2018年10月14日日曜日

ロンドン キーツハウス(Keats House)- その2


1818年に、英国のロマン主義の詩人であるジョン・キーツ(John Keats:1795年ー1821年)は、友人のチャールズ・アーミテージ・ブラウン(Charles Armitage Brown)と一緒に、スコットランドを旅行した際、偶然知り合った、ウェントワースプレイス(Wentworth Place → 現在のキーツハウス(Keats House))の隣りの家に住むファニー・ブローン(Fanny Brawne)と知り合った。
スコットランド旅行から戻って来た後、ジョン・キーツは、チャールズ・アーミテージ・ブラウンが住むウェントワースプレイスへと移り住み、1818年12月から1820年にかけて居住した。そして、1819年には、ジョン・キーツは、ファニー・ブローンと婚約を交わしたのである。


ところが、1810年に母の命を、そして、1818年に弟トムの命を奪った結核に、ジョン・キーツも罹り、彼の病状は次第に悪化していく。そこで、医者の勧めに応じて、彼は英国の寒い気候を避け、イタリアで療養することを決め、ウェントワースプレイスを去ることになった。


ジョン・キーツは、ローマのスペイン広場近くに住まいを決めて、詩作を続けたが、残念ながら、彼の病状は好転せず、彼はファニー・ブローンとの結婚を諦める。そして、友人達の手厚い看護を受けながら、1821年2月23日、ジョン・キーツは、ロンドンから遠く離れたローマにおいて、25歳という若さで死去し、ローマの新教徒墓地に葬られた。


ジョン・キーツの死後、彼の妹ファニー・キーツ(Fanny Keats)が、夫と一緒に、1828年から1831年にかけて、ウェントワースプレイスに住み、兄ジョン・キーツの婚約者であったファニー・ブローンと知り合いになった。1829年にファニー・ブローンの母親が事故で亡くなり、1830年にはブローン一家はこの地を去ってしまう。


ウェントワースプレイスは、19世紀に入り、取り壊しの可能性もあったが、1925年5月9日に「キーツ メモリアル ハウス(Keats Memorial House)」として一般に公開された。
キーツハウスは、改修工事のため、2007年11月1日に一旦閉鎖され、改修工事後の2009年7月24日に再オープンして、現在に至っている。
現在、キーツハウスは、Grade I listed building に指定されている。

英国の出版社である Faber & Faber Ltd. から
2016年に出版されている
「ジョン・キーツ詩集」の表紙
(Series design by Faber /
Illustration by Angela Harding)

キーツハウスの隣りの家は、1931年7月16日に「キーツ博物館(Keats Museum)」として開館した。博物館の一部は、現在、ボランティアが運営する図書館として使用されている。

英国の出版社である Faber & Faber Ltd. から
2016年に出版されている
「ジョン・キーツ詩集」の裏表紙
(Series design by Faber /
Illustration by Angela Harding)

2018年10月13日土曜日

ロンドン セントジェイムズ教会(St. James’s Church)

ピカデリー通り(Piccadilly)側から見たセントジェイムズ教会(その1)

1666年に発生したロンドン大火(The Great Fire of London→2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)により、シティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)内の8割以上が焼き払われた。その際に焼失した旧セントポール大聖堂(Old St. Paul’s Cathedral)を現在のセントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral→2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)として再建したのは、英国の建築家で、天文学者や数学者としての顔も有していたサー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)である。サー・クリストファー・マイケル・レンは、シティー・オブ・ロンドン内において、セントポール大聖堂以外にも、数多くの教会の再建に努めたが、彼が設計 / 建築した教会としては珍しく、シティー・オブ・ロンドン外に位置するのが、セントジェイムズ教会(St. James’s Church)である。

ピカデリー通り(Piccadilly)側から見た
セントジェイムズ教会(その2)

セントジェイムズ教会は、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James’s)内に所在している。この地区は、以前、セントジェイムズ記念病院の一部だったが、テューダー朝第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)がその跡地にセントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)を建設している。

ジャーミンストリート(Jermyn Street)側から見た
セントジェイムズ教会(その1)

その後、1662年に入り、初代セントアルバンス伯爵ヘンリー・ジャーミン(Henry Jermyn, 1st Earl of St. Albans:1605年ー1684年)が、セントマーティン教会の教区の一部であったセントジェイムズスクエア(St. James’s Square→2015年10月25日付ブログで紹介済)を自分の居住地として再開発する許可を取得した。初代セントアルバンス伯爵ヘンリー・ジャーミンは、セントジェイムズスクエアの北側に新たな教会を建設するため、1672年にサー・クリストファー・マイケル・レンをその建築家に任命した。

ジャーミンストリート(Jermyn Street)側から見た
セントジェイムズ教会(その2)

サー・クリストファー・マイケル・レンによる設計に基づき、セントジェイムズ教会は建設された。セントジェイムズ教会は、ポートランドストーン(Portland stone)と呼ばれる堆積岩の石灰岩と赤煉瓦で建てられており、建物の西端には四角い尖塔を伴っている。

ジャーミンストリート(Jermyn Street)側から見た
セントジェイムズ教会(その3)

竣工後、セントジェイムズ教会は、1684年7月13日、当時のロンドン司教(Bishop of London)であるヘンリー・コンプトン(Henry Compton:1632年ー1713年)によって献堂された。残念ながら、初代セントアルバンス伯爵ヘンリー・ジャーミンは、1684年1月に死去したため、この献堂に立ち会うことはできなかった。そして、1685年には、セントジェイムズ教会用の教区が新たに創設された。

ジャーミンストリート(Jermyn Street)側から見た
セントジェイムズ教会(その4)

セントジェイムズ教会は、シティー・オブ・ロンドン外に位置していることに加えて、1666年のロンドン大火後に建設されているため、当然のことながら、ロンドン大火による被害は蒙っていないものの、第二次世界大戦(Second World War:1939年ー1945年)中の1940年、ドイツ軍によるロンドン大空襲により、大きな被害を受けた。その後、サー・アルバート・エドワード・リチャードソン(Sir Albert Edward Richardson:1880年ー1964年)の設計に基づき、修復された。

セントジェイムズ教会前の広場に設置された
クリスマスツリー

セントジェイムズ教会は、ロンドン中心部に位置する国際的なコンサート会場としても有名で、ランチタイムの無料リサイタル(週3回)やイーブニングコンサート(平日と土曜日の夜)が開催されている。
また、セントジェイムズ教会前の広場では、「ピカデリーマーケット(The Piccadilly Market)」が、1981年から週6日間(月曜日ー土曜日)開催されている。
月曜日 / 火曜日: Food Market
水曜日ー土曜日: Arts and Craft Market 

2018年10月7日日曜日

ロンドン キーツハウス(Keats House)- その1

キーツハウス内の庭園から見たキーツハウスの全景(その1)

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage → 2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、英国のロマン主義の詩人であるジョン・キーツ(John Keats:1795年ー1821年)が住んでいた家があり、現在、「キーツハウス(Keats House)」という博物館として一般に公開されている。

キーツハウスの入口案内版

ハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)の南側を延びるイーストヒースロード(East Heath Road)をハムステッドヒース駅(Hampstead Heath Railway Station)へと向かって東へ下って行くと、イーストヒースロードは、右手から延びてくるダウンシャーロード(Downshire Road)と交差すると、サウスエンドロード(South End Road)へと名前を変える。ダウンシャーロードを過ぎた後、次に右手に見えるキーツグローヴ(Keats Grove)へと右折する。キーツグローヴをそのまま進み、サウスエンドロード(北側)とヒースハーストロード(Heath Hurst Road - 南側)に挟まれたキーツグローヴの左手に、キーツハウスは建っている。


キーツハウスは、1814年から1815年にかけて、ウィリアム・ウッズ(William Woods)によって建てられて、1815年11月から1816年2月の間に竣工したものと考えられている。キーツハウスが建っている通りの名前は、当初、キーツグローヴではなく、ジョンストリート(John Street)で、キーツハウス自体も、当初は、「ウェントワースプレイス(Wentworth Place)」と呼ばれていた。ウェントワースプレイスは、元々、隣りに建つ家と一対を成していた。

キーツハウス内の庭園から見たキーツハウスの全景(その2)

友人のチャールズ・アーミテージ・ブラウン(Charles Armitage Brown)がウェントワースプレイスに住んでいたこともあって、ジョン・キーツは1817年頃からこの家を訪問するようになった。

英国の出版社である Faber & Faber Ltd. から
2016年に出版されている
「ジョン・キーツ詩集」の表紙
(Series design by Faber /
Illustration by Angela Harding)

1818年、ジョン・キーツが、チャールズ・アーミテージ・ブラウンと一緒に、スコットランドを旅行した際、偶然、ウェントワースプレイスの隣りの家に住むファニー・ブローン(Fanny Brawne)と知り合った。

英国の出版社である Faber & Faber Ltd. から
2016年に出版されている
「ジョン・キーツ詩集」の裏表紙
(Series design by Faber /
Illustration by Angela Harding)

スコットランド旅行から戻って来た後、ジョン・キーツは、チャールズ・アーミテージ・ブラウンが住むウェントワースプレイスへと移り住み、1818年12月から1820年にかけて居住した。そして、1819年には、ジョン・キーツは、ファニー・ブローンと婚約を交わしたのである。

2018年10月6日土曜日

ロンドン ロンドン大火記念塔(Monument to the Great Fire of London)

ロンドン大火記念塔を下から見上げたところ

地下鉄モニュメント駅(Monument Tube Station)の近くに、ロンドン大火記念塔(Monument to the Great Fire of London)が建っている。

ロンドン大火が発生した
トマス・ファリナーのパン屋があったプディングレーンから
ロンドン大火記念塔を望む

1666年に発生して、旧セントポール大聖堂(Old St. Paul’s Cathedral→2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)を含むシティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の8割以上を焼き払ったロンドン大火(The Great Fire of London→2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)からの復興を記念する塔(column)の建設が、1660年の王政復古(Restoration)後の英国王であるチャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年)による主導の下、1669年に英国議会により承認された。

ロンドン大火によって最初に焼き払われた
聖マーガレット教会が建っていた場所を示すプレート

当初、記念塔の建設場所として、ロンドン大火によって最初に焼き払われた聖マーガレット教会(St. Margaret’s)が建っていたフィッシュストリートヒル(Fish Street Hill)か、あるいは、ロンドン大火が発生したトマス・ファリナー(Thomas Farriner / Thomas Faryner)のパン屋があった場所が計画されていた。

ロンドン大火記念塔の台座(東側ーその1)
ロンドン大火記念塔の台座(東側ーその2)

チャールズ2世からの命を受けた英国の建築家 / 天文学者 / 数学者で、同年に王室建設局(Royal Board of Works)の建築総監(Surveyor General)に任命されていたサー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)は、英国の物理学者 / 化学者で、世界で初めてグレゴリー式望遠鏡をつくったロバート・フック(Robert Hooke:1635年ー1703年)と一緒に、記念塔の設計に取り掛かった。
1671年に彼らの設計案がシティー・オブ・ロンドンにより承認された後、フィッシュストリートヒルを建設場所として、1671年から1677年にかけて建設された。

ロンドン大火記念塔の一番上の台座には、
ロンドン大火を表す金色の炎が設置されている

ロンドン大火記念塔は、ポートランドストーン(Portland stone)と呼ばれるドーリア式の柱(Doric column)で、一番上の台座には、ロンドン大火を表す金色の炎が設置されている。
ロンドン大火の高さは61mで、記念塔が建っている場所からロンドン大火が発生したトマス・ファリナーのパン屋があったプディングレーン(Pudding Lane)の地点までの距離と同じである。

ロンドン大火記念塔の台座(西側ーその1)
ロンドン大火記念塔の台座(西側ーその2)
ロンドン大火記念塔の台座(西側ーその3)

地上から311段の螺旋階段を登りきると、上の展望台からは、シティー・オブ・ロンドン内の360度パノラマ風景を見ることができる。1788年から1842年にかけて、6名が展望台から投身自殺を遂げたため、安全上の観点から、また、自殺防止の観点から、展望台には金網が張られることになった。

ロンドン大火記念塔への入口(その1)
ロンドン大火記念塔への入口(その2)

ロンドン記念塔の台座があるモニュメントストリート(Monument Street)は、2006年に歩行者専用道路へと改修された。
また、ロンドン大火記念塔は、改修工事のため、2007年7月に一旦閉鎖され、約1年半にわたる改修工事後の2009年2月に再オープンした。
ロンドン大火記念塔は、現在、グレード I(Grade I listed building)に指定されている。

ロンドン大火記念塔の台座があるモニュメントストリートは、
現在、歩行者専用道路となっている

ロンドン大火記念塔の近くにある地下鉄モニュメント駅は、記念塔に因んで命名されている。

2018年9月30日日曜日

ロンドン エルスワーシーロード39番地(39 Elsworthy Road)

アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を逃れるため、
オーストリアのウィーンから英国へと亡命したジークムント・フロイトが
マレスフィールドガーデンズ20番地へと移る前に
一時的に住んでいたエルスワーシーロード39番地の家の正面

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、オーストリアから英国へ亡命したジークムント・フロイト(Sigmund Freud:1856年ー1939年)が住んでいたエルスワーシーロード39番地(39 Elsworthy Road)の家がある。


オーストリアのウィーンにおいて、精神医学者 / 精神分析学者 / 精神科医として活動していたジークムント・フロイトは、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツによるオーストリア併合に伴うユダヤ人迫害を逃れるべく、故郷の町ウィーンを捨てて、ロンドンへ移住することを余儀なくされた。ジークムント・フロイト一家は、フランス初の女性精神分析学者であるマリー・ボナパルト(Marie Bonaparte:1882年ー1962年)の支援を受け、パリ経由で、1938年6月6日、英国へと亡命したのである。


ロンドンへやって来たジークムント・フロイトは、一時期、現在のロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のプリムローズヒル地区(Primrose Hill)内にあるエルスワーシーロード39番地の家に滞在した後、同じロンドン・カムデン区のハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるマレスフィールドガーデンズ20番地(20 Maresfield Gardens→2018年9月2日付ブログで紹介済)へと移り、翌年の1939年9月23日に癌のため死去するまで、この家に居住した。


ロンドン最大の公園であるリージェンツパーク(Regent’s Park→2016年11月19日付ブログで紹介済)の外周(北側)を通るプリンス アルバート ロード(Prince Albert Road)から地下鉄スイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)へと向かい、アベニューロード(Avenue Road)を北上して、右手に見えるエルスワーシーロード(Elsworthy Road)へと右折する。途中、エルスワーシーロードは、エルスワーシーロード(右側)とワダムガーデンズ(Wadham Gardensー左側)の二手に分かれるが、右側のエルスワーシーロードをそのまま直進し、エルスワーシーロードがワダムガーデンズと再度合流する少し手前の右手に、エルスワーシーロード39番地が建っている。


エルスワーシーロードは、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)との区界に近いロンドン・カムデン区のプリムローズヒル地区内にあり、シティー・オブ・ウェストミンスター区に属する高級住宅街であるセントジョンズウッド地区(St. John’s Wood→2014年8月17日付ブログで紹介済)に接しているため、エルスワーシーロードの辺りも、高級住宅街となっている。

エルスワーシーロード39番地の家の前に立って、
エルスワーシーロードを西側から東側へと見たところ

また、プリンス アルバート ロードを挟んで、リージェンツパークと隣り合っているプリムローズヒル(Primrose Hill)がエルスワーシーロードの南側にあるため、日中でも非常に閑静な場所で、人通りは少ない。ただ、混雑する大通りを避けるための抜け道に使う人が居て、車の往来はやや多い。

2018年9月29日土曜日

ロンドン大火(The Great Fire of London)–その4

ロンドン大火から350年後の2016年に
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した記念切手(その5)

1666年にシティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の8割以上を焼き払ったロンドン大火(The Great Fire of London)は、日本では「世界の三大大火」の一つとして数えられている。残りについては、諸説あるが、ローマ大火(64年)、明暦の大火(1657年)、ハンブルグ大火(1842年)、シカゴ大火(1871年)、そして、サンフランシスコ地震に伴う大火(1906年)等のうちから、2つを加えるケースが多い。

1666年の前年に該る1665年にロンドンで猛威を振るい、「The Great Plague」と呼ばれたペストの大流行は、ロンドン大火の後、何故か、ロンドンから姿を消してしまう。
一般の定説によると、ロンドン大火の炎がペスト菌を一掃(=消毒)した後、英国の建築家であるサー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)の尽力によって、ロンドン大火が焼き払った後のシティー・オブ・ロンドン内で新築される建物が全て煉瓦造り、もしくは、石造りで建てられたことが、ペスト菌の駆逐(=予防)に繋がったと言われている。
実際のところ、ロンドン大火により焼失したのは、シティー・オブ・ロンドンの中心部から西にかけての地区であるが、一方、ペストが大流行したのは、シティー・オブ・ロンドンの外側であった。シティー・オブ・ロンドンの外側には、ロンドン大火による被害が及ばず、ロンドン大火の後も、木造建築の家屋が残っていたにもかかわらず、不思議なことに、ペストは再発しなかったのである。
ロンドン以外の英国や西ヨーロッパでも、このロンドン大火を境にして、ペストの大流行は次第に発生しなくなっていくが、真の理由はいまだに解っていない。

ロンドン大火から350年後の2016年に
英国のロイヤルメールが発行した記念切手(その6)

ロンドン大火の後、ロンドンに住む人々の恐怖を煽ったのは、外国人による陰謀説や放火説だった。ロンドン大火の前年の1665年から第二次英蘭戦争(Second Anglo-Dutch War:1665年ー1667年)が勃発しており、オランダ人による仕業とする声が多かった。また、オランダに味方するフランス人による仕業、あるいは、アイルランド人による仕業という声も上がった。それら以外にも、英国人カトリック教徒による仕業、更には、ユダヤ人による仕業という声もあったが、どの説にも有力な証拠は見つからなかった。

そんな最中、フランス人の時計職人であるロベール・ユベール(Robert Hubert:1640年ー1666年)が「自分はローマ教皇のスパイで、ウェストミンスター地区(Westminster)で放火した。」と自白して、ロンドン郊外で拘束されるという事態が発生した。その後、彼は「」プディングレーン(Pudding Lane)のパン屋に放火した。」と供述を変更し、更に二転三転した。当時、陰謀説や放火説を信じている人々が多かったこともあり、意外なスピード判決で有罪が確定した後、1666年9月28日にロベール・ユベールはタイバーン絞首場(Tyburn)で処刑されてしまう。ところが、彼の処刑後、ロンドン大火の発生当時、彼は北海(North Sea)を進む船上に居て、ロンドン大火が鎮火した2日後にロンドンに到着したことが判明する。当時の情勢として、ロンドン大火の責任を誰かに押し付けて、スケープゴートとして血祭りに上げなければ、世間の一般大衆が納得しなかったのではないかと思われる。

2018年9月23日日曜日

ロンドン ケンウッドハウス(Kenwood House)

「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウスの裏面(その1)

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、ケンウッドハウス(Kenwood House)がある。

ケンウッドハウスの正面玄関と両脇にあるウィング

ハムステッド地区の北側に広がる丘陵であるハムステッドヒース(Hampstead Heath→2018年4月25日付ブログで紹介済)は、ヒース(Heath)と呼ばれる低木が一面に生い茂っていることから、その様に呼ばれている。丘陵のあちこちに18世紀のコテージ、ヴィクトリア朝様式の家や池が点在している。ハムステッドヒースの大部分はロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)内にあるが、1989年以降、管理はシティー・オブ・ロンドン・コーポレーション(City of London Corporation)によって行われている。

ハムステッドヒースレーン(Hampstead Lane)から
ケンウッドハウスに至るノースウッド(North Wood)の森

ハムステッドヒースの歴史は10世紀後半まで遡るが、当時は「Hempstede」と呼ばれていた。11世紀後半から12世紀前半にかけて、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)が所有していたが、貴族等個人の所有を経て、19世紀から20世紀にかけて、ロンドン市当局が購入を徐々に進め、現在に至っている。

「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウスの裏面(その2)

ケンウッドハウスは、ハムステッドヒースの北端に建っている。現在は、イングリッシュヘリテージ(English Heritage)が管理する美術館となっているが、以前は貴族の館であった。

ケンウッドハウス内の図書室の天井装飾(その1)

ケンウッドハウスの歴史は1700年代中頃まで遡る。

「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウス内に所蔵 / 展示されている
初代マンスフィールド伯爵ウィリアム・マレー
の肖像画

英国で著名な判事であった初代マンスフィールド伯爵ウィリアム・マレー(William Murray, 1st Earl of Mansfield:1705年ー1793年)は、仕事の拠点をスコットランドからロンドンに移したため、1754年にケンウッドハウスと周辺の土地を購入し、彼と同じスコットランド出身の建築家ロバート・アダム(Robert Adam:1728年ー1792年)にケンウッドハウスの改修を依頼した。ロバート・アダムは、1764年から1779年までの16年の歳月をかけて、ケンウッドハウスの外観および内装の改修を終えた。北側に面している正面玄関は巨大なイオニア式石柱を備えた柱廊となり、南側に面している裏面は、既に存在していた西側の温室とバランスをとるため、東側に図書室を増築した上、真っ白なファサードを備えた、まさに「白亜の館」となっている。
その後、1793年から1796年にかけて、ジョージ・ソンダース(George Saunders)が正面玄関の両脇に2つのウィングを増築している。

ケンウッドハウス内の図書室の天井装飾(その2)

20世紀に入って、新たに法制化された相続税の関係で、マンスフィールド伯爵家による維持が困難となり、ケンウッドハウスの売却を決定。そして、1925年にギネスビール社会長の初代アイヴィー伯爵エドワード・セシル・ギネス(Edward Cecil Guinness, 1st Earl of Iveagh:1847年ー1927年)が購入した。

「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウス内に所蔵 / 展示されている
初代アイヴィー伯爵エドワード・セシル・ギネスの肖像画

その2年後の1927年、彼が死去した際、ケンウッドハウスは、彼が購入後に展示していた絵画コレクションと一緒に、国に遺贈されて、現在に至っている。

左側の絵画がレンブラント・ハルメンス・ファン・レイン作「自画像」で、
右側の絵画がヨハネス・フェルメール作「ギターを弾く女」

現在、ケンウッドハウス内に展示されている絵画コレクションの中でも、

(1)オランダ人画家レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn:1606年ー1669年)晩年の「自画像(Portrait of the Artist)」
(2)オランダ人画家ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer:1632年?ー1675年?)の「ギターを弾く女(The Guitar Player)」
(3)英国人画家トマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)の「ハウ伯爵夫人メアリーの肖像(Mary, Countess of Howe)」

の3作品が特に有名である。