2024年10月1日火曜日

ジョスリン・バーバラ・ヘップワース(Jocelyn Barbara Hepworth)- その1

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で購入した
ジョスリン・バーバラ・ヘップワースの写真
「Barbara Hepworth in her Mall Studio, London」(1933年)
The de Laszlo Collection of Paul Laib Negatives /
Witt Library / The Courtauld Institute of Art, London /
The Hepworth Photograph Collection /
David Lambert and Rod Tidnam / Tate Photography


今回は、英国の芸術家 / 彫刻家であるジョスリン・バーバラ・ヘップワース(JocelynBarbara Hepworth:1903年ー1975年)について、紹介したい。

彼女は、英国コンウォール州(Cornwall)にあるセントアイヴス(St. Ives)に住む芸術家のコミュニティーにおいて、主導的な役割を果たした人物である。


ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、土木技師(civil engineer)である父ハーバート・ヘップワース(Herbert Hepworth)と母ガートルード・ヘップワース(Gertrude Hepworth)の長子(長女)として、1903年1月10日、ヨークシャー州(Yorkshire)のウェイクフィールド(Wakefield)に出生。

彼女は、ウェイクフィールド女子高等学校(Wakefield Girls’ High School)で学んだ後、奨学金を得て、1920年からリーズ美術学校(Leeds School of Art)へ通った。ここで、彼女は、将来、20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家となるヘンリー・スペンサー・ムーア(Henry Spencer Moore:1898年ー1986年)と同窓になる。2人は友人となり、友好的なライバル関係は、長年にわたって続くことになる。

男性優位な環境下にもかかわらず、彼女は、再度、奨学金を得ると、1921年からロンドンの王立美術カレッジ(Royal College of Art (RCA))で学び、1924年に学位を取得している。


王立美術カレッジの学位取得後、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、留学奨学金を得て、1924年にイタリアのフィレンツェ(Florence)へ向かった。

留学先のフィレンツェにおいて、彼女は、ローマ賞(Prix-de-Rome)の次点になったが、優勝は、英国の彫刻家であるジョン・ラッテンベリー・スキーピング(John Rattenbury Skeaping:1901年ー1980年)が手にした。

2人は、シエナ(Sienna)とローマ(Rome)を一緒に旅行した後、フィレンツェに戻り、1925年5月13日に結婚する。

結婚後、彼女は、同地において、彫刻家であるジョヴァンニ・アルディーニ(Giovanni Ardini)に師事して、大理石彫刻を学んだ。


ジョスリン・バーバラ・ヘップワースとジョン・ラッテンベリー・スキーピングの2人は、1926年に英国へ戻り、ロンドンのフラットに住居を構えると、そこで共同個展を開催。

そして、1929年には、2人の間に、長男のポール(Paul)が生まれた。


1931年に、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、英国の抽象画家であるベンジャミン・ローダー・ニコルスン(Benjamin Lauder Nicholson:1894年ー1982年)と出会い、不倫関係となるが、ジョン・ラッテンベリー・スキーピングとの婚姻関係はそのまま維持。

ただ、その2年後の1933年に、彼女は、ジョン・ラッテンベリー・スキーピングに対して、離婚を申し出て、同年3月に離婚するのである。


                               

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