2022年10月19日水曜日

サラサーテ(パブロ・マルティン・メリトン・デ・サラサーテ・イ・ナバスクエス Pablo Martin Meliton de Sarasate y Navascuez)

英国で出版された「ストランドマガジン」
1891年8月号に掲載された挿絵(その7) -

シャーロック・ホームズは、昼食後、
ジョン・H・ワトスンと一緒に、
セントジェイムズホールにおいて、
サラサーテのヴァイオリン演奏会を楽しむ。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget 1860年 - 1908年)

1890年の秋、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー(City → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)近くにあるザクセンーコーブルクスクエア(Saxe-Coburg Square → 2016年1月1日付ブログで紹介済)において質屋(pawnbroker)を営むジェイベス・ウィルスン(Jabez Wilson)から、「赤毛組合(The Red-Headed League)」に纏わる非常に奇妙な体験話を聞いた。


ジェイベス・ウィルスンの話に興味を覚えたホームズはワトスンを誘って、地下鉄でシティー近くのアルダースゲート駅(Aldersgate → 2017年1月1日付ブログで紹介済)まで行き、ジェイベス・ウィルスンが営む質屋へと向かった。ホームズは質屋のドアをノックし、応対に出て来たヴィンセント・スポールディングに対して、ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)への道を尋ねると、その場を立ち去った。質屋の前の敷石をステッキで数回叩き、そして、ヴィンセント・スポールディング(Vincent Spaulding)の膝の汚れを確認したホームズがワトスンに告げた内容は、「あの男(ヴィンセント・スポールディング)は、ロンドンで4番目に狡賢く、3番目に大胆な奴だ。」だった。

ホームズとワトスンの二人が質屋の裏の大通りへ出ると、そこには、タバコ屋、新聞販売所、レストランや馬車製造会社の倉庫等の他に、銀行(City and Surburban Bank)の支店(City branch)が建ち並んでいた。


その後、ホームズとワトスンは、ピカデリー(Piccadilly)方面へと向かい、セントジェイムズホール(St. James's Hallー2014年10月4日付ブログで紹介済)において、サラサーテ(Sarasate)の演奏会を楽しむのであった。


演奏会へ出かける前に、ホームズは、ワトスンに対して、「今日のプログラムは、ドイツの曲が多い。イタリアやフランスの曲よりも、ドイツの曲の方が、僕の趣味に合うんだ。ドイツの曲は内省的で、僕は今、内に向かいたい気分なんだ。(I observe that there is a good deal of German music on the programme, which is rather more to my taste than Italian or French. It is introspective, and I want to introspect.)」と発言している。


夕闇に浮かぶル・メリディアン・ピカデリー・ホテル
(Le Meridien Piccadilly Hotel)-
残念ながら、セントジェイムズホールは現存しておらず、
現在は、ホテルに様変わりしている。
現在の住所表記では、「21 Piccadilly, Mayfair, London W1J 0BH」である。


サラサーテとは、スペイン出身(バスク人)の作曲家兼ヴァイオリン奏者であるパブロ・マルティン・メリトン・デ・サラサーテ・イ・ナバスクエス Pablo Martin Meliton de Sarasate y Navascuez:1844年ー1908年)のことである。


サラサーテは、地方の砲兵隊の楽団指揮者(local artillery bandnaster)である父ドン・ミゲル(Don Miguel)からヴァイオリンの演奏を学び、幼い頃から、ヴァイオリン演奏の才能を開花させると、8歳の時に、初めてのヴァイオリン公演を行うと、10歳の時には、スペイン女王のイサベル2世(Queen Isabella II)の前で、ヴァイオリン演奏を披露した。

そして、12歳の時に、パリ音楽院(Paris Conservatoire)へ入学し、17歳の時に、パリ音楽院における最高の賞に該るヴァイオリン科の一等賞を得た。なお、この賞を得たスペイン人は、サラサーテが最初の人物である。


華麗なヴァイオリン演奏が評判となったサラサーテは、1860年、パリにおいて、ヴァイオリニストとしてのデビューを飾ると、翌年の1861年には、ロンドンで演奏会を行った。

その後、サラサーテは、欧州、北アメリカや南アメリカ等の世界各地へ演奏旅行に赴いた。


なお、サラサーテが、1890年10月に、ロンドンのセントジェイムズホールにおいて、演奏会を行ったかどうかは、定かではない。


作曲家としての彼は、スペインの民謡や舞曲の要素を盛り込んだ国民楽派に位置付けられており、特に、ヴァイオリンと管弦楽のために、彼が1878年に作曲した「ツィゴイネルワイゼン(Zigeunerweisen)」が有名である。


1908年9月20日、サラサーテは、フランス領バスクのビアリッツ(Biarritz)において、慢性気管支炎(chronic bronchitis)のために、64歳で死去した。


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