Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にある広場である。


ブルームズベリースクエアの西側に並ぶ建物のうち、
「ブルームズベリースクエア17番地」の建物には、
German Histrorical Institute が、現在、入居している。


ブルームズベリースクエアは、その北側を大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)の正門前を通るグレイトラッセルストリート(Great Russell Street)に、そして、その南側をブルームズベリーウェイ(Bloomsbury Way)に挟まれており、その中央には、ブルームズベリースクエアガーデンズ(Bloomsbury Square Gardens)が整備されている。


2025年2月23日日曜日

アキテーヌのエレナー(Eleanor of Aquitaine) - その2

アキテーヌのエレナーが再婚した
アンジュー伯ノルマンディー公アンリは、
イングランドのヘンリー2世として即位して、
プランタジネット朝初代国王となる。
(英国の Dorling Kindersley Limited から2001年に出版された

「Kings and Queens - A Royal History of
England & Scotland」から抜粋)


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表したエルキュール・ポワロシリーズ作品「杉の柩(Sad Cypress)」において、エルキュール・ポワロとエリノア・カーライル(Elinor Carlisle)の間の会話内に出てくる「アキテーヌのエレアノール」とは、


フランス語:アリエノール・ダキテーヌ(Alienor d’Aquitaine)

英語:エリナー・オブ・アクイティン(Eleanor of Aquitaine)


と呼ばれる中世フランス王国の女性貴族で、アキテーヌ女公(1122年ー1204年 在位期間:1137年ー1204年)のことを指している。


アキテーヌ公ギヨーム10世(Guillaume X duc d’Aquitaine:1099年ー1137年 在位期間:1126年ー1137年)とシャテルロー副伯エメリー1世の娘であるアエノール・ド・シャテルロー(Aenor de Chatellerault:1103年ー1130年)の第一子長女として出生したアリエノール・ダキテーヌは、父の死去に伴い、アキテーヌ女公の地位に就く。

その後、アリエノール・ダキテーヌは、


(1)フランスのカペー朝第6第国王であるルイ7世(Louis VII:1120年ー1180年 在位期間:1137年ー1180年)の王妃(1137年8月1日ー1152年3月21日)


そして、


(2)イングランドのプランタジネット朝初代国王であるヘンリー2世(Henry II:1133年ー1189年 在位期間:1154年ー1189年)の王妃(1154年12月19日ー1189年7月6日)


となった。

彼女の子孫が欧州各地の君主や妃となったことから、「ヨーロッパの祖母」と呼ばれている。


ルイ7世の王妃となったアリエノール・ダキテーヌは、1147年の第2回十字軍(1145年ー1149年)時に、アキテーヌ軍を引き連れて、夫ルイ7世と一緒に参加したが、失敗に終わったことにより、2人の間に亀裂が入る。そして、1152年3月21日に、2人は離婚。


ルイ7世との離婚後、領地へ帰還したアリエノール・ダキテーヌは、約2ヶ月後の1152年5月18日に、アンジュー伯ノルマンディー公アンリと再婚し、翌年の1153年8月17日に長男ウィリアムを出産。

1154年10月25日、アンジュー伯ノルマンディー公アンリは、イングランド王を継承して、ヘンリー2世となる。アリエノール・ダキテーヌは、夫ヘンリー2世 / 長男ウィリアムと一緒にイングランドに上陸し、同年12月19日に戴冠。アンジュー伯ノルマンディー公アンリがイングランド王のヘンリー2世として戴冠したことに伴い、フランス国土の半分以上がイングランド領となり、後の百年戦争(Hundred Years’ War:1337年ー1453年)の遠因となった。


アリエノール・ダキテーヌは、再婚したヘンリー2世との間に、以下の5男3女の8人の子を儲け、夫と一緒に、領土を統治するとともに、アンジュー帝国の拡大に務めた。


(1)ウィリアム(1153年ー1156年)

(2)ヘンリー(1155年ー1183年)

(3)マティルダ(1156年ー1189年)

(4)リチャード(1157年ー1199年)

(5)ジェフリー(1158年ー1186年)

(6)エレノア(1162年ー1214年)

(7)ジョーン(1165年ー1199年)

(8)ジョン(1166年ー1216年)


アリエノール・ダキテーヌが5男であるジョンを出産する頃から、ヘンリー2世と彼女の夫婦は不仲となる。これは、夫ヘンリー2世に愛妾であるロザモンド・クリフォード(Rosamund Clifford:1140年頃ー1176年頃)ができたことに加えて、オックスフォードシャー州(Oxfordshire)のウッドストック宮殿(Woodstock Palace)に彼女を引き入れて、堂々と囲うようになったためである。


アリエノール・ダキテーヌは、1174年1月、ヘンリー2世に捕らえられ、約15年にわたり、イングランドにおいて軟禁された。

アリエノール・ダキテーヌには、夫ヘンリー2世の愛妾ロザモンド・クリフォードが囲われているウッドストック宮殿へと押し掛け、ロザモンド・クリフォードに対して、剣、もしくは、毒杯のいずれかによる自決を迫ったとする伝承が残っているものの、ロザモンド・クリフォードが死去した時期とされる1176年の時点で、アリエノール・ダキテーヌは、ヘンリー2世により幽閉中であり、事実ではないと考えられている。


従って、アガサ・クリスティー作「杉の柩」の「第二部:捜査編」において、エルキュール・ポワロと勾留中のエリノア・カーライルの間で交わされた


「では、先へまいりましょう。次はなんですか?」

「私、食器室(パントリー)におりて、サンドイッチを切りました」

ポワロはやさしく言った。「そして、考えたー何を?」

エリノアの瞳がきらっと光った。「わたしの名前の由来をですわ。アキテーヌのエレアノールです。」

「よくわかりました。」

「おわかりになります?」

「わかりますとも。その話は知っています。うるわしきロザモンドに、剣か毒杯かをえらばせましたね、彼女は。ロサモンドは毒杯をとったのでした。」

エリノアは口を閉じ、蒼白になっていた。


<出展:早川書房のクリスティー文庫18「杉の柩」(恩地三保子訳)>


の会話は、伝承に基づいたものであると言える


2025年2月20日木曜日

アガサ・クリスティー作「杉の柩」<英国 TV ドラマ版>(Sad Cypress by Agatha Christie )- その4

日本の株式会社 早川書房から出ている
クリスティー文庫18「杉の柩」の表紙
 < Photograph : HIROAKI OTA / amana images
Cover Design : Hayakawa Design >

英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、「Agatha Christie’s Poirot」の第51話(第9シリーズ)として、2003年12月26日に放映されたアガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作杉の柩(Sad Cypress)」(1940年)の TV ドラマ版の場合、原作対比、以下のような差異が見受けられる。


(17)

<原作>

ピーター・ロード医師(Dr. Peter Lord - ローラ・ウェルマン(Mrs. Laura Welman - 富豪の未亡人)の主治医)からの依頼を受けたエルキュール・ポワロは、勾留中のエリノア・カーライル(Elinor Carlisle - ローラ・ウェルマンの姪)と面会するために、マーズデン警部(Inspector Marsden)に仲介を頼んでいる。

<英国 TV ドラマ版>

マーズデン警部に仲介を頼んだのかどうかについては言及されていないものの、エルキュール・ポワロは、勾留中のエリノア・カーライルと無事面会できている。


(18)

<原作>

エルキュール・ポワロは、勾留中のエリノア・カーライルと面会する前に、事件の関係者達への訪問を既に済ませている。

<英国 TV ドラマ版>

エルキュール・ポワロは、勾留中のエリノア・カーライルとの面会を済ませてから、事件の関係者達への訪問を始めている。


(19)

<原作>

依頼者であるピーター・ロード医師を除くと、エルキュール・ポワロによる事件の関係者達への訪問は、以下の順番。

*ジェシー・ホプキンズ(Jessie Hopkins - ローラ・ウェルマンの看護婦)

*エマ・ビショップ(Emma Bishop - ウェルマン家の召使頭)

テッド・ビグランド(Ted Bigland - 農場を営むルファス・ビグランドの息子で、ヘンダースンが経営する自動車整備工場に勤務する青年

*ロディー・ウェルマン(Roddy Welman - ローラ・ウェルマンの亡き夫の甥 / エリノア・カーライルの従兄で、彼女の元婚約者)

*エドマンド・セドン(Edmund Seddon - ローラ・ウェルマンの弁護士)

*アイリーン・オブライエン(Eileen O’Brien - ローラ・ウェルマンの看護婦)

ホーリック(Horlick - ウェルマン家の庭師)

<英国 TV ドラマ版>

依頼者であるピーター・ロード医師を除くと、エルキュール・ポワロによる事件の関係者達への訪問は、以下の順番。

*ジェシー・ホプキンズ

*テッド・ホーリック(Ted Horlick - ウェルマン家の庭師)

*ロディー・ウィンター(Roddy Winter)

*アイリーン・オブライエン

原作におけるテッド・ビグランドとホーリックの2人が、英国 TV ドラマ版の場合、テッド・ホーリックと言う一人の人物に統合されている。

エリノア・カーライルの婚約者は、原作の場合、ロディー・ウェルマンになっているが、英国 TV ドラマ版の場合、ロディー・ウィンターに変更されている。

また、英国 TV ドラマ版の場合、原作に比べると、ウェルマン家の召使頭であるエマ・ビショップの出番は、非常に少ない。


(20)

<原作>

海外(フランス等)へ出ていたロディー・ウェルマンは、自分のアリバイとして、当初、「8月1日に英国へ戻って来た。」と嘘をついていたが、パスポートの記録を調べたエルキュール・ポワロに対して、「ロンドンに居るメアリー・ジェラード(Mary Gerrard - ウェルマン家の門番の娘)に会うために、早めに戻って来た。」ことを白状する。

<英国 TV ドラマ版>

ロディー・ウィンターは、エルキュール・ポワロ に対して、最初から、「メアリー・ジェラードにプロポーズするために、早めに英国へ戻って来た。」と告げている。


(21)

<原作>

エリノア・カーライルに対して、メアリー・ジェラード毒殺事件にかかる判決が下される前に、真犯人が明らかにされ、無罪となる。

<英国 TV ドラマ版>

真犯人が明らかにされる前に、エリノア・カーライルに対して、メアリー・ジェラード毒殺事件にかかる有罪判決が下されて、絞首刑が宣告される。


(22)

<原作>

エルキュール・ポワロが勾留中のエリノア・カーライルと面会するのは、1回のみ。

<英国 TV ドラマ版>

エルキュール・ポワロが勾留中のエリノア・カーライルと面会するのは、有罪判決前と有罪判決後の2回。


(23)

<原作>

法廷において、メアリー・ジェラードを毒殺した真犯人が明らかにされ、事件は解決する。

<英国 TV ドラマ版>

エルキュール・ポワロ は、ハンターベリー邸(Hunterbury)に、事件の関係者であるピーター・ロード医師、ロディー・ウィンター、アイリーン・オブライエン、そして、ジェシー・ホプキンズを呼んで、メアリー・ジェラードを毒殺した真犯人が明らかにする。


(24)

<原作>

メアリー・ジェラードを毒殺した真犯人は、法廷から逃げた後、行方不明となり、その後、警察に逮捕されたのかどうかについては、言及されていない。

<英国 TV ドラマ版>

メアリー・ジェラードを毒殺した真犯人は、エルキュール・ポワロを毒殺しようとしたが、ポワロに見抜かれてしまい、彼の殺害計画は不成功に終わる。そこへ踏み込んだ来たマーズデン警部を初めとする警察に逮捕される。


そして、絞首刑が執行される直前に、エリノア・カーライルの無罪放免を勝ち得たエルキュール・ポワロ は、彼女に対して、「Wanting a death is not a crime.」と告げた後、刑務所の前で待っていたピーター・ロード医師に彼女を託して、物語は終わりを迎える。


          

2025年2月19日水曜日

アガサ・クリスティー作「杉の柩」<英国 TV ドラマ版>(Sad Cypress by Agatha Christie )- その3

英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている
アガサ・クリスティー作エルキュール・ポワロシリーズ
「杉の柩」のペーパーバック版表紙


英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、「Agatha Christie’s Poirot」の第51話(第9シリーズ)として、2003年12月26日に放映されたアガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作杉の柩(Sad Cypress)」(1940年)の TV ドラマ版の場合、原作対比、以下のような差異が見受けられる。


(11)

<原作>

メアリー・ジェラード(Mary Gerrard - ウェルマン家の門番の娘)毒殺事件が発生する前日、エリノア・カーライル(Elinor Carlisle - ローラ・ウェルマン(Mrs. Laura Welman - 富豪の未亡人)の姪)は、一旦戻ったロンドンから現地へ戻り、駅前のキングスアームズホテル(King’s Arms Hotel)に宿泊。翌朝、ホテルを出た彼女は、途中のパン屋、乳製品店と乾物屋で買い物をした後、ハンターベリー邸(Hunterbury)へと向かう。

<英国 TV ドラマ版>

叔母のローラ・ウェルマンが亡くなった後、エリノア・カーライルは、そのままハンターベリー邸に滞在して、叔母の遺品の整理をしている。


(12)

<原作>

エリノア・カーライルは、前日宿泊したキングスアームズホテルからハンターベリー邸へ向かう途中、

*パン屋:パン

*乳製品店:バター / ミルク

*乾物店:サンドウィッチ用のペースト(サケとアンチョビ / サケとエビ)

を購入している。

<英国 TV ドラマ版>

叔母のローラ・ウェルマンの死後、そのまま滞在しているハンターベリー邸を出たエリノア・カーライルは、乾物店において、サンドウィッチ用のペーストを3種類(サケ / カニ / エビ)を購入している。

なお、彼女が、パン屋において、パンを、そして、乳製品店において、バター / ミルクを購入する場面はない。


(13)

<原作>

メアリー・ジェラードに言い寄っていたのは、農場を営むルファス・ビグランドの息子で、ヘンダースンが経営する自動車整備工場に勤務する青年のテッド・ビグランド(Ted Bigland)である。

<英国 TV ドラマ版>

メアリー・ジェラードに言い寄っていたのは、ウェルマン家の庭師のテッド・ホーリック(Ted Horlick)である。

原作におけるテッド・ビグランドとホーリック(Horlick - ウェルマン家の庭師)の2人が、英国 TV ドラマ版の場合、テッド・ホーリックと言う一人の人物に統合されている。


(14)

<原作>

エリノア・カーライルは、自分がつくった3種類のサンドウィッチのうち、サケのサンドウィッチを、メアリー・ジェラードに食べさせている。

残った2種類のサンドウィッチ(カニ / エビ)を、エリノア・カーライルとジェシー・ホプキンズ(Jessie Hopkins - ローラ・ウェルマンの看護婦)の2人が食べている。

<英国 TV ドラマ版>

エリノア・カーライルがメアリー・ジェラードに食べさせたサンドウィッチについて、どのペーストが入った分なのか、明確にされていない。


(15)

<原作>

メアリー・ジェラードがモルヒネの過剰摂取により殺害された場所は、ハンターベリー邸の居間である。

<英国 TV ドラマ版>

メアリー・ジェラードがモルヒネの過剰摂取により殺害された場所は、ハンターベリー邸の図書室である。


(16)

<原作>

ハンターベリー邸内を捜索した結果、モルヒネのラベルを発見した警察官は、ブリル警部(Inspector Brill)である。

<英国 TV ドラマ版>

ハンターベリー邸内を捜索した結果、モルヒネのラベルを発見した警察官は、マーズデン警部(Inspector Marsden)へと変更されている。