2017年8月19日土曜日

ロンドン ウィグモアストリート(Wigmore Street)

ウィグモアストリートの中間辺りから
キャヴェンディッシュスクエア方面(東側)を望む

サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)の冒頭は、1888年の或る日、ここのところ興味を惹かれるような事件が起きないため、暇を持て余したシャーロック・ホームズが退屈しのぎに麻薬の注射に手を伸ばして、その悪しき習慣を諌めるジョン・H・ワトスンとの間で言い合いになる場面から始まる。


彼(ホームズ)は肘掛け椅子にどっしりと凭れ掛かって、パイプから濃く青い輪を吹き出しながら答えた。「例えば、君が今朝ウィグモアストリートの郵便局へ行ったことが判るのは、観察によるものだが、君がその郵便局から電報を打ったことが判るのは、推理によるものだ。」
「その通りだ!」と、私は言った。「両方とも合っている!しかし、実を言うと、君がどうやってそれを判ったのか、皆目見当がつかないよ。今朝郵便局へ出かけたのは、急に思い立ったことだったし、誰にも言わなかった。」
「単純なことさ。」と、私が驚いているのを見て、彼はくすくす笑いながら言った。馬鹿馬鹿しい程、単純なことだから、説明するのも不要な位だ。しかし、それでも、観察と推理の境界線を定義付けることに役立つかもしれない。僕は観察することによって、君の靴の甲に小さな赤い土が付着していることを知った。ウィグモアストリートにある郵便局のちょうど向かい側で、敷石を剥がして、土が掘り返されているから、その土を踏まないで、郵便局の中に入るのは無理なようになっている。僕が知る限り、この赤みを帯びた土は、この辺りではあの場所以外には見当たらない。ここまでが観察だ。後は、推理によるものだ。」
「それじゃ、どうやって、君は電報のことを推理したんだい?」
「午前中ずーっと、僕は君の向かい側に座っていたから、君が手紙を書いていなかったことを知っている。それに、君が机の中に切手と分厚い葉書の束をしまってあることも知っている。と言うことは、電報を打つ以外に、君が郵便局へ行く用として何があるんだい?他の全ての要因を取り除けば、唯一残ったものが真実でなければならない。」

右手に見えるのは、ウィグモアホールの入り口
ウィグモアホールの向かい側の建物

He answered, leaning back luxuriously in his armchair and sending up thick blue wreaths from his pipe. ‘For example, observation shows me that you have been to the Wigmore Street Post Office this morning, but deduction lets me know that when there you dispatched a telegram.’
‘Right!’ Said I. ‘Right on both points! But I confess that I don’t see how you arrived at it. It was a sudden impulse upon my part, and I have mentioned it to no one.’
‘It is simplicity itself,’ he remarked, chuckling at my surprise - ‘so absurdly simple that an explanation is superfluous; and yet it may serve to define the limits of observation and deduction. Observation tells me that you have a little reddish mould adhering to your instep. Just opposite the Wigmore Street office they have taken up the pavement and thrown up some earth, which lies in such a way that it is difficult to avoid treading in it in entering. The earth is of this reddish tint which is found as far as I know nowhere else in the neighbourhood. So much is observation. The rest is deduction.’
‘How, then, did you deduce the telegram?’
‘Why, of course I know that you had not written a letter, since I sat opposite to you all morning. I see also in your open desk there that you have a sheet of stamps and a thick bundle of postcards. What would you go into the post-office for, then, but to send a wire? Eliminate all other factors, and the one which remains must be the truth.’

ハーリーストリートに近い関係上、
ウィグモアストリート沿いには、
薬局等の医療関係の店舗が数多く並んでいる

ワトスンが電報を打ちに出かけた郵便局があるウィグモアストリート(Wigmore Street)は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のマリルボーン地区(Marylebone)内にある。

ウィグモアストリートの中間辺りから
キャヴェンディッシュスクエア方面(東側)を見たところ
ウィグモアストリートの中間辺りから
ポートマンスクエア方面(西側)を見たところ

ウィグモアストリートは、キャヴェンディッシュスクエア(Cavendish Squareー2015年4月5日付ブログで紹介済)からポートマンスクエア(Portman Square)へ向かって西に延びる通りで、地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)から地下鉄ボンドストリート駅(Bond Street Tube Station)前を通り、地下鉄マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)へ向かって西に延びるオックスフォードストリート(Oxford Streetー2016年5月28日付ブログで紹介済)の一本北側を並行して走っている。

ウィグモアストリート沿いのショーウィンドウ(その1)
ウィグモアストリート沿いのショーウィンドウ(その2)

19世紀後半より、ウィグモアストリート沿位には、検眼士、眼鏡技師や眼科器具の製造業者等が多く集中していた。これは、ウィグモアストリートが交差するハーリーストリート(Harley Streetー2015年4月11日付ブログで紹介済)やウィンポールストリート(Wimpole Street)に医療関係者が数多く開業していたことによるものと思われる。

ウィグモアホールの入口(その1)
ウィグモアホールの入口(その2)

ウィグモアストリートの北側で、ウィンポールストリートとウェルベックストリート(Welbeck Streetー2015年5月16日付ブログで紹介済)に東西を挟まれたところに、「ウィグモアホール(Wigmore Hall)」と呼ばれるコンサートホールが建っている。

老舗の薬局ジョン・ベル&クロイデン
ジョン・ベル&クロイデンは、
英国王室の御用達に指定されている

また、ウィグモアストリートがウィンポールストリートと交差する北西の角には老舗の薬局ジョン・ベル&クロイデン(John Bell & Croyden)が1912年から営業を続けている。

ポートマンスクエア近くのウィグモアストリート

ちなみに、ウィグモアストリート95番地には、ビートルズ(Beatles)が所属していたアップルコーポレーション(Apple Corporation)がサヴィルロウ(Savile Row)へ移転するまでの間、元々のオフィスが所在していた。

2017年8月13日日曜日

ロンドン ミドルテンプルレーン(Middle Temple Lane)

ハードキャッスル警部とジェンキンス巡査の二人が、
道端に停めた警察車輌の中から、マリーナ・ライヴァルの動向を探る場面として、
ミドルテンプルレーンが撮影に使用されている

アガサ・クリスティー作「複数の時計(The Clocks)」(1963年)は、エルキュール・ポワロシリーズの長編で、今回、ポワロは殺人事件の現場へは赴かず、また、殺人事件の容疑者や証人への尋問も直接は行わないで、ロンドンにある自分のフラットに居ながらにして(=完全な安楽椅子探偵として)、事件の謎を解決するのである。



キャサリン・マーティンデール(Miss Katherine Martindale)が所長を勤めるキャヴェンディッシュ秘書紹介所(Cavendish Secretarial Bureau)から派遣された速記タイピストのシーラ・ウェッブ(Sheila Webb)は、ウィルブラームクレッセント通り19番地(19 Wilbraham Crescent)へと急いでいた。シーラ・ウェッブが電話で指示された部屋(居間)へ入ると、彼女はそこで身なりの立派な男性の死体を発見する。男性の死体の周囲には、6つの時計が置かれており、そのうちの4つが何故か午後4時13分を指していた。鳩時計が午後3時を告げた時、ウィルブラームクレッセント19番地の住人で、目の不自由な女教師ミリセント・ペブマーシュ(Miss Millicent Pebmarsh)が帰宅する。自宅内の異変を感じたミリセント・ペブマーシュが男性の死体へと近づこうとした際、シーラ・ウェッブは悲鳴を上げながら、表へと飛び出した。そして、彼女は、ちょうどそこに通りかかった青年コリン・ラム(Colin Lamb)の腕の中に飛び込むことになった。

ヴィクトリアエンバンクメント通り側から
ミドルテンプルレーンへ入る門のアップ(その1)
ヴィクトリアエンバンクメント通り側から
ミドルテンプルレーンへ入る門のアップ(その2)

実は、コリン・ラム青年は、警察の公安部員(Special Branch agent)で、何者かに殺された同僚のポケット内にあったメモ用紙に書かれていた「M」という文字、「61」という数字、そして、「三日月」の絵から、ウィルブラームクレッセント19番地が何か関係して入るものと考え、付近を調査していたのである。「M」を逆さまにすると、「W」になり、「ウィルブラーム」の頭文字になる。「三日月」は「クレッセント」であり、「61」を逆さまにすると、「19」となる。3つを繋げると、「ウィルブラームクレッセント通り19番地」を意味する。

ヴィクトリアエンバンクメント通り側から
ミドルテンプルレーンへ入る(その1)
ヴィクトリアエンバンクメント通り側から
ミドルテンプルレーンへ入る(その2)
ヴィクトリアエンバンクメント通り側から
ミドルテンプルレーンへ入る(その3)

クローディン警察署のディック・ハードキャッスル警部(Inspector Dick Hardcastle)が本事件を担当することになった。
シーラ・ウェッブは、ミリセント・ペブマーシュの家へ今までに一度も行ったことがないと言う。また、ミリセント・ペブマーシュは、キャヴェンディッシュ秘書紹介所に対して、シーラ・ウェッブを名指しで仕事を依頼する電話をかけた覚えはないと答える。更に、シーラ・ウェッブとミリセント・ペブマーシュの二人は、ウィルブラームクレッセント通り19番地の居間で死体となって発見された男性について、全く覚えがないと証言するのであった。
ミリセント・ペブマーシュの居間においてキッチンナイフで刺されて見つかった身元不明の死体は「R.・H・カリイ(R. H. Curry)」とされたが、スコットランドヤードの捜査の結果、全くの偽名であることが判明し、身元不明へと逆戻りする。彼が目の不自由な老婦人の居間で刺殺される理由について、スコットランドヤードも、そして、コリン・ラムも、皆目見当がつかなかった。途方に暮れたコリン・ラムは、ポワロに助けを求める。年若き友人からの頼みを受けて、ポワロの灰色の脳細胞が事件の真相を解き明かす。

フリートストリート側から
ミドルテンプルレーンへ入る(その1)
フリートストリート側から
ミドルテンプルレーンへ入る(その2)
フリートストリート側から
ミドルテンプルレーンへ入る(その3)

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie’s Poirot」の「複数の時計」(2011年)では、アガサ・クリスティーの原作が第二次世界大戦(1939年ー1945年)後の米ソ冷戦状態を物語の時代背景としたことに対して、他のシリーズ作品と同様に、第一次世界大戦(1914年ー1918年)と第二次世界大戦の間に物語の時代設定を置いている関係上、第二次世界大戦前夜を時代背景として、英国の仮想敵国を原作のソビエト連邦からアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツへと変更している。また、物語の舞台も、サセックス州(Sussex)のクロウディーン(Crowdean)からケント州(Kent)のドーヴァー(Dover)へと変更されている。更に、コリン・ラムの名前は、コリン・レイス大尉(Liteunant Colin Race)となり、警察の公安部員ではなく、MI6 の秘密情報部員(intelligence officer)という設定に変えられている。

ミドルテンプルレーンの西側にある
ブリックコート(Brick Court)ーその1
ミドルテンプルレーンの西側にある
ブリックコート(Brick Court)ーその2

TV版では、物語の後半、ミリセント・ペブマーシュが住むウィルブラームクレッセント19番地(ドーヴァー)の居間において死体で見つかった身元不明の男性の妻と称するマリーナ・ライヴァル(Merlina Rival)が警察へ名乗り出た。死体で見つかった男性は、当初、保険会社 Metroploitan and Provincial Insurance Company に勤務するR・H・カリイ氏とされたが、後に偽名であることが判明。マリーナ・ライヴァルによると、彼の本名はハリー・キャッスルトン(Harry Castleton)で、結婚していたが、約5年前に行方が判らなくなったと言う。彼女が言う通り、男性の左耳の後ろに傷跡があったが、彼女の説明とは異なり、15年以上前の傷ではなく、数年前の傷であるとの検死結果が出た。彼女の証言内容に疑問を感じたハード・キャッスル警部やジェンキンス巡査(Constable Jenkins)は、道端に停めた警察車輌の中から彼女の動向を探るが、二人で話をしている間に彼女の姿を見失ってしまう。慌てたハードキャッスル警部達は警察車輌から跳び出ると、彼女の行方を追うのであった。この場面は、ミドルテンプルレーン(Middle Temple Lane)で撮影されている。
アガサ・クリスティーの原作では、ハードキャッスル警部の部下はクレイ巡査部長(Sergeant Cray)であるが、TV版では、ジェンキンス巡査に変更されている。

ミドルテンプルレーンの中間辺りから
フリートストリート方面を望む

ミドルテンプルレーンは、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー・オブ・ロンドン(City of London)の西端に位置している「テンプル(Temple→2014年8月25日付ブログで紹介済)」と呼ばれるエリア内に所在している。テンプル地区は、テムズ河(River Thames)沿いを東西に延びるヴィクトリアエンバンクメント通り(Victoria Embankment)とストランド地区(Strand)からシティー・オブ・ロンドンへ向かって東に延びるフリートストリート(Fleet Street→2014年9月21日付ブログで紹介済)に南北を挟まれたエリアで、ここには「ミドルテンプル(Middle Temple)」 / 「インナーテンプル(Inner Temple)」と呼ばれる2つの法曹院(Inns of Court)や法廷弁護士(barrister)の事務所等が集中している。ロンドンには、全部で4つの法曹院があり、他の2つは直ぐ北側のホルボーン地区(Holborn→2016年9月24日付ブログで紹介済)内にあるリンカーン法曹院(Lincoln’s Inn→2017年3月19日付ブログで紹介済)とグレイ法曹院(Gray’s Inn)である。

ミドルテンプルレーンから
ヴィクトリアエンバンクメント通りを望む
ミドルテンプルレーンの中間辺りから
ヴィクトリアエンバンクメント通り方面を望む 
ミドルテンプルレーンから
クラウンオフィスロウ(Crown Office Row)へ入る場所

テンプル地区の一番西側で、ヴィクトリアエンバンクメント通りとフリートストリートを南北に結ぶ通りが、ミドルテンプルレーンである。
ミドルテンプルレーンの両側には、ロンドン内に4つある法曹院の1つである「ミドルテンプル」関係の講堂ミドルテンプルホール(Middle Temple Hall)や図書館等、そして、法廷弁護士の事務所が立ち並んでいる。

ミドルテンプルホールの建物
ミドルテンプルホールの北側にある
ファウンテンコート(Fountain Court)

ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare::1564年ー1616年)作「十二夜(Twelfth Night)」(1601年ー1602年)の最初の公演は、1602年にミドルテンプルホールで行われたとの記録が残っている。ミドルテンプルホールは、祝宴、結婚式やパーティー等のために、外部への貸出も行われている。

2017年8月12日土曜日

「四つの署名(The Sign of the Four)」

ロンドンの Metro Media Ltd. から
Self Made Hero シリーズの一つとして出版されているグラフィックノベルの
シャーロック・ホームズシリーズ「四つの署名」の表紙

サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)は、シャーロック・ホームズの長編小説の一つで、第1作の「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)に続く第2作に該る。

ロンドンの Metro Media Ltd. から
Self Made Hero シリーズの一つとして出版されているグラフィックノベルの
シャーロック・ホームズシリーズ「四つの署名」の裏表紙

1889年8月30日、ロンドン市内のオックスフォードサーカス(Oxford Circus→2015年4月26日付ブログで紹介済)の近くに建つランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)において、以下のアイリッシュ系の男性3人が食事会を行った。

(1)米国のフィラデルフィアに本社を構える「リピンコット・マンスリー・マガジン(Lippincott’s Monthly Magazine)」のエージェントであるジョーゼフ・マーシャル・ストッダート博士(Dr. Joseph Marshall Stoddart→アイルランド生まれの米国人)
(2)新進気鋭の若い作家として売り出し中のオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年→ダブリンの名門に生まれた生粋のアイルランド人)
(3)サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(→アイルランドの血をひくスコットランド人)

ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 

この食事会で、ストッダート博士は、オスカー・ワイルドとコナン・ドイルの2人から、それぞれ長編物を一作同誌に寄稿する約束を取り付けた。

コナン・ドイルは早速執筆に取り掛かり、約1ヶ月間で原稿を書き上げて、それをストッダート博士宛に送付。その作品のタイトルが「四つの署名」である。事件の依頼人であるメアリー・モースタン嬢(Mary Morstan)の父親で、約10年前の1878年12月、インドから帰国した後、行方不明になったアーサー・モースタン大尉(Captain Arthur Morstan)の宿泊先として、コナン・ドイル達が食事会を行なったランガムホテルが使用された。

本グラフィックノベルの構成は、Mr. Ian Edginton

「四つの署名」は、「リピンコット・マンスリー・マガジン」の1890年2月号に掲載されたが、続いて、同誌の1890年7月号に掲載されたオスカー・ワイルドの作品は、あの有名な「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)」であった。
なお、コナン・ドイルの原稿料は、4万5千語の作品で100ポンドだったが、当時、英国の世紀末文学の旗手として期待されていたオスカー・ワイルドの原稿料は、コナン・ドイルの倍の200ポンドだった、とのこと。コナン・ドイルが「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1891年7月号にホームズシリーズの短編小説「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」を発表して爆発的な人気を得る前のことであり、残念ながら、売れっ子のオスカー・ワイルドとは、それ位の開きがあったのである。

本グラフィックノベルの作画は、Mr. I. N. J. Culbard

コナン・ドイルは、当初、作品の題名として「四つの署名」と「ショルト家の問題」という2つの候補を考えていて、「リピンコット・マンスリー・マガジン」のストッダート博士に最終判断を委ねた。同誌の1890年2月号に掲載された際には、2つの候補を使用した「四つの署名、あるいは、ショルト家の問題(The Sign of the Four, or, The Problem of the Sholtos)」という題名が採用された。
その後、1890年10月に英国のスペンサー・ブラケット社(Spencer Blackett)から「四つの署名」が出版された際には、「The Sign of the Four」から「Four」の前の冠詞「the」が省かれた「The Sign of Four」が作品の題名として使用され、以降、主要な出版社はそれに倣っている。

日本語版の題名は、新潮社が最初に出版した日本語訳版の「四つの署名」が一般に定着しているが、原題に即したタイトルとして、河出書房新社では「四つのサイン」を、また、東京創元社では「四人の署名」という題名を採用している。

2017年8月6日日曜日

ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill)ーその2

1909年当時、通商大臣だったウィンストン・チャーチルが新婚時代に住んでいた物件が
ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の
ピムリコ地区(Pimlico)内に所在している

アガサ・クリスティー作「複数の時計(The Clocks)」(1963年)は、エルキュール・ポワロシリーズの長編で、今回、ポワロは殺人事件の現場へは赴かず、また、殺人事件の容疑者や証人への尋問も直接は行わないで、ロンドンにある自分のフラットに居ながらにして(=完全な安楽椅子探偵として)、事件の謎を解決するのである。

ウィンストン・チャーチルは、
彼の新婚時代(1909年ー1913年)に
この物件に住んでいた

TV版のポワロシリーズ「複数の時計」(2011年)が時代設定を置いている第二次世界大戦(1939年ー1945年)勃発前の1937年5月、ジョーゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain:1836年ー1914年)の子供であるアーサー・ネヴィル・チェンバレン(Arthur Neville Chamberlain:1869年ー1940年→2017年7月16日付ブログで紹介済)が保守党の党首に就任して、チェンバレン内閣(1937年ー1940年)を組閣するものの、ウィンストン・チャーチルは「閣議の和を乱す危険分子」と見做され、入閣の道は開かれなかった。

この頃、英国やフランス等が、軍事増強と領土の拡大を推し進めるドイツやイタリア等との間で、政治的な緊張を増していた時期で、独自のルートを通じ、ウィンストン・チャーチルは情報を得て、ドイツの領土的野心への警戒を強めていた。
ヒトラー総統が率いるドイツは、ドイツ系住民が多数を占める地域の割譲を要求し始めており、1938年3月、ドイツ民族国家のオーストリアを併合。ドイツやイタリアに宥和政策を行う首相のアーサー・ネヴィル・チェンバレンは許容範囲内と見做したが、ウィンストン・チャーチルはこれを良しとせず、ヒトラーによるオーストリア併合を批判する演説を展開。
更に、ヒトラーは、同じくドイツ系住民が多数を占めていたチェコスロヴァキアのズデーデン地方の割譲を要求。首相のネヴィル・チェンバレンはドイツのバイエルン州にあるヒトラーの別荘へ直接赴いて、彼を説得しようとしたが、逆に説き伏せられてしまい、結局、英国、フランス、ドイツおよびイタリアによるミュンヘン協定(1938年9月29日)に基づき、「これ以上の領土要求を行わない。」という約束をヒトラーと交わす代償として、ズデーデン地方をドイツに帰属させることを全面的に認めてしまった。これに反対するウィンストン・チャーチルとチャーチル派の議員は、抗議の意思を明確にするため、ミュンヘン協定の批准会議を欠席した。
ネヴィル・チェンバレンの宥和政策にもかかわらず、チェコスロヴァキアの内紛に伴い、チェコとスロヴァキアに分離した状況につけ込んで、1939年3月にドイツはチェコを併合。ここまで事態が至って、やっと政界や世論にも、ネヴィル・チェンバレンによる宥和政策は失敗だったという認識が強まった。

ウィンストン・チャーチルが
新婚時代に住んでいた物件は、
ピムリコ地区の高級住宅エリア内にある

1939年8月23日にソビエト連邦との間に独ソ不可侵条約を締結したドイツは、間髪をおかず、同年9月1日、ポーランドへの侵攻を開始。内閣閣僚から対独開戦を強く要求された首相のネヴィル・チェンバレンもこれ以上抗しきれず、その2日後の9月3日、ドイツに宣戦を布告し、これにフランスも呼応することになり、ここに第二次世界大戦が勃発した。
「閣議の和を乱す危険分子」のウィンストン・チャーチルではあったが、対独強硬派である彼をこれ以上無視することができなくなった首相のネヴィル・チェンバレンは彼を海軍大臣に任じ、同年9月、ウィンストン・チャーチルは海軍大臣執務室に復帰した。
ウィンストン・チャーチルは海軍大臣として大戦を指導するが、状況は一進一退で、1940年4月、英国はドイツ軍のノルウェー作戦阻止に失敗して惨敗するが、この惨敗の責任は首相のネヴィル・チェンバレンに帰せられた。そして、同年5月10日、ドイツ軍がベネルクス3国(オランダ、ベルギーとルクセンブルク)へと侵攻の矛先を転じると、ネヴィル・チェンバレンは責任をとって首相を辞任して、後任には主戦派であるウィンストン・チャーチルが保守党や労働党等を含む挙国一致内閣を組閣して、その後の大戦を指導することになった。

ウィンストン・チャーチルが新婚時代に住んでいた物件は、
エクルストンスクエア(Eccleston Square)に面している

ここまでが、TV版のポワロシリーズ「複数の時計」における時代設定の状況と第二次世界大戦へと至る経緯を、アーサー・ネヴィル・チェンバレンとウィンストン・チャーチルを中心にして纏めたものである。

2017年8月5日土曜日

ロンドン モンタギュープレイス23番地(23 Montague Place)


サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)は、シャーロック・ホームズシリーズ最初の長編「緋色の研究(A Studay in Scarlet)」(「ビートンのクリスマス年鑑(Beeton’s Christmas Annual)」)(1887年11月)に掲載→2016年7月30日付ブログで紹介済)を執筆した後、1889年8月に米国のフィラデルフィアに本社を構えるJ. B. リピンコット社からの依頼を受けて、同シリーズ第2作目の長編「四つの署名(The Sign of the Four)」を執筆し、同作品は1890年2月に出版された「リピンコット・マンスリー・マガジン(Lippincott's Monthly Magazine)」に掲載された。(「四つの署名」執筆の経緯については、2014年7月6日付ブログ「ロンドン ランガムホテル(Langham Hotel)」を御参照。)


「四つの署名」が「リピンコット・マンスリー・マガジン」に掲載されたその年(1890年)の8月に、ドイツのベルリンで開催された国際医学会議において、ロベルト・コッホが新しい結核治療法を発表した。コッホの発表に興味を抱いたコナン・ドイルはコッホに会うべく、直ちにベルリンへと向かった。ベルリン行きの列車内で、コナン・ドイルはロンドンで成功をおさめていた皮膚科の専門医モリルに出会い、彼から GP(一般開業医)ではなく、眼科専門医への転身を説得された。

モンタギュープレイスの東側(その1)ー
奥に見えるのがラッセルスクエア、
右側の建物が大英博物館、左側の建物がロンドン大学

モンタギュープレイスの東側(その2)

モンタギュープレイスの東側(その3)

コッホとの面会は叶わなかったものの、ベルリン滞在中に眼科専門医になることを思い立ったコナン・ドイルは、1890年11月にポーツマス(Portsmouth→2016年9月17日付ブログで紹介済)近郊のサウスシー(Southsea)に戻ると、開業していた個人診療所を閉鎖する。そして、1891年1月に、妻のルイーズ・ホーキンズを伴って、彼はオーストリアのウィーンへ移住し、眼科専門医になるための勉強を始めた。しかし、専門的な授業についていけるだけのドイツ語能力がコナン・ドイルには絶対的に不足していたため、彼は直ぐに授業についていけなくなり、眼科専門医になることを断念せざるを得なかった。彼は当初の予定を切り上げて、1891年3月末にロンドンに帰国すると、モンタギュープレイス23番地(23 Montague Place)の邸宅を居住の地として、アッパーウィンポールストリート2番地(2 Upper Wimpole Street→2014年5月18日付ブログで紹介済)において無資格の眼科医を始めたのである。


オーストリアのウィーンからロンドンに戻ったコナン・ドイル一家が居住の地として定めたモンタギュープレイス(Montague Place→2015年2月21日付ブログで紹介済)は、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在している。ブルームズベリー地区は、19世紀から20世紀にかけて、多くの芸術家や学者等が住む文教地区として発展してきた街である。

モンタギュープレイスの西側ー
奥に見えるのがベッドフォードスクエア

モンタギュープレイスは、東側のラッセルスクエア(Russel Square)から始まり、西側のベッドフォードスクエア(Bedford Square)で終わる約500mの通りである。また、通りの北側にはロンドン大学(University of London→2016年8月6日付ブログで紹介済)が、そして、南側には大英博物館(British Museum→2014年5月26日付ブログで紹介済)があり、現在、通りの両側で住居になっているところは、ベッドフォードスクエアに近い場所のみで、住所表記上、モンタギュープレイス23番地に該当する住居は残っていない。



アッパーウィンポールストリート2番地で無資格の眼科医を始めたコナン・ドイルではあったが、ロンドン、特にアッパーウィンポールストリートの一本東側にあるハーリーストリート(Harley Street→2015年4月11日付ブログで紹介済)には、資格を有する眼科医が大勢開業していたため、無資格の眼科医である彼に診察してもらおうと考える患者が現れることはなかった。コナン・ドイルは、現れる筈がない患者を待つ暇な時間を利用して、小説の執筆に励んだ。結局、彼は患者が全く来ない眼科診療所を閉鎖する羽目となり、執筆業一本に専念することになる。アッパーウィンポールストリート2番地の診療所を閉鎖すると、コナン・ドイル一家はモンタギュープレイス23番地の邸宅も引き払って、サウスノーウッド(South Noorwood)郊外のテニスンロード12番地(12 Tenison Road)へと移住した。

ベッドフォードスクエア側から見たモンタギュープレイス

「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」にホームズシリーズの短編小説が掲載されて、爆発的な人気を得るまでには、あと数ヶ月の時が必要であった。