2015年5月23日土曜日

ロンドン ヴェアストリート(Vere Street)

ヘンリエッタプレイス(Henrietta Place)側からヴェアストリートを望む
―奥に見えるのは、オックスフォードストリート

サー・アーサー・コナン・ドイル作「最後の事件(The Final Problem)」では、物語の冒頭、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れて、彼に自分から手を引くように告げる。しかし、ホームズはモリアーティー教授の忠告を拒否する。
間髪を入れず、ホームズはモリアーティー教授配下の者に襲撃を受け、命を狙われるのである。ある仕事を済ませるため、徒歩でオックスフォードストリート(Oxford Street)へ向かったホームズは、その途中、ベンティンクストリート(Bentinck Street)とウェルベックストリート(Welbeck Street)の角で、モリアーティー教授配下の者が乗った二頭立ての馬車にすんでのところで轢き殺されそうになった。歩道に飛び退いて、間一髪難を逃れたホームズは、引き続き、徒歩でオックスフォードストリートへと向かった。


ホームズによるジョン・ワトスンへの話は続く。
「ワトスン、それ以降、僕は歩道を通るようにしたんだ。しかし、ヴェアストリートを(オックスフォードストリートへ向かって)下って行くと、ある家の屋根からレンガが落ちてきて、僕の足下で粉々に砕け散った。そこで、僕は警官を呼んで、その家の屋根を調べてもらったんだ。屋根には、修繕の準備のため、スレートとレンガが堆く積まれていたので、警官達は、風でレンガの一つが転がり落ちただけだと、僕を納得させようとした訳だ。もちろん、僕の方が実情をよりよく判ってはいたが、警官達には何も証明できなったけどね。」

オックスフォードストリート側から見たヴェアストリート
―奥に見えるのは、ヘンリエッタプレイス

I kept to the pavement after that, Watson, but as I walked down Vere Street a brick came down from the roof of one of the houses, and was shattered to fragments at my feet. I called the police and had the place examined. There were slates and bricks piled up on the roof preparatory to some repairs, and they would have we believe that the wind had topped over one of these. Of course I knew better, but I could prove nothing.

ヴェアストリート沿いに建つセントピーターズ教会

ヴェアストリート(Vere Street)は、オックスフォードストリートから北へ延びる通りで、更に北へ上がると、ホームズが二頭立て馬車に襲撃されたウェルベックストリートへとつながる。
なお、この通りは、通りが出来た当時、この辺りを所有していたオックスフォード伯爵(Earls of Oxford)の家族の名前から名付けられたとのこと。


ヴェアストリートはそれ程長い通りではなく、オックスフォードストリート側からみて、右側にはセントピーターズ教会(St. Peters Church)/ マリルボーンチャペル(Marylebone Chapel)が、そして、左側にはデパートのデベナム(Debenhams)が建っている。

2015年5月17日日曜日

ロンドン フレミングス メイフェア ホテル(Flemings Mayfair Hotel)


アガサ・クリスティー作「バートラムホテルにて(At Bertram's Hotel)」(1965年)の舞台となるバートラムホテル(Bertram's Hotel)は架空のホテルで、ロンドン市内には実在していない。ただし、ロンドンの高級地区メイフェア(Mayfair)内にあり、作者のアガサ・クリスティーがロンドン滞在の際の宿としていたブラウンズホテル(Brown's Hotel)がそのモデルであったと一般的に言われている。


一方で、遺族公認の伝記「アガサ・クリスティーの生涯(Agatha Christie : A biography)」を執筆したジャネット・モーガン(Janet Morgan)が、バートラムホテルのモデルになったのは、ブラウンズホテルではなく、フレミングス メイフェア ホテル(Flemings Mayfair Hotel)であると主張しており、現在、2説に分かれている。アガサ・クリスティーはブラウンズホテルとフレミングス メイフェア ホテルの両方に宿泊したことがあるようなので、バートラムホテルのモデルとなったのが本当はどちらなのかは定かではない。また、ジャネット・モーガンはフレミングス メイフェア ホテルを推す理由についても、今のところ明らかになっていない。


フレミングス メイフェア ホテルも、ブラウンズホテルと同じように、ロンドンの高級地区メイフェア内で営業している。
ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)からハイドパーク(Hyde Park)へ向かって西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)を、地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)の辺りで曲がって北上すると、そこはハーフムーンストリート(Half Moon Street)と呼ばれる通りである。この通りの角にあったパブにちなんで、通り名がつけられている、とのこと。ピカデリー通り側からみて、ハーフムーンストリートの右手中間辺りに、フレミングス メイフェア ホテルが建っている。


フレミングス メイフェア ホテルは、1851年にロバート・フレミング(Robert Fleming)によって創業された。1820年生まれのロバート・フレミングはエンジェルシー侯爵/侯爵夫人(Marquis and Marchioness of Angelsey)の従者として仕えて、高級ホテルを運営する極意を会得した上での創業であった。ロバート・フレミングがホテルを創業したハーフムーンストリート沿いには、貴族、外科医、内科医や弁護士等が住んでおり、高級ホテルを始めるにはうってつけの場所だったと言える。
黄土色したホテルの外壁(2階と3階の間)には、「FLEMINGS MAYFAIR」というサインが架けられ、また、1階正面入口の上や脇は植栽で飾られ、今も宿泊客を迎えているのである。

フレミングス メイフェア ホテルが面しているハーフムーンストリート―
フレミングス メイフェア ホテルの向かい側には、現在、ヒルトンホテルが建っている
ヒルトンホテルの前から
ハーフムーンストリートの北側(カーゾンストリート方面)を望む
カーゾンストリートから望むハーフムーンストリート全景―
突き当たりにあるのは、ピカデリー通り

ハーフムーンストリートは、南側のピカデリー通りから北側のカーゾンストリート(Curzon Street)への一方通行で、ピカデリー通りからバークレースクエア(Berkeley Square)やグローヴナースクエア(Grosvenor Square)経由、マーブルアーチ(Marble Arch)へと至るショートカットになっている。そのため、フレミングス メイフェア ホテルが面するハーフムーンストリートをタクシー等が頻繁に走り抜けて行く。

2015年5月16日土曜日

ロンドン ベンティンクストリート/ウェルベックストリート(Bentinck Street/Welbeck Street)

オックスフォードストリートへと向かうシャーロック・ホームズが
ジェイムズ・モリアーティー教授配下の者が乗った二頭立ての馬車に轢き殺されそうになった
ベンティンクストリートとウェルベックストリートの角

サー・アーサー・コナン・ドイル作「最後の事件(The Final Problem)」では、物語の冒頭、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)がベイカーストリート221B(221B Baker Street  → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れて、彼に自分から手を引くように告げる。しかし、ホームズはモリアーティー教授の忠告を拒否する。間髪を入れず、ホームズはモリアーティー教授配下の者に襲撃を受け、命を狙われるのである。1891年4月24日の夕刻、ジョン・ワトスンの診察室を訪れたホームズは次のような話をする。

ベンティンクストリートは東西に、また、
ウェルベックストリート南北に延びている

「ワトスン、モリアーティー教授は自分の足下に草(=自分に反抗する者)が生えるのをみすみす許すような輩ではないんだ。僕は昼間オックスフォードストリートへある仕事を済ませに行ったのだが、ベンティンクストリートからウェルベックストリートへと横切ろうとした時、二頭立ての馬車が角を曲がり暴走して来て、電光石火の如く僕に向かって来たのさ。咄嗟に、僕は歩道に飛び退いて、間一髪で難を逃れたんだ。その馬車は猛烈な勢いでマリルボーンレーンへと曲がり込んで、そのままアッと言う間に走り去ってしまったよ。」

'My dear Watson, Professor James Moriarty is not a man who lets the grass grow under his feet. I went out about midday to transact some business in Oxford Street. As I passed the corner which leads from Bentinck Street on to the Welbeck Street crossing a two-horse van furiously driven whizzed round and was on me like a flash. I sprung for the footpath and saved myself by the fraction of a second. The van dashed round by Marylebone Lane and was gone in an instant !'


ウェルベックストリートの北側から南側を望むー
ホームズが二頭立ての馬車に轢き殺されそうなったのは、右手前の角で、
馬車は画面手前から南下して来た後、
ベンティンクストリート(右手の通り)へと曲がり、
奥のマリルボーンレーンへと姿を消した

マリルボーンレーン(Marylebone Lane)は、ロンドンのマリルボーン地区(Marylebone)内にあるウェルベックストリート(Welbeck Street)と同じように南北に走る通りで、モリアーティー教授配下の者が乗った二頭立ての馬車はベンティンクストリート(Bentinck Street)とウェルベックストリートの角でホームズを轢き殺しそこねた後、ベンティンクストリートを駆け抜けて、マリルボーンレーンへと姿を消したのである。
ドイルの原作によると、ホームズはベイカーストリート221B からオックスフォードストリート(Oxford Street)へ徒歩で向かっていたのでウェルベックストリートに向かって、ベンティンクストリートを西側から東側へと歩いていたことになる。よって、ホームズが間一髪で二頭立ての馬車に轢き殺されるのを逃れた場所は、ベンティンクストリートがウェルベックストリートにぶつかるT字路の北側の角と言える。おそらく、二頭立ての馬車はホームズの跡をつけて、ウェルベックストリートとクイーンアンストリート(Queen Anne Street)の角辺りで待機していたのではないだろうか?そして、ウェルベックストリートを一気に南下して、ホームズを轢き殺そうとしたものと思われる。

左手の通りがウェルベックストリートで、
右手の通りがクイーンアンストリートー
ジェイムズ・モリアーティー教授配下の者が乗った
二頭立ての馬車はこの角で待機していたものと思われる

ウェルベックストリートは、北側にニューキャヴェンディッシュストリート(New Cavendish Street)に、南側にヘンリエッタプレイス(Henrietta Place)に接していて、レストランやショップ等が立ち並ぶマリルボーンハイストリート(Marylebone High Street)から一本奥(東側)に入ったところなので、割合と静かな通りである。ただ、ウェルベックストリート沿いには、立地の関係で、家賃の高いマリルボーンハイストリートに進出できないホテルが数軒あるため、タクシー等の往来はまあま多い。ウェルベックストリートは、現在、北側から南側への一方通行になっており、マリルボーンハイストリートの混雑を避けるタクシーや一般車がウィグモアストリート(Wigmore Street)やその先のオックスフォードストリートへの抜け道として利用している。
また、ウェルベックストリートは、開業医や歯科医が多いハーレーストリート(Harley Street)にも近いため、医療関係の施設(ロンドン・ウェルベック病院(London Welbeck Hospital)等)もいくつか点在している。

2015年5月10日日曜日

ロンドン ブラウンズホテル(Brown's Hotel)

ブラウンズホテルの表玄関
(アルベマールストリート側)

アガサ・クリスティー作「バートラムホテルにて(At Bertram's Hotel)」(1965年)では、ミス・ジェーン・マープルが古き良きエドワード朝時代の面影を今なお残しているバートラムホテル(Bertram's Hotel)を訪れるところから、物語の幕が上がる。
彼女は、まだ14歳の時に、伯父夫妻に連れられて、バートラムホテルに宿泊したことがあった。今回、甥のレイモンドと彼の妻ジョーンが、ミス・マープルのために、ここに2週間程滞在する費用を出してくれたのだ。昔を懐かしむミス・マープルは、半世紀ぶりにバートラムホテルを再訪することになるが、昔と全く変わっていないことに驚く。しかし、その裏で事件の影が蠢いていたのである。
宿泊客のキャノン・ペニーファザー牧師(Cannon Pennyfather)が消息不明になり、そして、ある霧深い夜、ホテルのドアマンであるマイケル・ゴーマン(Michael Gormanー宿泊客の女性冒険家レディー・ベス・セジウィックの元夫)が射殺される。レディー・ベス・セジウィック(Lady Bess Sedgwick)と彼女の娘エルヴァイラ・ブレイク(Elvira Blake)の周囲で、何か不穏な動きがあるのだが、一体それは何か?


アルベマールストリートを北側から望む―
画面右手奥にブラウンズホテルの表玄関がある

バートラムホテルは架空のホテルで、ロンドン市内に実在していないが、ロンドンン高級地区メイフェア(Mayfair)内にあり、作者のアガサ・クリスティーがロンドン滞在の際の宿としていたブラウンズホテル(Brown's Hotel)がそのモデルだと一般に言われている。

トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から西へ延びるパル・マル通り(Pall Mall)は、セントジェイムズパレス(St. James's Palace)に至ったところで垂直に曲がり、セントジェイムズストリート(St. James's Street)と名前を変えて、北へ向かって延びる。このセントジェイムズストリートは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)からハイドパーク(Hyde Park)へ向かって西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)と交差した後、アルベマールストリート(Albemarle Street)と名前が変わり、更に北上する。この33番地(ピカデリー通り側からみた左手)に、ブラウンズホテルは建っている。

旧ブラウンズホテルとセントジョージホテルが統合したことを示す
モザイクがホテル外壁に掛けられている

ブラウンズホテルは、1837年にジェイムズ・ブラウン(James Brown)とサラ・ブラウン(Sarah Brown)によって、アルベマールストリートの一本西側にあるドーヴァーストリート(Dover Street)側で創業された。1889年にブラウンズホテルは(背中を接し、アルベマールストリート側にあった)セントジョージホテル(St. George's Hotel)を買収し、2つのホテルを1つに統合するとともに、最上階を新たに増築の上、アルベマールストリート側を表玄関として改装した。現在のブラウンズホテルが旧ブラウンズホテルとセントジョージホテルが統合したものであることを示すモザイクが、アルベマールストリート側のホテル外壁に、左右3つずつ掛けられている。

アルベマールストリートを南側から望む

ブラウンズホテルには、以下の著名人が宿泊したり、利用したりしている。
(1)ナポレオン3世(Napoleon III:1808年ー1873年)
フランス第2共和制の大統領(1848年ー1852年)/フランス第2帝政の皇帝(1852年-1870年)で、第2帝政崩壊に伴い、英国へ亡命した後、1871年に元皇后ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugenie de Montijo)と一緒にブラウンズホテルに宿泊している。
(2)アレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell:1847年ー1922年)
スコットランド生まれの科学者、発明家かつ工学者で、世界初の実用的電話の発明で知られているが、1876年にブラウンズホテルで英国初の電話実験に成功している。
(3)セオドア・ルーズヴェルト(Theodore Roosevelt:1858年ー1919年)
米国の第25代副大統領(1901年)/第26代大統領(1901年ー1909年)で、最初の夫人アリス・ハサウェイ・リーが1884年に死去した後、2番目の夫人イーディス・カーミット・カーロウと1886年に再婚する前に、ブラウンズホテルに宿泊している。また、ここで結婚式を挙げている。


ドーヴァーストリートを南側から望む―
画面右手奥にブラウンズホテルの裏玄関がある

上記以外にも、アガサ・クリスティーに加えて、以下の作家がブラウンズホテルを利用している。
(4)サー・アーサー・コナン・ドイル
(5)エイブラハム・”ブラム”・ストーカー(Abraham "Bram" Stoker:1847年ー1912年)ー「ドラキュラ(Dracula)」(1897年)等で有名。
(6)ロバート・ルイス・スティーヴンスン(Robert Louis Stevenson:1850年ー1894年)ー「宝島(Treasure Island)」(1883年)と「ジキル博士とハイド氏(Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde)」(1886年)等で有名。
(7)オスカー・フィンガル・オフラハティー・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)ー「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)」(1890年)や「サロメ(Salome)」(1893年)等で有名。
(8)サー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年)ーピーターパン(Peter Pan)シリーズ等で有名。
(9)ジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling:1860年ー1936年)ー「ジャングルブック(The Jungle Book)」(1894年)等で有名。1907年に英国初のノーベル文学賞を受賞。

なお、ドイル、スティーヴンスンおよびバリーはスコットランド生まれ、ストーカーとワイルドはアイルランド生まれ、そして、キップリングは英国領インド帝国のボンベイ(ムンバイ)生まれである。こうして並べると、19世紀末から20世紀初めにかけて、英国で活躍した作家は、本人自身の名前は覚えていられないとしても、今でも世界で愛されている作品を生み出した訳で、改めてこの当時の凄さが実感させられる。

ブラウンズホテルの裏玄関
(ドーヴァーストリート側)

ブラウンズホテルは、2012年に創業175年周年を迎えている。
ブラウンズホテルの表玄関が面しているアルベマールストリートは、オックスフォードストリート(Oxford Street)からピカデリー通りへ向かって南に下るニューボンドストリート(New Bond Street)/オールドボンドストリート(Old Bond Street)の一本西側にあり、ブランドショップが軒を連ねるショッピング街に非常に近く、利便性が高い。
アルベマールストリート(ブラウンズホテルの表玄関側)とドーヴァーストリート(ブラウンズホテルの裏玄関側)は、共に南から北への一本通行で、トラファルガースクエア方面からバークレースクエア(Berkeley Square)やグローヴナースクエア(Grosvenor Square)経由、マーブルアーチ(Marble Arch)へと至る近道に該るため、ブラウンズホテル前の通りは必ずしも閑静とは言えず、ロンドン市内の通りに詳しいタクシーや一般車が割合と頻繁に通り抜けて行く。

2015年5月9日土曜日

ロンドン ロウワーバークストリート13番地(13 Lower Burke Street)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「瀕死の探偵(The Dying Detective)」では、ベイカーストリート221B(221B Baker Street  → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済の家主であるハドスン夫人がジョン・ワトスンの家を訪ねて来て、「シャーロック・ホームズが病にかかり、危篤状態だ。」と知らせるところから話が始まる。ワトスンが結婚して、ベイカーストリート221B でのホームズとの共同生活を解消してから、既に2年が経過していた。
ハドスン夫人から話を聞いたワトスンは、直ぐにベイカーストリート221B へと出向く。部屋のベッドに横たわるホームズはすっかり痩せ衰えており、手は痙攣する上に熱もあるようだった。ワトスンがベッドに近寄って診察しようとすると、自分には近寄らないよう、ホームズに激しく制止される。ホームズによると、イーストエンドの中国人船乗りから恐ろしい伝染病(スマトラ島のクーリー病)を移されて、接触感染すると言うのだ。そこで、ワトスンが熱帯病に詳しい医師を連れて来ようとホームズに進言するも、ホームズは後で自分が指名する人物を呼んでくるように言い張って、首を縦に振らなかったのである。そして、夕方の6時になった頃だった。


これは狂乱と言っても差し支えなかった。ホームズは身震いして、また咳と嗚咽の中間のような音をたてた。
「ワトスン、そろそろガス灯に火をつけてくれ。しかし、一瞬と言えども、半分以上は明るくしないように非常に慎重にやるんだ。ワトスン、注意深くやるように頼む。有り難う、それで充分だ。いや、ブラインドを下ろす必要はないよ。次に申し訳ないが、このテーブルの上に僕の手が届くように手紙や書類を置いてほしい。有り難う。それから、暖炉の上のゴミも少しだ。ワトスン、素晴らしい。そこに砂糖つかみがある。それを使って、あの小さな象牙の箱を持ち上げ、書類の間に置いてくれ。それでいい。それでは、ロウワーバークストリート13番地のカルバートン・スミス氏のところへ行って、彼を連れて来てほしい。」
実を言うと、医者を連れて来ようという私の気持ちは少しばかり弱まっていたのである。と言うのも、哀れなホームズは明らかに精神錯乱状態にあり、彼を残していくのは危険に思えたからなのだ。しかしながら、医者に診察してもらうことをそれまで頑固に拒んでいたのと同じように、彼は今度は指名した人物に熱心に相談したがっていた。


This was raring insanity. He shuddered, and again made a sound between a cough and a sob.
'You will now light the gas, Watson, but you will be very careful that not for one instant shall it be more than half on. I implore you to be careful, Watson. Thank you, that is excellent. No, you need not draw the blind. Now you will have the kindness to place some letters and papers upon this table with my reach. Thank you. Now some of that litter from the mantelpiece. Excellent, Watson! There is a sugar-tongs there. Kindly raise that small ivory box with its assistance. Place it here among the papers. Good! You can now go and fetch Mr Culverton Smith, of 13 Lower Burke Street.'
To tell the truth, my desire to fetch a doctor had somewhat weakened, for poor Holmes was so obviously delirious that it seemed dangerous to leave him. However, he was as eager now to consult the person named as he had been obstinate in refusing.


ホームズの執拗な依頼に根負けして、ワトスンはロウワーバークストリート13番地へと向かった。

ロウワーバークストリートは、ノッティングヒルとケンジントンの間のはっきりしない境界域にある。素晴らしい家並みの一つだった。御者が馬車を停めた家には、旧式の鉄製手すり、重厚な折戸やピカピカ輝く真鍮細工に洒落た、そして、しかめつらしい仕来りの雰囲気が漂っていた。全ては、ピンク色がかった電気の光を背にして、戸口に現れたまじめくさった執事と合致した。


Lower Burke Street proved to be a line of fine lying in the vague borderland between Notting Hill and Kensington. The particular one at which my cabman pulled up had an air of smug and demure respectability in its old-fashioned iron railings, its massive folding-door, and its shin ing brasswork. All was keeping with a solemn butler who appeared framed in the pink radiance of a tinted electrical light behind him.


コナン・ドイルによると、ロウワーバークストリート(Lower Burke Street)は、ノッティングヒルとケンジントンの間にあるようである。そうなると、ケンジントン地区(Kensington)内で、北側は地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Gate Tube Station)/その前を通るノッティングヒルゲート通り(Notting Hill Gate)、東側はケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)、南側は地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)/その前を通るケンジントンハイストリート(Kensington High Street)、そして、西側はホーランドパーク(Holland Park)に囲まれた一帯ということになるものの、残念ながら、現在の住所表記上、この一帯内にロウワーバークストリートは存在しておらず、ロウワーバークストリート13番地は架空の住所だったことになる。
よって、添付している写真は、この一帯で撮影したもののうち、コナン・ドイルの原作の雰囲気に近いのを選んでいる。

2015年5月3日日曜日

ロンドン マロードストリート13番地(13 Mallord Street)

画面右端の家が、A.A.ミルンが住んでいたマロードストリート13番地

「赤い館の秘密(The Red House Mystery)」では、英国のカントリーサイドにある「赤い館(The Red House)」と呼ばれる屋敷にて事件が発生する。
その「赤い館」には、主人のマーク・アブレット(Mark Ablett)やいとこのマシュー・ケイリー(Matthew Cayley)が住み、その日、屋敷内でハウスパーティーを催していた。その最中、マークの兄で、アブレット家の厄介者であるロバート・アブレット(Robert Ablett)が15年振りにオーストラリアから英国に戻り、マークを訪ねて来る。噂通り、ロバートは非常に粗暴なふるまいを見せる。
同じ頃、アントニー・ギリンガム(Antony Gillingham)が、彼の友人で、「赤い館」に宿泊しているビル・ベヴァリー(Bill Beveley)に会いにやって来る。屋敷内に入ったギリンガムは、事務室のドアを叩くケイリーに遭遇する。ケイリーは「伯父のロバートとマークの2人が事務室内に居るが、中から銃声のような音が聞こえた。」と話す。そこで、ギリンガムはケイリーと一緒に屋敷の外側に回り、窓から事務室を覗き込む。事務室内で人が倒れているのを発見した2人は窓から事務室内に入り込むと、ケイリーは「倒れている人はロバートで、既に死亡している。」とギリンガムに告げる。ただし、ロバートと一緒に事務所内に居たマークの姿がどこにもなかった。それでは、マークがロバートを殺害したのか?そして、マークは一体どこに姿を消したのか?
その後、警察が到着するが、事件の内容に違和感を覚えたギリンガムは、友人のべヴァリーにワトスン役を頼み、素人探偵として独自に事件の調査を進めていくのであった。果たして、事件の真相は如何に?


「赤い館の秘密」(1921年に発表+1922年に単行本化)を執筆したアラン・アレクサンダー・ミルン(Alan Alexander Milne:1882年ー1956年)は、ロンドンのキルバーン(Kilburn)生まれのスコットランド人で、児童文学作家、劇作家、そして、詩人として有名である。

マロードストリート13番地はセミデタッチ形式の家で、
通り沿いに同じような家が建ち並んでいる

彼の代表作は、以下の「クマのプーさん」シリーズで、これらは、彼の一人息子であるクリストファー・ロビン・ミルン(Christopher Robin Milne:1920年ー1996年)のために書かれたものである。

(1)「クマのプーさん(Winnie-the-Pooh)」(1926年)
(2)「プー横丁の家(The House at Pooh Corner)」(1928年)
(3)詩集「クリストファー・ロビンのうた(When We Were Very Young)」(1924年)
(4)詩集「クマのプーさんとぼく(Now We Are Six)」(1927年)

なお、上記のシリーズ作品には、挿絵画家のアーネスト・ハワード・シェパード(Ernest Howard Shepard:1879年ー1976年)がイラストを添えており、これらのイラストを含め、今日でも世界中で愛されている。
「赤い館の秘密」は、A.A.ミルンが執筆した唯一の推理長編であるが、当時としては衝撃的であったトリックから、古典的な名作の一つとして数えられている。

近くにあるロイヤルブロンプトン病院(Royal Brompton Hospital)に
面するブリテンストリート(Britten Street)沿いで花を咲かせる樹々

A.A.ミルンは、若かりし頃、アマチュアのクリケットチームでプレイしており、スコットランド人つながりで、同じチームには、シャーロック・ホームズシリーズの作者であるサー・アーサー・コナン・ドイルとピーターパン(Peter Pan)の生みの親で、児童文学作家で劇作家のサー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年)も在籍していた。

A.A.ミルンがここに住んでいたことを示すブループラーク

A.A.ミルンがロンドンで住んでいた家がチェルシー地区(Chelsea)内にある。サークルライン(Circle Line)とディストリクトライン(District Line)が通る地下鉄スローンスクエア駅(Sloane Square Tube Station)からチェルシー地区へ向かって南西に延びるキングスロード(King's Road)の中間辺りを北側に入ったマロードストリート13番地(13 Mallord Street)がそれである。焦茶色をしたレンガ造りで、セミデタッチ形式の家がマロードストリート沿いに建ち並んでいるが、その一つにA.A.ミルンは住んでおり、それを示すイングリッシュヘリテージ(English Heritage)管理のブループラークが家の外壁に掛けられている。

キングスロード沿いにあるブランドショップの建物

近くにあるシドニーストリート(Sydney Street)沿いに建つ
セントルークス教会(St.  Luke's Church)と
セントルークスガーデンズ(St. Luke's Gardens)

マロードストリートが西側で突き当たるザ・ヴェール通り(The Vale)

キングスロード沿いには、地下鉄スローンスクエア駅の辺りからデパート、ブランドショップやレストラン等の各種店舗が軒を連ねており、特に週末は買い物客や観光客等で非常に賑わって、やや騒々しい位である。ただ、キングスロードからそれて一本内側に入ると、そこは非常に閑静な高級住宅街で、キングスロードに並行しているマロードストリート沿いもその一つである。日中でも通りを歩いている人をほとんど見かけない。マロードストリートの両側には、付近の住民が駐めている車で一杯で、車が行き交うには非常に難儀する位の狭さになっている。

ザ・ヴェール通り側から見たマロードストリート―
通りの両側に付近の住民の車が駐められており、
奥に行く程、車が行き交うのは非常に難しい

2015年5月2日土曜日

ロンドン リトルライダーストリート156番地(156 Little Ryder Street)

リトルライダーストリートの候補地のコノートプレイス

サー・アーサー・コナン・ドイル作「三人のガリデブ(The Three Garridebs)」は、1902年6月の終わり頃のある朝、ベイカーストリート221B(221B Baker Street(221B Baker Street  → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)で始まる。ここ数日間ベッドで過ごしていたシャーロック・ホームズであったが、この日の朝は起き上がって、ジョン・ワトスンに奇妙な話を始めたのであった。


「ワトスン、ちょっとした儲け話があるんだ。」と、ホームズは言った。「ガリデブという名前を聞いたことはあるかい?」
聞いたことはないと、私は答えた。
「もしガリデブという男を見つけることができれば、一儲けできるのさ。」
「何故だい?」
「ああ、それは長い話になる。ー少しばかり風変わりな話でもあるんだ。僕達がこれまで人間の複雑さを探究してきた中でも、これ程奇妙なものに出会ったことがあるとは思えない。その人物は間もなくここに相談にやって来るんだ。だから、彼がここに来るまで、この件についてはお預けとしよう。彼を待つ間、ガリデブの名前を探そうじゃないか。」
私の側のテーブルの上に電話帳があったので、私はそれ程期待もしないで、ページをめくった。しかし、驚いたことに、この奇妙な名前が該当ページに載っていたのだ。私は勝ち誇った声をあげた。「ホームズ、あったぞ!ここにあったぞ!」
ホームズは私の手から電話帳を取り上げた。
「『ガリデブ、N』」と、彼は電話帳の記載を読み上げた。「『西区リトルライダーストリート156番地』か。ワトスン、君をがっかりさせて申し訳ないが、それは、これから相談にやって来る彼自身だ。彼の手紙にこの住所が書かれている。僕達は彼とは別のガリデブを探さねばならない。」

エッジウェアロード側から見たコノートプレイス

'There is a chance for you to make some money, friend Watson,' said he. 'Have you ever heard the name of Garrideb?'
I admitted that I had not.
'Well, if you can lay your hands upon a Garrideb., there's money in it.'
'Why?'
'Ah, that's a long story - rather a whimsical one, too. I don't think in all our explanations of human complexities we have over come upon anything more singular. The fellow will be here presently for cross-examination, so I won't open the matter up till he comes. But meanwhile, that's the name we want.'
'The telephone directory lay on the table beside me, and I turned over the pages in a rather hopeless quest. But to my amazement there was this strange name in its due place. I gave a cry if triumph. 'Here you are, Holmes! Here it is!'
Holmes took the book from my hand.
' "Garrideb, N" ' he said, ' "156 Little Ryder Street, W" Sorry to disappoint you my dear Watson, but this is the man himself. That is the address upon his letter. We want another to match him.'

エッジウェアロード近くにあるオフィスビルの外壁―
通り名が外壁に刻まれている

その日は素晴らしい春の夕暮れだった。エッジウェアロードの脇道の一つで、かつてタイバーン絞首刑台があった不吉な場所から目と鼻の先にあるリトルライダーストリートでさえ、傾いた太陽からの斜めの日差しを受けて、金色に輝き、素敵な場所に見えた。私達が向かうべき家は、大きくて、古風なジョージ王朝初期様式の建物で、1階の奥行きがある2つの張り出し窓を除くと、のっぺりとしたレンガ造りの外観だった。私達の依頼人が住んでいるのは1階で、低い窓は彼が日中居間として使用している大きな部屋の正面の窓に該ることが判った。私達が建物の前を通り過ぎる際、ホームズはこの風変わりな名前が書かれている小さな真鍮の表札を指差した。

エッジウェアロードからハイドパーク方面を望む―
画面上の浮き島の辺りに、タイバーン絞首刑台があった

It was twilight of a lovely spring evening, and even Little Ryder Street, one of the smaller offshoots from the Edgware Road, within a stone-cast of old Tyburn Tree of evil memory, looked golden and wonderful in the slanting rays of the setting sun. The particular house to which we were directed was a large, old-fashioned, Early Georgian edifice with a flat brick face broken only by two deep bay windows on the ground floor. It was on the ground floor that our client lived, and, indeed, the low windows proved to be the front of the huge room in which he spent his waking hours. Holmes pointed as we passed to the small brass plate which bore the curious name.

タイバーン絞首刑台がここにあったことを示す標識

ネイサン・ガリデブ氏(Mr Nathan Garrideb)が住んでいたリトルライダーストリート156番地は、架空の住所である。
リトルライダーストリート156番地が実際にどこに該るのかを推理するベースとなるのが、タイバーン絞首刑台(Tyburn Tree)で、ハイドパーク(Hyde Park)の北東の角にあった。より具体的に言うと、ハイドパークの北東の角にある周回道路の北側マーブルアーチ(Marble Arch)の中間辺りから北西方向へエッジウェアロード(Edgware Road)が延びているが、このエッジウェアロードが始まるところに、タイバーン絞首刑台が設置されていた。タイバーンの名は、ロンドン北部のプリムローズヒル(Primrose Hill)を源とするタイバーン川(River Tyburn)に由来している。
タイバーン絞首刑台は、その脚部が三角形を成していたため、「三本足の悪魔(three-legged mare)」と呼ばれ、1571年に設置された以降、1783年に死刑執行がニューゲート監獄(Newgate Prison)で行われるようになるまで、ここで公開処刑が行われていた。死刑囚は、シティー(City)にあるニューゲート監獄から荷馬車で オックスフォードストリート(Oxford Street)経由、ここまで乗せられてくる。そして、荷馬車が絞首刑台の下まで来ると、死刑囚の首にロープの輪がかけられ、絞首刑執行人が鞭をいれて、荷馬車を走り出させると、死刑囚が絞首刑台にぶら下がるという仕組みである。
この地が公開処刑の地に選ばれたのは、(1)オックスフォードストリート、マーブルアーチ通り、そして、ベイズウォーターロード(Bayswater Road)と真っ直ぐに続くこの道がオックスフォード(Oxford)へ向かう主要な街道になっていたため、一般庶民に法を厳しく徹底させる目的があったことと(2)もう一つは、死刑という不吉な作業をシティーからかなり離れた場所で行う必要があったこと等からである。
もちろん、今、タイバーン絞首刑台は残っていないが、エッジウェアロードをハイドパーク側の歩道から地下鉄マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)側の歩道へ渡る際、エッジウェアロードの真ん中に信号待ちのための浮き島があるが、この浮き島の地面にタイバーン絞首刑台があった場所を示す標識が残っている。

コノートプレイスからエッジウェアロード方面を望む―
ドイルの原作通り、素晴らしい春の夕暮れである

リトルライダー通りは、このタイバーン絞首刑台があった場所から目と鼻の先にあったということなので、マーブルアーチ通り側からエッジウェアロードを見ると、左右を含め、最初に枝分かれする脇道が、左手に延びるコノートプレイス通り(Connaught Place)で、タイバーン絞首刑台の裏手に該り、リトルライダー通りの候補地として最適である。ただし、コノートプレイス通りはそれ程長い脇道ではないので、156番地は存在していない。現在、エッジウェアロード側のコノートプレイス通りは歩道があるため、行き止まりになっており、コノートプレイス通りから直接エッジウェアロードへ車で出ることができない。よって、日中でもかなり静かな通りである。通りの左右には、オフィスやプライベートクラブ等が入居している。

コノートプレイスの外壁に掛けられているブループラーク