サー・アーサー・イグナチウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)は、シャーロック・ホームズシリーズ最初の長編「緋色の研究(A Studay in Scarlet)」(「ビートンのクリスマス年鑑(Beeton’s Christmas Annual)」)(1887年11月)に掲載→2016年7月30日付ブログで紹介済)を執筆した後、1889年8月に米国のフィラデルフィアに本社を構えるJ. B. リピンコット社からの依頼を受けて、同シリーズ第2作目の長編「四つの署名(The Sign of the Four)」を執筆し、同作品は1890年2月に出版された「リピンコット・マンスリー・マガジン(Lippincott's Monthly Magazine)」に掲載された。(「四つの署名」執筆の経緯については、2014年7月6日付ブログ「ロンドン ランガムホテル(Langham Hotel)」を御参照。)
「四つの署名」が「リピンコット・マンスリー・マガジン」に掲載されたその年(1890年)の8月に、ドイツのベルリンで開催された国際医学会議において、ロベルト・コッホが新しい結核治療法を発表した。コッホの発表に興味を抱いたコナン・ドイルはコッホに会うべく、直ちにベルリンへと向かった。ベルリン行きの列車内で、コナン・ドイルはロンドンで成功をおさめていた皮膚科の専門医モリルに出会い、彼から GP(一般開業医)ではなく、眼科専門医への転身を説得された。
モンタギュープレイスの東側(その1)ー 奥に見えるのがラッセルスクエア、 右側の建物が大英博物館、左側の建物がロンドン大学 |
モンタギュープレイスの東側(その2) |
モンタギュープレイスの東側(その3) |
コッホとの面会は叶わなかったものの、ベルリン滞在中に眼科専門医になることを思い立ったコナン・ドイルは、1890年11月にポーツマス(Portsmouth→2016年9月17日付ブログで紹介済)近郊のサウスシー(Southsea)に戻ると、開業していた個人診療所を閉鎖する。そして、1891年1月に、妻のルイーズ・ホーキンズを伴って、彼はオーストリアのウィーンへ移住し、眼科専門医になるための勉強を始めた。しかし、専門的な授業についていけるだけのドイツ語能力がコナン・ドイルには絶対的に不足していたため、彼は直ぐに授業についていけなくなり、眼科専門医になることを断念せざるを得なかった。彼は当初の予定を切り上げて、1891年3月末にロンドンに帰国すると、モンタギュープレイス23番地(23 Montague Place)の邸宅を居住の地として、アッパーウィンポールストリート2番地(2 Upper Wimpole Street→2014年5月18日付ブログで紹介済)において無資格の眼科医を始めたのである。
オーストリアのウィーンからロンドンに戻ったコナン・ドイル一家が居住の地として定めたモンタギュープレイス(Montague Place→2015年2月21日付ブログで紹介済)は、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在している。ブルームズベリー地区は、19世紀から20世紀にかけて、多くの芸術家や学者等が住む文教地区として発展してきた街である。
モンタギュープレイスの西側ー 奥に見えるのがベッドフォードスクエア |
モンタギュープレイスは、東側のラッセルスクエア(Russel Square)から始まり、西側のベッドフォードスクエア(Bedford Square)で終わる約500mの通りである。また、通りの北側にはロンドン大学(University of London→2016年8月6日付ブログで紹介済)が、そして、南側には大英博物館(British Museum→2014年5月26日付ブログで紹介済)があり、現在、通りの両側で住居になっているところは、ベッドフォードスクエアに近い場所のみで、住所表記上、モンタギュープレイス23番地に該当する住居は残っていない。
アッパーウィンポールストリート2番地で無資格の眼科医を始めたコナン・ドイルではあったが、ロンドン、特にアッパーウィンポールストリートの一本東側にあるハーリーストリート(Harley Street→2015年4月11日付ブログで紹介済)には、資格を有する眼科医が大勢開業していたため、無資格の眼科医である彼に診察してもらおうと考える患者が現れることはなかった。コナン・ドイルは、現れる筈がない患者を待つ暇な時間を利用して、小説の執筆に励んだ。結局、彼は患者が全く来ない眼科診療所を閉鎖する羽目となり、執筆業一本に専念することになる。アッパーウィンポールストリート2番地の診療所を閉鎖すると、コナン・ドイル一家はモンタギュープレイス23番地の邸宅も引き払って、サウスノーウッド(South Noorwood)郊外のテニスンロード12番地(12 Tenison Road)へと移住した。
ベッドフォードスクエア側から見たモンタギュープレイス |
「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」にホームズシリーズの短編小説が掲載されて、爆発的な人気を得るまでには、あと数ヶ月の時が必要であった。
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