2025年10月8日水曜日

アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck)- その3

チジックハウス(Chiswick House → 2016年7月23日付ブログで紹介済)で
所蔵 / 展示されているアンソニー・ヴァン・ダイク作
「英国王チャールズ1世(Charles I:1600年ー1649年
在位期間:1625年ー1649年 → 
2017年4月29日付ブログで紹介済)と
家族の肖像画」(1632年)―
正式な名前は、「チャールズ1世、アンリエッタ・マリアと
二人の子供(チャールズ王子とメアリー王女)」
(Charles I and Henrietta Maria with their two eldest children,
Prince Charles and Princess Mary)。
<筆者撮影>


ジョン・ディクスン・カー作「軽率だった夜盗(A Guest in the House / The Incautious Burglar → 2025年9月9日付ブログで紹介済)」において、マーカス・ハント(Marcus Hunt - 企業家 / 投資家)が所有するクランレイ荘に所蔵され、謎の夜盗に狙われた絵画3枚のうち、1枚の作者であるアンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck:1599年ー1641年)は、1599年3月22日、絹取引を営む商人である父フランツ・ヴァン・ダイク(Frans van Dyck)と母親(後妻)マリア・クパース(Maria Cupers)の下、スペインから独立する前のオランダ(Spanish Netherlands)アントウェルペン(Antwerpen - オランダのロッテルダム(Rotterdam)とともに、欧州を代表する港湾都市の一つであるアントワープ(Antwerp)のこと)に出生すると、幼少の頃から、優れた芸術の才能を見せ、10歳の時(1609年)には、アントウェルペンの画家であるヘンドリック・ファン・バーレン(Hendrick van Balen:1573年頃ー1632年)の下で絵画を学び始める。

1615年、あるいは、1616年には、彼は、画家として独り立ちをし、年少の友人であるヤン・ブリューゲル(子)(Jan Brueghel de Jonge:1601年ー1678年)と一緒に、工房を構えている。そして、1617年10月18日に、アントウェルペンの芸術家ギルドである「聖ルカ組合(Guild of Saint Luke)」への入会を許されている。


筆者がチジックハウスで購入した
イングリッシュヘリテージ(English Heritage)のガイドブック


正確な年月は不明であるが、アンソニー・ヴァン・ダイクは、アントウェルペンだけではなく、北ヨーロッパ全域において高い評価を得ていた画家ピーテル・パウス・ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577年ー1640年)の筆頭助手となる。

当時、ピーテル・パウス・ルーベンスは、自身の大規模な工房を経営することに加えて、他の芸術家が経営する工房との間で、多くの絵画制作補助契約を締結していた。

ピーテル・パウス・ルーベンスは、若いアンソニー・ヴァン・ダイクに対して、多大な影響を与えた一方、ルーベンスは、ヴァン・ダイクを「最も優れた弟子(the best of my pupils)」と評している。


アンソニー・ヴァン・ダイクは、1620年に、初代バッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズ(George Villiers, 1st Duke of Buckingham:1592年ー1628年)の勧めに基づいて、イングランドへ赴き、ステュアート朝(House of Stuart)の初代国王であるジェイムズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年-1625年)からの依頼を受けて、絵画を製作。

イングランド滞在時に、彼は、第21代アランデル伯爵トマス・ハワード(Thomas Howard, 21st Earl of Arundel:1586年ー1646年)がロンドンに所有していたイタリアルネサンス期の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio:1490年頃ー1576年)の絵画を目にして、その華麗な色彩感覚に感銘を受け、師ピーテル・パウス・ルーベンスから学んだ絵画技法に、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの色彩感覚と立体表現技法を融合させる契機となった。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示されている
ジェイムズ1世の肖像画
(By Daniel Mytens
 / Oil on canvas / 1621年)
<筆者撮影>


イングランドにおいて4ヶ月を過ごしたアンソニー・ヴァン・ダイクは、一旦、アントウェルペンに戻るものの、1621年に、イタリアのジェノヴァ(Genoa)へ居を移した。

6年間の滞在時に、彼は、イタリア人巨匠達による作品を研究して、優れた肖像画家としての名声を確立していく。


ジェノヴァにおいて6年を過ごしたアンソニー・ヴァン・ダイクは、1627年にアントウェルペンに戻り、5年間、フランドル地方(Flanders)の人々の肖像画を描き続けた。

その結果、彼は、師ピーテル・パウス・ルーベンスと同じように、宮廷人と貴族階級の双方から受け入れられ、スペイン領ネーデルランド君主アルブレヒト7世・フォン・エスターライヒ(Albrecht VII. Von Osterreich:1559年ー1621年)の妃であるイサベル・クララ・エウへニア・デ・アウストリア(Isabel Clara Eugenia de Austria:1566年ー1633年)の宮廷画家に任命されている。


            

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