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ロンドンのウォレスコレクション(Wallace Collection → 2014年6月15日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている レンブラント・ファン・レイン作 「Self-Portrait in a Black Cap」(1637年) <筆者撮影> |
彼の父親は、製粉業(miller)を営む中流階級であるハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レイン(Harmen Gerritszoon van Rijn)、彼の母親は、都市貴族でパン屋(baker)を生業とする一家の娘であるネールチェン・ヴィルムスドホテル・ファン・ザウトブルーグ(Neeltgen Willemsdochter van Zuijtbrouck)で、夫妻の9番目の子供だった。
一家の姓である「ファン・レイン」は、「ライン川の(van Rijn)」を意味しており、これは、彼の父ハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レインが、ライデンを流れる旧ライン川沿いに製粉の風車小屋を所有していたことに由来する。
レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レインは、1613年にラテン語学校(Latin school)に入学した後、1620年(14歳)にライデン大学(University of Leiden)へ飛び級で進学。大学へ進学したのは、彼だけで、彼の兄達は家業の製粉業を手伝っていた。
レンブラント・ファン・レインの両親は、彼が法律家になることを期待していたが、画家を目指した彼は、僅か数ヶ月で大学を退学してしまう。
ライデン大学を退学したレンブラント・ファン・レインは、イタリア留学経験を持つ歴史画家のヤーコプ・アイザックソーン・ファン・スヴァーネンブルフ(Jacob Issacszoon van Swanenburg:1571年ー1638年)に弟子入りして、3年間、絵画技法から解剖学まで必要な技能を学んだ。
1624年(18歳)には、半年間だけではあるが、当時オランダ最高の歴史画家と言われたアムステルダム(Amsterdam)のピーテル・ラストマン(Pieter Lastman:1583年ー1633年)にも師事。
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ロンドンのウォレスコレクションに所蔵 / 展示されている レンブラント・ファン・レイン作 「Titus, the Artist's Son」(1657年頃) <筆者撮影> |
アムステルダムからライデンに戻ったレンブラント・ファン・レインは、1625年、実家にアトリエを構えて、絵画の制作を開始。
彼と同じように、ピーテル・ラストマンに師事し、、12歳から画家としての活動を始めていたヤン・リーフェンス(Jan Lievens:1607年ー1674年)と知り合い、一時期、工房を共同で持ち、競い合った。
1627年頃には、レンブラント・ファン・レインは、自分の弟子を受け入れるようになり、指導を行った。
レンブラント・ファン・レインは、画家としての頭角を現し始め、オラニエ公(prince of Orange)/ オランダ総督(stadtholder of Holland)であるフレデリック・ヘンドリック(Frederik Hendrik:1584年ー1647年)は、彼から多くの絵画を購入。
その関係もあって、詩人 / 作曲家で、フレデリック・ヘンドリックの秘書官でもあったコンスタンティン・ホイヘンス(Constantijn Huygens:1596年ー1687年)は、レンブラント・ファン・レインとヤン・リーフェンスの2人に目をかけており、レンブラント・ファン・レインを「判断力と表現力に優れる粉屋の息子」、また、ヤン・リーフェンスを「創造性に優れる刺繍屋の息子」と評して、「いずれもが有名な画家と比肩して、そのうちにこれを超えるだろう。」と、日記に認めている。
名声を獲得しつつあったレンブラント・ファン・レインにとって、生まれ故郷のライデンは、次第に狭くなってきた。
1630年4月23日に、父親のハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レインが亡くなると、レンブラント・ファン・レインは、アムステルダムへ進出する決断を下して、1631年に同地へ移った。
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