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1666年にシティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の8割以上を焼き払ったロンドン大火(The Great Fire of London)は、日本では「世界の三大大火」の一つとして数えられている。残りについては、諸説あるが、ローマ大火(64年)、明暦の大火(1657年)、ハンブルグ大火(1842年)、シカゴ大火(1871年)、そして、サンフランシスコ地震に伴う大火(1906年)等のうちから、2つを加えるケースが多い。
1666年の前年に該る1665年にロンドンで猛威を振るい、「The Great Plague」と呼ばれたペストの大流行は、ロンドン大火の後、何故か、ロンドンから姿を消してしまう。
一般の定説によると、ロンドン大火の炎がペスト菌を一掃(=消毒)した後、英国の建築家であるサー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)の尽力によって、ロンドン大火が焼き払った後のシティー・オブ・ロンドン内で新築される建物が全て煉瓦造り、もしくは、石造りで建てられたことが、ペスト菌の駆逐(=予防)に繋がったと言われている。
実際のところ、ロンドン大火により焼失したのは、シティー・オブ・ロンドンの中心部から西にかけての地区であるが、一方、ペストが大流行したのは、シティー・オブ・ロンドンの外側であった。シティー・オブ・ロンドンの外側には、ロンドン大火による被害が及ばず、ロンドン大火の後も、木造建築の家屋が残っていたにもかかわらず、不思議なことに、ペストは再発しなかったのである。
ロンドン以外の英国や西ヨーロッパでも、このロンドン大火を境にして、ペストの大流行は次第に発生しなくなっていくが、真の理由はいまだに解っていない。
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ロンドン大火の後、ロンドンに住む人々の恐怖を煽ったのは、外国人による陰謀説や放火説だった。ロンドン大火の前年の1665年から第二次英蘭戦争(Second Anglo-Dutch War:1665年ー1667年)が勃発しており、オランダ人による仕業とする声が多かった。また、オランダに味方するフランス人による仕業、あるいは、アイルランド人による仕業という声も上がった。それら以外にも、英国人カトリック教徒による仕業、更には、ユダヤ人による仕業という声もあったが、どの説にも有力な証拠は見つからなかった。
そんな最中、フランス人の時計職人であるロベール・ユベール(Robert Hubert:1640年ー1666年)が「自分はローマ教皇のスパイで、ウェストミンスター地区(Westminster)で放火した。」と自白して、ロンドン郊外で拘束されるという事態が発生した。その後、彼は「」プディングレーン(Pudding Lane)のパン屋に放火した。」と供述を変更し、更に二転三転した。当時、陰謀説や放火説を信じている人々が多かったこともあり、意外なスピード判決で有罪が確定した後、1666年9月28日にロベール・ユベールはタイバーン絞首場(Tyburn)で処刑されてしまう。ところが、彼の処刑後、ロンドン大火の発生当時、彼は北海(North Sea)を進む船上に居て、ロンドン大火が鎮火した2日後にロンドンに到着したことが判明する。当時の情勢として、ロンドン大火の責任を誰かに押し付けて、スケープゴートとして血祭りに上げなければ、世間の一般大衆が納得しなかったのではないかと思われる。
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