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ロンドンのナショナルギャラリー(National Gallery)に所蔵 / 展示されている アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画 (Sir Anthony van Dyck / 1640年頃 / Oil on panel 560 mm x 460 mm) <筆者撮影> |
ジョン・ディクスン・カー作「軽率だった夜盗(A Guest in the House / The Incautious Burglar → 2025年9月9日付ブログで紹介済)」において、マーカス・ハント(Marcus Hunt - 企業家 / 投資家)が所有するクランレイ荘に所蔵され、謎の夜盗に狙われた絵画3枚のうち、1枚の作者であるアンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck:1599年ー1641年)は、1599年3月22日、スペインから独立する前のオランダ(Spanish Netherlands)アントウェルペン(Antwerpen - オランダのロッテルダム(Rotterdam)とともに、欧州を代表する港湾都市の一つであるアントワープ(Antwerp)のこと)に出生。
彼の父親は、絹取引を営む商人であるフランツ・ヴァン・ダイク(Frans van Dyck)、彼の母親は、後妻のマリア・クパース(Maria Cupers)で、夫妻の7番目の子供だった。
彼は、翌日の同年3月23日、現在のアントワープ大聖堂(Antwerp Cathedral)で、アントニオ(Anthonio)として洗礼を受けている。
アンソニー・ヴァン・ダイクは、僅か8歳の時に、母マリアを亡くしてしまうが、裕福な家庭で育った彼は、幼少の頃から、優れた芸術の才能を見せ、10歳の時(1609年)には、アントウェルペンの画家であるヘンドリック・ファン・バーレン(Hendrick van Balen:1573年頃ー1632年)の下で絵画を学び始めている。
1615年、あるいは、1616年には、彼は、画家として独り立ちをし、年少の友人であるヤン・ブリューゲル(子)(Jan Brueghel de Jonge:1601年ー1678年)と一緒に、工房を構えている。
画家として独り立ちした彼は、1617年10月18日に、アントウェルペンの芸術家ギルドである「聖ルカ組合(Guild of Saint Luke)」への入会を許されている。
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アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画の解説板 <筆者撮影> |
正確な年月は不明であるが、アンソニー・ヴァン・ダイクは、アントウェルペンだけではなく、北ヨーロッパ全域において高い評価を得ていた画家ピーテル・パウス・ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577年ー1640年)の筆頭助手となる。
当時、ピーテル・パウス・ルーベンスは、自身の大規模な工房を経営することに加えて、他の芸術家が経営する工房との間で、多くの絵画制作補助契約を締結していた。
ピーテル・パウス・ルーベンスは、若いアンソニー・ヴァン・ダイクに対して、多大な影響を与えた一方、ルーベンスは、ヴァン・ダイクを「最も優れた弟子(the best of my pupils)」と評している。
1621年にオランダとスペインの間の休戦期が終わると、スペインやハプスブルグ家の君主達から外交的任務に重用され始めたピーテル・パウス・ルーベンスは、1621年にアントウェルペンを出て、約10年間、画家としてのキャリアを外国で送るようになった。
英国の場合、第一王宮として使用していたホワイトホール宮殿(Palace of Whitehall)が、1698年に火災で焼失。
ホワイトホール宮殿の一部のうち、今でも現存しているのが、「バンケティングハウス(Banqueting House)」で、晩餐会や舞踏会等の目的で使用されているが、通常は、一般の見学者に開放されている。
バンケティングハウス内(上階)で 晩餐会等が開催される場所の天井から吊り下げられているシャンデリア <筆者撮影> |
バンケティングハウスは、イタリア遊学中にイタリア・ルネッサンス建築の影響を大きく受けた英国の建築家イニゴー・ジョーンズ(Inigo Jones:1573年ー1662年)が設計し、1622年に建築された。また、晩餐会や舞踏会等が開催される部屋の天井画は、アンソニー・ヴァン・ダイクの師であるピーテル・パウス・ルーベンスによって描かれている。
アンソニー・ヴァン・ダイクの師である ピーテル・パウス・ルーベンスによって描かれた天井画 <筆者撮影> |
なお、バンケティングハウスの前では、清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)を経て、英国王チャールズ1世(Charles Ⅰ:1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年 → 2017年4月29日付ブログで紹介済)の公開処刑が1649年1月30日に行われた。英国の歴史上、英国王が処刑された事例は、チャールズ1世のみである。バンケティングハウスの入口上の外壁に、チャールズ1世のレリーフが掛けられている。
バンケティングハウス入口上の外壁に設置されている チャールズ1世のレリーフ <筆者撮影> |
アンソニー・ヴァン・ダイクも、師であるピーテル・パウス・ルーベンスの例に倣い、この後、画家としてのキャリアのほとんどをを外国で送るようになるのである。

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