英国の Laurence King Publishing Group Ltd. から出ている「シャーロック・ホームズの世界(The World of Sherlock Holmes)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているシャーロック・ホームズシリーズに登場する人物や物語の舞台となる建物、また、作者であるサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年-1930年)本人と彼に関連する人物等、50個にわたる手掛かりについて、引き続き、順番に紹介していきたい。
なお、本ジグソーパズル内に描かれているロンドンの建物に関して言うと、実際の位置関係とは大きく異なっているので、誤解がないようにお願いしたい。
舞台は、今回、サリー州(Surrey)から、再び、ロンドンへと戻ります。
(25)ローズクリケット会場(Lord’s Cricket Ground)
中央に見えるのが、ローズクリケット会場の建物。 |
ローズクリケット会場で購入した絵葉書 |
・所在地: St. John’s Wood Road, London Nw8 8QN
・所有者: マリルボーン クリケット クラブ(Marylebone Cricket Club)
・開業: 1814年
・収容人数: 3万人
道路側に面したローズ・クリケット会場の記念碑 |
ローズクリケット会場は、地下鉄セントジョンズウッド駅(St. John’s Wood Tube Station)から徒歩で5分位の所にあり、クリケットの試合が開催される週末には、地下鉄の駅からクリケット会場へと向かう観戦客を数多く見かけることができる。
(26)サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル
皆がクリケットの試合に興じている中、 テーブルに座って、執筆を続けているのが、コナン・ドイルである。 新たなホームズ作品を執筆しているのだろうか? |
Dorling Kindersley Limited が発行する「The Sherlock Holmes Book」からの抜粋 - 1920年代後半にハンプシャー州(Hampshire)のニューフォレスト(New Forest)において撮影された 執筆中のコナン・ドイル |
コナン・ドイルは、アマチュアのクリケット選手で、前述のローズクリケット会場で試合を行ったこともあるので、本ジグソーパズルにおいて、ローズクリケット会場が描かれているものと思われる。
(27)サー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie)
画面中で、クリケット用のバットを携えているのが、 ジェイムズ・マシュー・バリーである。 |
ホームズシリーズの作者であるコナン・ドイルと同じスコットランドの出身で、彼の友人であった。その関係で、ジェイムズ・バリーが創設したアマチュアのクリケットチーム(Allahakbarries)に、コナン・ドイルも所属していた。
1860年、織工の父と石工の娘の母の下、彼は10人兄弟の9番目として出生(なお、そのうちの2人は、彼が生まれる前に既に死亡)。
彼の家族は彼に聖職者になってほしいと願ったが、彼は作家になりたいという希望が強く、エディンバラ大学(University of Edinburgh)に入学し、文学を専攻。1882年に大学を卒業した後は、ノッティンガムの新聞社(Nottingham Journal)に勤めながら、雑誌への寄稿等を行った。そして、1885年に彼はロンドンへ行き、文筆業に専念した。
1888年に発表した「オールドリヒト物語(Auld Licht Idylls)」で成功をおさめ、一躍有名となった彼は劇作家としても活動するようになる。1891年、彼にとって3作目の劇で知り合った女優メアリー・アンセル(Mary Ansell)と1894年7月9日に彼の出生地であるキリミュアで結婚する。1893年から1894年にかけて、彼は体調が優れず、メアリーは彼の家族と一緒に彼の看病を行い、彼の体調が回復したことに伴い、結婚式が行われたのである。
1895年にバリー夫妻はサウスケンジントン地区(South Kensington)内にあるグロースターロード(Gloucester Road)沿いに家を購入したが、彼がよく散歩に出かけるケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)からかなり距離があった。そのため、1900年にバリー夫妻はケンジントンガーデンズの北側のベイズウォーターロード(Bayswater Road)沿いの家を購入して、移り住んだ。
この家がベイズウォーターロード100番地(100 Bayswater Road)の建物で、東西に延びるベイズウォーターロードと南北に延びるレンスターテラス(Leinster Terrace)が交差する北西の角に建っている。ジェイムズ・バリーの希望通り、ベイズウォーターロード100番地の家からケンジントンガーデンズを一望することが可能な上、ベイズウォーターロードを横切れば、ケンジントンガーデンズは目と鼻の先という立地条件であった。
レンスターテラスの入口から見たベイズウォーターロード100番地の建物 |
ジェイムズ・バリーは、このベイズウォーターロード100番地をベースにして、以下の有名な作新を執筆している。
・「小さな白い鳥(The Little White Bird)」(1902年)ー第13章から第18章にピーターパンが初めて登場。
・戯曲「ピーターパンー大人になりたがらない少年(Peter Pan, or The Boy Who Wouldn't Grow Up)」(1904年)
・「ケンジントン公園のピーターパン(Peter Pan in Kensington Gardens)」(1906年)
・「ピーターパンとウェンディー(Peter and Wendy)」(1911年)
ベイズウォーターロード100番地の建物に、 サー・ジェイムズ・バリーがここに住んでいたことを示すブループラーク |
これらの作品は、彼がよく散歩していたケンジントンガーデンズで1897年に知り合ったディヴィス夫妻とその息子達(5人兄弟)のうち、ディヴィス夫人のシルヴィア(Sylvia Davies:1866年ー1910年)と彼女の長男ジョージ・ディヴィス(George Davies:1893年ー1915年)がモデルとなっていると一般に言われている。
1908年に妻メアリーは夫の友人であるギルバート・キャナン(Gilbert Cannan)と不倫関係になり、これが1909年7月にジェイムズ・バリーの知るところとなる。当初、彼は妻メアリーに不倫関係を止めるよう説得するが、彼女はこれを拒否したため、最終的には、妻の不貞行為を理由にして、1909年10月に彼は妻と離婚する。
上記の離婚後、彼はベイズウォーターロード100番地を彼の友人で南極探検家だったロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott:1868年ー1912年)の未亡人キャスリーン・ブルース(Kathleen Bruce:彫刻家)に売却してしまう。
仲が良かったディヴィス夫妻の死亡(夫アーサー:1907年+夫人シルヴィア:1910年)に伴い、ジェイムズ・バリーは、ディヴィス夫妻の子供2人を養子にする。アーサーの死亡後から、彼はシルヴィア夫人への財政的な援助を始めている(ピーターパン関係の著作による収入が充分にあり、シルヴィア夫人への財政的な援助には全く問題なかった)が、こういった彼の行動が妻メアリーの不貞行為につながった要因の一つではないかと個人的には思う。
ケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズの南側にあるザ・ロング・ウォーター |
1912年5月に彼はケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズ(Italian Gardens)の南側にある湖ザ・ロング・ウォーター(The Long Water)の西岸に養子マイケル(Michael Davies:1900年ー1921年 ディヴィス夫妻の四男)をモデルにしたピーターパンの像(Peter Pan Statue)を建てた。実際には、彫刻家サー・ジョージ・フランプトン(Sir George Frampton)は別の子供をモデルにして、ピーターパンの像を制作したため、ジェイムズ・バリーを大いに失望させた。彼によると、「ピーターパンの中に悪魔が表現されていない。(It doesn't show the devil in Peter.)」とのこと。
ケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズの南側にある 湖ザ・ロング・ウォーターの西岸に建つピーターパンの像 |
悪いことは続き、ディヴィス夫妻の長男ジョージは、1915年に第一次世界大戦(1914年ー1918年)において死亡した上、四男のマイケルは、1921年に21歳の誕生日まであと1ヶ月を控えた20歳の若さで、オックスフォード(Oxford)の近くにある湖で友人(同性愛の相手と思われる)と一緒に溺死したため、ジェイムズ・バリーを非常に悲しませたのである。
(28)アイリーン・アドラー(Irene Adler)
画面中央に、写真を持って、 椅子に腰掛けている赤いドレスの女性が、アイリーン・アドラーである。 |
挿絵画家であるシドニー・エドワード・パジェット (Sidney Edward Paget:1860年ー1908年)が描く アイリーン・アドラー(その1)。 (「ストランドマガジン」1891年7月号の「ボヘミアの醜聞」より) |
同作品は、1892年に発行されたホームズシリーズの第1短編集「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」に収録されている。
「ストランドマガジン」の1891年7月号に、「ボヘミアの醜聞」が掲載されると、シドニー・エドワード・パジェット(1860年 - 1908年)による挿絵の効果もあり、ホームズ作品は、読者の熱狂を以って受け入れられ、爆発的な人気へと繋がっていった。
挿絵画家のシドニー・パジェットが描く アイリーン・アドラー(その2) (「ストランドマガジン」1891年7月号の「ボヘミアの醜聞」より) |
「シャーロック・ホームズには、いつでも「あの女性(ひと)」と呼ぶ女性が居る。(To Sherlock Holmes she is always the woman.)」
原作によると、アイリーン・アドラーは、「セントジョンズウッドのサーペンタイン通りにあるブライオニーロッジ(Briony Lodge, Serpentine Avenue, St. John's Wood)」に住んでいる設定になっているので、ローズクリケット会場、コナン・ドイルやジェイムズ・バリーと同じ括りになっていると考えられる。
本ジグソーパズルでは、ボヘミア国王(King of Bohemia)と一緒に、二人で撮影した写真を持って、椅子に腰掛けているアイリーン・アドラーが描かれている。
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