ロンドン大火後から350年後の2016年に 英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した記念切手(その1) |
ロンドン大火(The Great Fire of London)とは、1666年に発生して、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral→2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)等が所在する中世都市ロンドンの大部分を焼き払った大火のことである。
ロンドン大火が起きた1666年の前年に該る1665年には、「The Great Plague」と呼ばれるペスト大流行がロンドンで猛威を振るった。14世紀中頃にロンドンにおいて最初に流行ったペストは、17世紀に入ると、ロンドンで三度に渡って大流行した。一度目が1603年、二度目が1625年、そして、三度目が1665年で、三度目の大流行では、死者が63千人を越えて、同世紀最高の流行となった。
前年のペスト大流行により疲弊し切っていたロンドンでは、翌年(1666年)の6月下旬から猛暑が始まり、7月と8月の2ヶ月間、極端に降雨量が少ない夏が続き、空気や建物(当時のロンドンでは、石材や煉瓦が部分的に使われているものの、木造建築が主流)が非常に乾燥していた。そんな最悪の状況下、ロンドン大火が発生したのである。
1666年9月2日の日曜日、日付が変わったばかりの深夜の1-2時頃、シティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)のプディングレーン(Pudding Lane)にある王室御用達のパン屋であるトマス・ファリナー(Thomas Farriner / Thomas Faryner)の店から出火した。
前年の1665年から英国はオランダとの間で第二次英蘭戦争(Second Anglo-Dutch War:1665年ー1667年)に突入しており、トマス・ファリナーの店では、海軍食料局向けに堅パンを製造していて、海軍から堅パンの大量注文を受け、毎日深夜までフル操業の状態だった。木造建築だった家屋への火の手は早く、トマス・ファリナー一家は、上階の窓から隣家へと跳び移ったが、窓から跳び移ることを恐れた下女は、炎と煙に包まれて、最初の犠牲者となったのである。
「ロンドンの災いは、愚か者の深酒と頻繁い起きる火事」と言われる程、火事は日常茶飯事だったため、当初、火事の知らせを聞いたロンドン市長(Lord Mayor of London)のサー・トマス・ブラッドワース(Sir Thomas Bloodworth:1620年-1682年)は、「またか!」とばかりに、ろくに取り合わず、初期対応を誤ってしまった。
トマス・ファリナーのパン屋から出火した炎は、出火当夜吹き荒れていた東からの強風に煽られて、テムズ河(River Thames)岸沿いに西へ向かって延焼し始めた。飛び火したテムズ河岸沿いの倉庫街には、清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)時から、火薬、タール、油や石炭等、ありとあらゆる可燃物が大量に貯蔵されていたため、火災は爆発的な勢いを得て、シティー・オブ・ロンドンの中心部へと向かい、侵攻を開始した。
ロンドン大火後から350年後の2016年に 英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した記念切手(その2) |
風上に該るロンドン塔(Tower of London→2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)近くの官舎に住む海軍省の役人(文官)であるサミュエル・ピープス(Samuel Pepys:1633年ー1703年)からの進言に基づき、英国王チャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年-1685年)が下した命を受け、事態を重く見たサー・トマス・ブラッドワースが、「鳶口(とびくち)」(fire hook→棒の先に鉄製の鉤を付けたもの)を使い、火が出た家の周囲にある家屋を取り壊して、延焼を防ぐ指示を出したが、時既に遅かったのである。
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