2025年10月13日月曜日

アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck)- その4

ナショナルギャラリー(National Gallery)で所蔵 / 展示されている
アンソニー・ヴァン・ダイク作「チャールズ1世騎馬像
(Equestrian Portrait of Charles I)」
(1638年ー1639年頃 / Oil on canvas / 367 cm x 292.1 cm /
1885年購入)
<筆者撮影>


ジョン・ディクスン・カー作「軽率だった夜盗(A Guest in the House / The Incautious Burglar → 2025年9月9日付ブログで紹介済)」において、マーカス・ハント(Marcus Hunt - 企業家 / 投資家)が所有するクランレイ荘に所蔵され、謎の夜盗に狙われた絵画3枚のうち、1枚の作者であるアンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck:1599年ー1641年)は、1620年に、初代バッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズ(George Villiers, 1st Duke of Buckingham:1592年ー1628年)の勧めに基づいて、イングランドへ赴き、ステュアート朝(House of Stuart)の初代国王であるジェイムズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年-1625年)からの依頼を受けて、絵画を製作。

東京創元社から、創元推理文庫の一冊として出版されている
ジョン・ディクスン・カー作
「カー短編全集2 妖魔の森の家」の表紙
(カバー : アトリエ絵夢 志村 敏子氏) -
「軽率だった夜盗」(宇野 利奏訳)において、
夜盗がクランレイ荘に侵入した際、
「その(懐中電燈の)光が、食器棚に沿って匍っていくと、
銀色にきらめくものがあった。果物鉢である。
鉢の中のリンゴに、まるでそれが人間の胴であるかのように、
小型ナイフが不気味につき刺さったままだ。」や
「銀の食器類が一そろい、食器棚の前に散乱していた。
果物鉢も転げ落ちていた。
オレンジとリンゴ、そして葡萄の粒が潰れているあいだに、
死体が仰向けに倒れている。」と言う記述があるので、
表紙のデザインは、同作の内容を参考しているものと思われる。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示されている
ジェイムズ1世の肖像画
(By Daniel Mytens
 / Oil on canvas / 1621年)
<筆者撮影>

イングランド滞在時に、彼は、第21代アランデル伯爵トマス・ハワード(Thomas Howard, 21st Earl of Arundel:1586年ー1646年)がロンドンに所有していたイタリアルネサンス期の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio:1490年頃ー1576年)の絵画を目にして、その華麗な色彩感覚に感銘を受け、師ピーテル・パウス・ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577年ー1640年)から学んだ絵画技法に、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの色彩感覚と立体表現技法を融合させる契機となった。


イングランドにおいて4ヶ月を過ごしたアンソニー・ヴァン・ダイクは、一旦、生まれ故郷のアントウェルペン(Antwerpen - オランダのロッテルダム(Rotterdam)とともに、欧州を代表する港湾都市の一つであるアントワープ(Antwerp)のこと)に戻り、1621年にイタリアのジェノヴァ(Genoa)へ居を移し、1627年にアントウェルペンに戻る変遷を辿るものの、イングランド宮廷との関係は続いていた。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
チャールズ1世の肖像画の葉書
(Daniel Mytens
 / 1631年 / Oil on canvas
2159 mm x 1346 mm) 


父ジェイムズ1世の後を継いで、ステュアート朝の第2代国王となったチャールズ1世(Charles I:1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年 → 2017年4月29日付ブログで紹介済)は、英国の歴代君主の中でも、特に芸術に興味を示し、美術品を数多く収集。美術品は自身の威厳を増大することに役立つと考え、諸外国のの著名な画家達をイングランドへ招聘した。


バンケティングハウス内(上階)で
晩餐会や舞踏会等が開催される場所の天井から吊り下げられているシャンデリア
<筆者撮影>


アンソニー・ヴァン・ダイクの師ピーテル・パウス・ルーベンスもその一人で、1698年に火災で焼失した第一王宮のホワイトホール宮殿(Palace of Whitehall)の一部で、今でも現存している「バンケティングハウス(Banqueting House)」内の晩餐会や舞踏会等が開催される部屋の天井画を描き、ナイト(Knight)の称号を授与されている。


アンソニー・ヴァン・ダイクの師である
ピーテル・パウス・
ルーベンスによって描かれた天井画
<筆者撮影>


ピーテル・パウス・ルーベンスの弟子であるアンソニー・ヴァン・ダイクも、チャールズ1世の招聘に応じて、1632年4月にイングランドを再訪すると、直ぐに宮廷に招き入れられ、同年7月に、


*ナイトの称号

*毎年200ポンドの年金

*描いた絵画毎の追加報酬

*国王チャールズ1世と王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(Henrietta Maria of Frnace:1609年ー1669年)の主席宮廷画家(Principal Painter in Ordinary)の地位


を授与される。


ナショナルギャラリーで展示されている
アンソニー・ヴァン・ダイク作「王妃ヘンリエッタ・マリア
(Queen Henrietta Maria)」
(1631年ー1632年頃 / Oil on canvas / 109 cm x 86.2 cm /
Lent by His Majesty The King)
<筆者撮影>


アンソニー・ヴァン・ダイクは、チャールズ1世から、シティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)近くのブラックフライアーズ(Blackfriars)に邸宅兼工房を与えられ、王族以外は使用禁止だったエルサム宮殿(Eltham Palace → 2014年7月23日付ブログで紹介済)内の続き部屋を静養所として提供された。

実際のところ、アンソニー・ヴァン・ダイクを除くと、チャールズ1世からこのような厚遇を受けた画家は居なかった。


エルサム宮殿のうち、右に見える建物が、当初より残っているグレイトホール(Great Hall)。
<筆者撮影>


イングランド宮廷から歓待を受けたアンソニー・ヴァン・ダイクは、国王チャールズ1世の肖像画40点程や王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスの肖像画30点程を初めとして、その他の宮廷人の肖像画を多数描いた。


アンソニー・ヴァン・ダイクは、1638年に、スコットランド貴族でルースヴェン卿(Lord Rthven)の称号を有するパトリック・ルースヴェン(Patrick Ruthven)の娘であるメアリー・ルースヴェン(Mary Ruthven)と結婚。

メアリー・ルースヴェンは、1639年から1640年までの間、王妃付き女官(lady-in-waiting to the Queen)に任命されているが、これは、チャールズ1世がアンソニー・ヴァン・ダイクをイングランドに引き留めておくための方策だったと考えられている。


イングランドにおいて清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)が勃発する前の1641年の夏、イングランドを離れたアンソニー・ヴァン・ダイクは、滞在先のパリにおいて重病に罹患し、同年11月にロンドンへ戻ったものの、同年12月9日、ブラックフライアーズの自宅で息を引き取った。

チャールズ1世は、アンソニー・ヴァン・ダイクをロンドン大火(The Great Fire of London:1666年 → 2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)で焼失する前の旧セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral → 2018年8月18日 / 8月25日付ブログで紹介済)に埋葬して、墓碑銘を設置した。


カーターレーン(Carter Lane)から見上げたセントポール大聖堂
<筆者撮影>


アンソニー・ヴァン・ダイクが活躍した頃、美術面において、イングランドは長い間不毛の地であり、彼の死後も、100年以上の長きにわたり、彼の華麗な肖像画は、イングランド絵画に大きな影響を与え続けた。

生粋のイングランド人の画家としては、ウィリアム・ホガース(William Hogarth:1697年ー1764年)の登場を待つ必要があった。


          

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