2025年10月7日火曜日

アーサー王の世界 <ジグソーパズル>(The World of King Arthur )- その1

英国の The Orion Publishing Group Ltd. から2023年に出ている
ジグソーパズル「アーサー王の世界」(1000ピース)

英国の The Orion Publishing Group Ltd. より、2023年に、「アーサー王の世界(The World of King Arthur)」と言うジグソーパズルが出ているので、紹介したい。


ジグソーパズル「アーサー王の世界」の完成過程(その1)

ジグソーパズル「アーサー王の世界」の完成過程(その2)

「アーサー王の世界」は、イラストレーターの Mr. Adam Simpson が描いたものが、ジグソーパズル(1000ピース - 縦:約70㎝ / 横:約50㎝)となっている。


ジグソーパズル「アーサー王の世界」の完成過程(その3)

ジグソーパズル「アーサー王の世界」の完成過程(その4)

イラストレーターの Mr. Adam Simpson が担当したジグソーパズルは、「アーサー王の世界」以外に、


*「シェイクスピアの世界(The World of Shakespeare → 2023年4月28日付ブログ等で紹介済)」


英国の The Orion Publishing Group Ltd. から2020年に出ている
ジグソーパズル「シェイクスピアの世界」(1000ピース)


*「ドラキュラの世界(The World of Dracula → 2023年1月2日付ブログ等で紹介済)」(2021年)


英国の The Orion Publishing Group Ltd. から2021年に出ている
ジグソーパズル「ドラキュラの世界」(1000ピース)


*「フランケンシュタインの世界(The World of Frankenstein → 2023年3月6日付ブログ等で紹介済)」(2022年)


英国の The Orion Publishing Group Ltd. から2022年に出ている
ジグソーパズル「フランケンシュタインの世界」(1000ピース)


があり、「アーサー王の世界」が彼の第4作目に該る。


(1)「Merlin and the baby Arthur」

魔法使いのマーリン(Merlin)が、ユーサー・ペンドラゴン(Uther Pendragon)の正統な息子で、
将来の王であるアーサーを抱いている場面が描かれている。
これ以降、マーリンは、アーサーを補佐して、導いていく。


(2)「Arthur draws the sword from the stone」

ユーサー・ペンドラゴンの息子アーサーは、
「これを引き抜いた者は、将来、王となるだろう。」と書かれた台座に刺さっていた剣を引き抜いて、
王となる資格を証明する場面が描かれている。


(3)「Arthur takes Excalibur」

アーサーは、魔法使いマーリンの導きを受けて、名君へと成長していくが、

その途中、湖の中から伝説の名剣である「エクスカリバー(Excalibur)」を入手する場面が描かれている。


(4)「Arthur marries Guinevere」

アーサーは、キャメロット城(Castle Camelot)を拠点として、巨人退治やローマ遠征等、様々な冒険を重ね、
英国だけではなく、フランスやイタリア等を含む巨大な王国をまとめ上げる。
そして、アーサー王が、グィネヴィア(Guinevere)を王妃に迎える場面が描かれている。


(5)「Sir Gawain and the Green Knight」

ガウェイン卿(Sir Gawain)は、「円卓の騎士」の一人で、

アーサー王の甥(オークニー王ロトとアーサー王の異父姉モルゴースの子)に該る。

これは、アーサー王伝説ではなく、

1300年代後半にイングランドで書かれた作者不詳の物語「ガウェイン卿と緑の騎士(Sir Gawain and the Green Knight)」がベースとなっている。


アーサー王の宮殿において、新年の宴が行われていた際、突如、衣服だけではなく、

髪の毛や皮膚、更に、跨る馬までが全て緑色をした「緑の騎士(Green Knight)」が姿を現し、

ガウェイン卿に対して、「首切りゲーム」を持ち掛けてくる。「

緑の騎士」は、ガウェイン卿に「自分の首を大鉈で掻き斬ってみろ!」と挑発するともに、

「それでも、自分が無事だった場合、それに相応する挑戦を受けろ!」と持ち掛けたのである。

挑発を受けたガウェイン卿が、大鉈で「緑の騎士」の首を一振りで斬り落とす前の場面が描かれている。


(6)「Knights of the Round Table」

魔法使いのマーリンによる助けを得て、湖の中から聖剣エクスカリバーを入手したアーサーは、
キャメロット城を拠点として、巨人退治やローマ遠征等、様々な冒険を重ね、
英国だけではなく、フランスやイタリア等を含む巨大な王国をまとめ上げる。
そして、アーサー王が、グィネヴィアを王妃に迎えると、諸侯の騎士達を臣下とし、円卓に席を与えて、
有名な円卓の騎士団を結成する場面が描かれている。


(7)「Sir Lancelot defeats the dragon」

ランスロット卿(Sir Lancelot)は、

フランスの一地方を統治していたベンウィックのバン王(Ban de Benoic)の息子で、

両親が共に早く他界したため、「湖の乙女」という妖精に育てられ、

「湖の騎士(Lancelot du lac)」と呼ばれる。

その後、成人となったランスロット卿は、武者修行のため、ブリテン島へと渡り、

そこでアーサーと出会い、円卓の騎士の一人となる。

槍、剣術、また、乗馬のどれをおいても、ランスロット卿の右に出る者は居らず、

それに加えて、騎士としての行動や振る舞いも素晴らしかったため、

「この世で最も誉れ高き最高の騎士」と呼ばれたが、

後に、アーサー王の妃であるグィネヴィアとの不義密通に端を発する

内乱や円卓の騎士団の崩壊を引き起こしてしまう。

記念切手では、ランスロット卿による竜退治場面が描かれている。

なお、ランスロット卿が構える剣は、

「アロンダイト(Aroundight)」と呼ばれる彼が愛用した剣だと思われる

ただし、厳密に言うと、竜退治で有名なのは、トリスタン(Tristan)ではないかと考える。


(8)「Sir Galahad and the Holy Grail」

ガラハッド卿(Sir Galahad)は、ランスロット卿とペレス王の娘であるエレインの子供で、

円卓の騎士の一人である。

アーサー王が課す様々な試練を容易に達成して、「世界で最も偉大な騎士」と称され、

円卓の騎士に加えられた。

その後、聖杯探索の任務を与えられ、聖杯を発見した3人の騎士の一人となった。

記念切手では、ガラハッド卿が聖杯を見つけた場面が描かれている。

なお、聖杯を発見した他の2人の騎士は、ガウェイン卿とパーシヴァル卿(Sir Percival)である。


(9)「Arthur battles Mordred」

禁断の恋に陥ったランスロット卿とグィネヴィアを追討するため、アーサー王は国中に命令を出すものの、

円卓の騎士達の半分近くが、人望のあるランスロット卿に付き、アーサー王の命令に従わなかったため、

円卓の騎士達は、二つに分かれてしまった。

フランスへと渡ったランスロット卿とランスロット派の円卓の騎士達と戦うために、

アーサー王はフランスへと出兵する。

その際、アーサー王は、モルドレッド(Mordred - アーサー王の異父姉モルゴース(Morgause)の息子で

、ガウェイン卿の異父弟 → 実際には、アーサー王とモルゴースの間の不義の子)を摂政に任命して、

王国を任せた。

ところが、モルドレッドは、謀反を起こして、グィネヴィアをは自分の妃に迎えようとした。

グィネヴィアは、これを拒絶して、ロンドン塔に籠城したため、

モルドレッドは、軍を率いて、グィネヴィアが籠城するロンドン塔を取り囲んだ。

知らせを受けたアーサー王は、軍を率いて、ブリテン島へと戻り、

カムランの戦い(Battle of Camlann)において、モルドレッドとの間で一騎打ちを行い、

槍で突き刺して、モルドレッドを討ち取るが、アーサー王自身も深手を負ってしまう。

記念切手では、アーサー王が、槍でモルドレッドを突き刺す前の場面が描かれている。


(10)「The death of King Arthur」

モルドレッドによって深手を負わされたアーサー王は、

円卓の騎士の一人であるベディヴィア卿(Sir Bedivere)に指示して、

聖剣エクスカリバーを湖の水面から現れた手に返すと、小舟で去って行く場面が描かれている。

アーサー王は、ブリテン島にあるとされる伝説の島であるアヴァロン(Avalon)の島へ、

傷を癒しに向かったのだと言われている。


2021年3月16日に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から「アーサー王伝説(The Legend of King Arthur → 2022年7月30日 / 8月7日付ブログで紹介済)」をテーマにした10種類の記念切手を発行されているが、本ジグソーパズルのイラスト内には、「アーサー王伝説」に登場するキャラクター等が散りばめられているので、次回以降、順番に紹介していきたい。


  

2025年10月6日月曜日

ロンドン セントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)- その4

セントジェイムズ宮殿の建物正面
<筆者撮影>

英国王室がステュアート朝(House of Stuart)からハノーヴァー朝(House of Hanover)へ移行した後も、セントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)はロンドンにおける第一王宮として引き続き使用されたが、次第に、限られた公式行事、歓迎式典、王家の結婚式や洗礼式等に使用されるだけになっていく。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)内で
所蔵 / 展示されている
ヴィクトリア女王の肖像画
(By Sir George Hayter / Oil on canvas / 1863年 /
based on a portrait of 1838)
<筆者撮影>


ハノーヴァー朝の第5代国王であるウィリアム4世(William IV:1765年ー1837年 在位期間:1830年ー1837年)の後を継いで、ハノーヴァー朝の第6代女王として即位したヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年 → 2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)は、セントジェイムズ宮殿からバッキンガムハウス(Buckingham House)へと引越を行い、バッキンガム宮殿(Buckingham Palace)として使用を開始し、同宮殿に居住した最初の君主となった。

その結果、セントジェイムズ宮殿は、ロンドンにおける第一王宮としての役目を終えたのである。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
英国のロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手の1枚 -
画面手前左側の人物がアルバート公で、
画面手前右側の人物がヴィクトリア女王
(By Sir George Hayter / 1842年)


ただし、ヴィクトリア女王が1840年にアルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)と結婚した際、挙式はセントジェイムズ宮殿の Chapel Royal において行われている。


その後、セントジェイムズ宮殿には、


*ウェールズ公(Prince of Wales)時代のエドワード8世(Edward VIII - ウィンザー朝(House of Windsor)の第2代国王:1894年ー1972年 在位期間:1936年1月20日ー1936年12月11日)


エドワード8世時代(1936年)に発行された切手の図案をベースにして、
英国のロイヤルメールが発行した切手


*ヨーク公爵(Duke of York)時代のジョージ6世(George VI - ウィンザー朝の第3代国王:1895年ー1952年 在位期間:1936年12月11日ー1952年)/ 1923年に結婚する前


ナショナルポートレイトギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ヨーク公爵時代のジョージ6世の肖像画
(By Meredith Frampton / Oil on canvas / 1929年 /
Lent by Trustees of Barnado's 1997)
<筆者撮影>

ジョージ6世時代(1940年)に発行された切手の図案をベースにして、
英国のロイヤルメールが発行した切手


*ウェールズ公時代のチャールズ3世(Charles III - ウィンザー朝の第5代国王:1948年ー 在位期間:2022年ー)/ ウィリアム王子(Prince William:1982年ー)/ ヘンリー王子(Prince Henry:1984年ー)


チャールズ3世の70歳の誕生日を記念して、
英国のロイヤルメールから2018年に発行された切手の1枚 -
画面左側から、ウェールズ公時代のチャールズ3世、ヘンリー王子、そして、ウィリアム王子。


2023年5月6日、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)において行われた
チャールズ3世の戴冠式を記念して、
英国のロイヤルメールから2023年に発行された切手の1枚 -
The Coronation : representing the monarchy, continuity, longevity, heritage and tradition


が住んでいたが、現在は、


*アン王女(Anne, Princess Royal - ウィンザー朝の第4代女王であるエリザベス2世(Elizabeth II:1926年ー2022年 在位期間:1952年ー2022年)の長女:1950年ー)



*アレクサンドラ王女(Princess Alexandra, The Honourable Lady Ogilvy - ケント公爵ジョージ王子(Prince George, Duke of Kent:1902年ー1942年)の長女):1936年ー


のロンドンにおける住居となっている。


セントジェイムズ宮殿は、現在、ロンドンにおける第一王宮としての役目を担っていないものの、英国王室は、引き続き、同宮殿を公的な住所としている。

そのため、外国から英国へ派遣された大使達は、バッキンガム宮殿において、国王 / 女王に対して、信任状を奉呈するが、名目上は、「セントジェイムズ宮廷の下(pres la Cour de St. James)」に派遣された扱いになっている。

つまり、英国首相官邸が所在する「ダウニングストリート(Downing Street)」が「英国首相府」の代名詞となっているのと同様に、「セントジェイムズ宮殿」が「英国王室」を指し示すのである。


2025年10月4日土曜日

アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck)- その2

ロンドンのナショナルギャラリー(National Gallery)に所蔵 / 展示されている
アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画
(Sir 
Anthony van Dyck / 1640年頃 / Oil on panel
560 mm x 460 mm) 

<筆者撮影>

ジョン・ディクスン・カー作「軽率だった夜盗(A Guest in the House / The Incautious Burglar → 2025年9月9日付ブログで紹介済)」において、マーカス・ハント(Marcus Hunt - 企業家 / 投資家)が所有するクランレイ荘に所蔵され、謎の夜盗に狙われた絵画3枚のうち、1枚の作者であるアンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck:1599年ー1641年)は、1599年3月22日、スペインから独立する前のオランダ(Spanish Netherlands)アントウェルペン(Antwerpen - オランダのロッテルダム(Rotterdam)とともに、欧州を代表する港湾都市の一つであるアントワープ(Antwerp)のこと)に出生。

彼の父親は、絹取引を営む商人であるフランツ・ヴァン・ダイク(Frans van Dyck)、彼の母親は、後妻のマリア・クパース(Maria Cupers)で、夫妻の7番目の子供だった。

彼は、翌日の同年3月23日、現在のアントワープ大聖堂(Antwerp Cathedral)で、アントニオ(Anthonio)として洗礼を受けている。


東京創元社から、創元推理文庫の一冊として出版されている
ジョン・ディクスン・カー作
「カー短編全集2 妖魔の森の家」の表紙
(カバー : アトリエ絵夢 志村 敏子氏) -
「軽率だった夜盗」(宇野 利奏訳)において、
夜盗がクランレイ荘に侵入した際、
「その(懐中電燈の)光が、食器棚に沿って匍っていくと、
銀色にきらめくものがあった。果物鉢である。
鉢の中のリンゴに、まるでそれが人間の胴であるかのように、
小型ナイフが不気味につき刺さったままだ。」や
「銀の食器類が一そろい、食器棚の前に散乱していた。
果物鉢も転げ落ちていた。
オレンジとリンゴ、そして葡萄の粒が潰れているあいだに、
死体が仰向けに倒れている。」と言う記述があるので、
表紙のデザインは、同作の内容を参考しているものと思われる。


アンソニー・ヴァン・ダイクは、僅か8歳の時に、母マリアを亡くしてしまうが、裕福な家庭で育った彼は、幼少の頃から、優れた芸術の才能を見せ、10歳の時(1609年)には、アントウェルペンの画家であるヘンドリック・ファン・バーレン(Hendrick van Balen:1573年頃ー1632年)の下で絵画を学び始めている。

1615年、あるいは、1616年には、彼は、画家として独り立ちをし、年少の友人であるヤン・ブリューゲル(子)(Jan Brueghel de Jonge:1601年ー1678年)と一緒に、工房を構えている。

画家として独り立ちした彼は、1617年10月18日に、アントウェルペンの芸術家ギルドである「聖ルカ組合(Guild of Saint Luke)」への入会を許されている。


アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画の解説板
<筆者撮影>


正確な年月は不明であるが、アンソニー・ヴァン・ダイクは、アントウェルペンだけではなく、北ヨーロッパ全域において高い評価を得ていた画家ピーテル・パウス・ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577年ー1640年)の筆頭助手となる。

当時、ピーテル・パウス・ルーベンスは、自身の大規模な工房を経営することに加えて、他の芸術家が経営する工房との間で、多くの絵画制作補助契約を締結していた。

ピーテル・パウス・ルーベンスは、若いアンソニー・ヴァン・ダイクに対して、多大な影響を与えた一方、ルーベンスは、ヴァン・ダイクを「最も優れた弟子(the best of my pupils)」と評している。


1621年にオランダとスペインの間の休戦期が終わると、スペインやハプスブルグ家の君主達から外交的任務に重用され始めたピーテル・パウス・ルーベンスは、1621年にアントウェルペンを出て、約10年間、画家としてのキャリアを外国で送るようになった。


英国の場合、第一王宮として使用していたホワイトホール宮殿(Palace of Whitehall)が、1698年に火災で焼失。

ホワイトホール宮殿の一部のうち、今でも現存しているのが、「バンケティングハウス(Banqueting House)」で、晩餐会や舞踏会等の目的で使用されているが、通常は、一般の見学者に開放されている。


バンケティングハウス内(上階)で
晩餐会等が開催される場所の天井から吊り下げられているシャンデリア
<筆者撮影>


バンケティングハウスは、イタリア遊学中にイタリア・ルネッサンス建築の影響を大きく受けた英国の建築家イニゴー・ジョーンズ(Inigo Jones:1573年ー1662年)が設計し、1622年に建築された。また、晩餐会や舞踏会等が開催される部屋の天井画は、アンソニー・ヴァン・ダイクの師であるピーテル・パウス・ルーベンスによって描かれている。


アンソニー・ヴァン・ダイクの師である
ピーテル・パウス・
ルーベンスによって描かれた天井画
<筆者撮影>


なお、バンケティングハウスの前では、清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)を経て、英国王チャールズ1世(Charles Ⅰ:1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年 → 2017年4月29日付ブログで紹介済)の公開処刑が1649年1月30日に行われた。英国の歴史上、英国王が処刑された事例は、チャールズ1世のみである。バンケティングハウスの入口上の外壁に、チャールズ1世のレリーフが掛けられている。


バンケティングハウス入口上の外壁に設置されている
チャールズ1世のレリーフ
<筆者撮影>


アンソニー・ヴァン・ダイクも、師であるピーテル・パウス・ルーベンスの例に倣い、この後、画家としてのキャリアのほとんどをを外国で送るようになるのである。 


2025年10月2日木曜日

レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn)- その2

ロンドンのウォレスコレクション(Wallace Collection
→ 2014年6月15日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている
レンブラント・ファン・レイン作
「Self-Portrait in a Black Cap」(1637年)
<筆者撮影>

ジョン・ディクスン・カー作「軽率だった夜盗(A Guest in the House / The Incautious Burglar → 2025年9月9日付ブログで紹介済)」において、マーカス・ハン(Marcus Hunt - 企業家 / 投資家で)が所有するクランレイ荘に所蔵され、謎の夜盗に狙われた絵画3枚のうち、2枚の作者であるレンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn:1606年ー1669年 / ネーデルラント連邦共和国(現オランダ王国)の画家)は、1606年7月15日、スペインから独立する直前のオランダ(Spanish Netherlands)ライデン(Leiden)に出生。

東京創元社から、創元推理文庫の一冊として出版されている
ジョン・ディクスン・カー作
「カー短編全集2 妖魔の森の家」の表紙
(カバー : アトリエ絵夢 志村 敏子氏) -
「軽率だった夜盗」(宇野 利奏訳)において、
夜盗がクランレイ荘に侵入した際、
「その(懐中電燈の)光が、食器棚に沿って匍っていくと、
銀色にきらめくものがあった。果物鉢である。
鉢の中のリンゴに、まるでそれが人間の胴であるかのように、
小型ナイフが不気味につき刺さったままだ。」や
「銀の食器類が一そろい、食器棚の前に散乱していた。
果物鉢も転げ落ちていた。
オレンジとリンゴ、そして葡萄の粒が潰れているあいだに、
死体が仰向けに倒れている。」と言う記述があるので、
表紙のデザインは、同作の内容を参考しているものと思われる。


彼の父親は、製粉業(miller)を営む中流階級であるハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レイン(Harmen Gerritszoon van Rijn)、彼の母親は、都市貴族でパン屋(baker)を生業とする一家の娘であるネールチェン・ヴィルムスドホテル・ファン・ザウトブルーグ(Neeltgen Willemsdochter van Zuijtbrouck)で、夫妻の9番目の子供だった。

一家の姓である「ファン・レイン」は、「ライン川の(van Rijn)」を意味しており、これは、彼の父ハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レインが、ライデンを流れる旧ライン川沿いに製粉の風車小屋を所有していたことに由来する。


レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レインは、1613年にラテン語学校(Latin school)に入学した後、1620年(14歳)にライデン大学(University of Leiden)へ飛び級で進学。大学へ進学したのは、彼だけで、彼の兄達は家業の製粉業を手伝っていた。

レンブラント・ファン・レインの両親は、彼が法律家になることを期待していたが、画家を目指した彼は、僅か数ヶ月で大学を退学してしまう。

ライデン大学を退学したレンブラント・ファン・レインは、イタリア留学経験を持つ歴史画家のヤーコプ・アイザックソーン・ファン・スヴァーネンブルフ(Jacob Issacszoon van Swanenburg:1571年ー1638年)に弟子入りして、3年間、絵画技法から解剖学まで必要な技能を学んだ。

1624年(18歳)には、半年間だけではあるが、当時オランダ最高の歴史画家と言われたアムステルダム(Amsterdam)のピーテル・ラストマン(Pieter Lastman:1583年ー1633年)にも師事。


ロンドンのウォレスコレクションに所蔵 / 展示されている
レンブラント・ファン・レイン作
「Titus, the Artist's Son」(1657年頃)
<筆者撮影>


アムステルダムからライデンに戻ったレンブラント・ファン・レインは、1625年、実家にアトリエを構えて、絵画の制作を開始。

彼と同じように、ピーテル・ラストマンに師事し、、12歳から画家としての活動を始めていたヤン・リーフェンス(Jan Lievens:1607年ー1674年)と知り合い、一時期、工房を共同で持ち、競い合った。

1627年頃には、レンブラント・ファン・レインは、自分の弟子を受け入れるようになり、指導を行った。


レンブラント・ファン・レインは、画家としての頭角を現し始め、オラニエ公(prince of Orange)/ オランダ総督(stadtholder of Holland)であるフレデリック・ヘンドリック(Frederik Hendrik:1584年ー1647年)は、彼から多くの絵画を購入。

その関係もあって、詩人 / 作曲家で、フレデリック・ヘンドリックの秘書官でもあったコンスタンティン・ホイヘンス(Constantijn Huygens:1596年ー1687年)は、レンブラント・ファン・レインとヤン・リーフェンスの2人に目をかけており、レンブラント・ファン・レインを「判断力と表現力に優れる粉屋の息子」、また、ヤン・リーフェンスを「創造性に優れる刺繍屋の息子」と評して、「いずれもが有名な画家と比肩して、そのうちにこれを超えるだろう。」と、日記に認めている。


名声を獲得しつつあったレンブラント・ファン・レインにとって、生まれ故郷のライデンは、次第に狭くなってきた。

1630年4月23日に、父親のハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レインが亡くなると、レンブラント・ファン・レインは、アムステルダムへ進出する決断を下して、1631年に同地へ移った。


                                         

2025年10月1日水曜日

アガサ・クリスティー作「秘密機関」<小説版>(The Secret Adversary by Agatha Christie )- その3

2015年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「秘密機関」の
ペーパーバック版の裏表紙
(Cover design : 
HarperCollinsPublishers Ltd. /
Agatha Christie Ltd. 2015
)

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の長編第2作目で、かつ、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary)」(1922年)の場合、1915年5月7日の午後2時、アイルランド(Ireland)沖15㎞ の地点である大西洋(Atlantic Ocean)上において、米国ニューヨーク(New York)から英国リヴァプール(Liverpool)へと向かっていた旅客船ルシタニア号(RMS Lusitania → 2025年7月22日 / 7月23日付ブログで紹介済)が、ドイツ帝国海軍(Imperial Germany Navy)の潜水艦 Uボート(U-boat)から2発の魚雷攻撃を受けて、沈没の危機に瀕していた場面から、その物語が始まる。


HarperCollins Publishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「秘密機関」の
グラフィックノベル版の表紙
(Cover Design and Illustration by Ms. Nina Tara)-
ドイツ帝国軍の U ボート(U-boat)が放った魚雷2発を受けて、
沈没していく旅客船ルシタニア号が描かれている。
また、画面右下に浮かんでいる救命浮き輪には、
ルシタニア号(LUSITANIA)の名前が表記されている。


そして、月日が流れ、第一次世界大戦(1914年ー1918年)が終わり、世界が復興へと向かう中、ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅(Dover Street Tube Station → 2025年7月30日 / 8月5日付ブログで紹介済)のドーヴァーストリート(Dover Street → 2025年7月28日 / 7月29日付ブログで紹介済)出口において、昔馴染みのトミーとタペンスは、偶然出くわした。


地下鉄ドーヴァーストリート駅の出口があった
ドーヴァーストリート5−7番地の建物外観
<筆者撮影>


二人は、お互いに戦後の就職難に悩まされていた。トミーの方は、大戦中の1916年に負傷しており、一方、タペンスの方は、大戦中ずーっと、ボランティアとして、様々な形で働いていたのである。


HarperCollins Publishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「秘密機関」のグラフィックノベル版 -
第一次世界大戦後、タペンスこと、プルーデンス・カウリーと
トミーこと、トマス・ベレズフォードの2人は、
ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅のドーヴァーストリート出口において、数年ぶりに再会する。


久々の再会を果たしたトミーとタペンスは、ドーヴァーストリートを下って、ピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)へと向かう。


ドーヴァーストリート5−7番地の建物の右側には、現在、パブが建っている。
画面奥で左右に延びる通りが、ピカデリー通り。
<筆者撮影>


ピカデリー通り -
画面中央奥に見える建物が、ホテル「リッツ ロンドン」。
<筆者撮影>


カフェ「リオンズ(Lyons)」に腰を落ち着けた2人は、お互いの近況を語り合う。

日々のお金に困っていたトミーとタペンスは、「青年冒険家商会(The Young Adventurers, Ltd.)」を設立して、2人で報酬を獲得する術を話し合った。

その際、トミーは、タペンスに対して、「今日、通りで2人の男性がジェーン・フィン(Jane Finn)について話しているのを耳にした。」と言う少し変わったことを告げる。


翌日の昼12時に、地下鉄ピカデリー駅(Piccadilly Tube Station)で待ち合わせて、「青年冒険家商会」の内容を更に詰めることを約束した2人は、カフェ「リオンズ」を出る。

トミーは、ホテル「リッツ ロンドン(The Ritz London → 2025年7月2日 / 7月14日付ブログで紹介済)」辺りまで、ブラブラと散策するつもりだった。一方、タペンスの方は、サウスベルグラヴィア(South Belgravia)の寄宿寮へ真っ直ぐに帰ることにした。


ピカデリー通り沿いにある地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)の入口から
リッツ ロンドンの建物を見上げたところ
<筆者撮影>


タペンスが、サウスベルグラヴィアの寄宿寮へと帰るべく、セントジェイムズパーク(St.

James’s Park)を通り抜けようとしていた時、ある男性に呼び止められる。

エストニアグラスウェア会社(Esthonia Glassware Co.)の社長であるエドワード・ウィティントン(Edward Whittington)と名乗った男性は、タペンスに対して、「仕事を依頼したいので、明日の午前11時に、オフィスに来てほしい。」と告げた。

トミーと「青年冒険家商会」の話をした直後、タペンスは、早くも依頼人に出会った訳である。


翌日の午前11時に、エストニアグラスウェア会社のエドワード・ウィティントンの元を訪れた際、奇妙な依頼をする彼から名前を尋ねられたタペンスが、トミーから聞き覚えのある「ジェーン・フィン」と言う名前を偽名として名乗ると、その場の雰囲気が一変した。

急に顔色を変えたエドワード・ウィティントンは、タペンスに対して、50ポンドを渡すと、「明日、サイド、オフィスに来てほしい。」と告げる。

ところが、タペンスが、翌日、オフィスを再訪すると、驚くことに、エストニアグラスウェア会社は既に閉鎖されていたのである。


タペンスがエドワード・ウィティントンに使った偽名の「ジェーン・フィン」とは、1915年5月7日、アイルランド沖の大西洋上で、ドイツ帝国海軍の潜水艦 Uボートからの魚雷攻撃を受けて、沈没寸前の旅客船ルシタニア号において、米国の諜報員から極秘文書を託された女性の名前だったのだ。

英国情報局員の協力を得て、ジェーン・フィンの捜索と極秘文書の確保を乗り出したトミーとタペンスの2人であったが、彼らの前に、謎の組織の首領である「ブラウン氏(Mr Brown)」とその配下達が立ちはだかるのであった。

果たして、トミーとタペンスは、「青年冒険家商会」として、ジェーン・フィンの捜索と極秘文書の確保を無事成し遂げることができるのか?