2024年6月13日木曜日

ケンブリッジ大学創立800周年記念 / チャールズ・ダーウィン(800th Anniversary of the University of Cambridge / Charles Darwin)- その2

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
チャールズ・ダーウィンの肖像画の葉書
(John Collier
 / 1883年 / Oil on panel
1257 mm x 965 mm)


1809年2月12日、イングランド西部シュロップシャー州(Shropshire)シュルーズベリー(Shrewsbury)に、医学エリートの家系の下、6人兄弟の5番目の子供(次男)として生まれたチャールズ・ロバート・ダーウィン(以下、チャールズ・ダーウィン / Charles Robert Darwin:1809年ー1882年)は、非常に恵まれた一家の御曹司にもかかわらず、優等生タイプではなく、幼少期より、暇を見つけては、昆虫採集 /標本作りや狩猟等に没頭しており、学業はそっちのけであった。


長男のエラズマス・アルヴェイ・ダーウィン(Erasmus Alvey Darwin:1804年ー1881年)と次男のチャールズに実家の医業をつがせようと考えていた父親のロバート・ダーウィン(Robert Darwin:1766年ー1848年)は、15歳になっても、昆虫採集や狩猟等にうつつをぬかし、学業が完全に疎かになっているチャールズ・ダーウィンの態度に業を煮やして、彼を地元の寄宿学校から引き離して、医学を勉強させるために、1825年10月、兄のエラズマスが当時学んでいたエディンバラ大学(University of Edinburgh)に入学させたのである。


父の言い付けに従い、エディンバラ大学に入学した16歳のチャールズ・ダーウィンは、医学と地質学を学ぶが、


(1)彼自身、血を見ることが非常に苦手な上に、麻酔処置がまだ導入されていなかった外科手術に耐えることができなかったこと


(2)幼少期から昆虫採集 / 標本作り等の実体験を伴う博物学に興味を抱いているため、アカデミックな内容の講義には退屈してしまい、馴染めなかったこと


等が要因となり、1827年4月に、1年半で大学を中退することになり、父親のロバートをひどく落胆させた。


エディンバラ大学における医学の勉強は、チャールズ・ダーウィンにとって、身になることはなかったが、ジョン・エドモンストーン(John Edmonstone)から剥製術(taxidermy)を学んだことが、後に彼の人生を劇的に変えるビーグル号(HMS Beagle → 2022年1月16日付ブログで紹介済)による約5年に及ぶ航海(1831年12月27日ー1836年10月2日)において、大いに役立つのである。

なお、ジョン・エドモンストーンは、南米生まれの元黒人奴隷で、プランテーション(大規模農園)で働いていた際、農場主の義理の息子の南米の探検旅行に同行し、彼から剥製術を習得した。その後、奴隷から解放されると、ジョン・エドモンストーンは、農場主と一緒に、スコットランドへ移住し、エディンバラ大学において、剥製術を教えると言う数奇な経緯を辿っている。


また、エディンバラ大学在籍中に、チャールズ・ダーウィンは、父方の祖父で、高名な医師 / 詩人 / 自然哲学者 / 発明家でもあったエラズマス・ダーウィン(Erasmus Darwin:1731年ー1802年)が唱えた進化論的な説が記された著作を読んでおり、後に「種の起源(On the Origin of Species)」(1859年)を出版する礎となる。


自然史博物館(Natural History Museum)内の中央大階段の途中に設置されている
チャールズ・ダーウィン像


エディンバラ大学を中退して、実家に戻って来たチャールズ・ダーウィンに対して、彼を医者にすることを諦めた父のロバートは、彼を牧師になるように言い渡すと、1828年1月、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)クライストカレッジ(Christ College)に再入学させた。

実は、チャールズ・ダーウィン本人としては、牧師であれば、余暇を大好きな博物学の研究に費やすことができると考えて、父の提案を喜んで、受け入れたのである。

ケンブリッジ大学クライストカレッジに再入学したチャールズ・ダーウィンは、当初、神学、古典や数学等を学んだが、同カレッジに在籍していた再従兄弟のウィリアム・ダーウィン・フォックス(Willaim Darwin Fox:1805年ー1880年 → 後に、牧師になっている)と一緒に、またもや、博物学や昆虫採集等に傾倒していく。


その後、チャールズ・ダーウィンは、再従兄弟のウィリアムの紹介で、英国の植物学者 / 地質学者 / 聖職者で、ケンブリッジ大学の植物学教授(一時期は、鉱物学教授を兼任)を務めていたジョン・スティーヴンス・ヘンズロー(John Stevens Henslow:1796年ー1861年)と出会う。自然科学の知識全般に精通していたヘンズロー教授に心酔したチャールズ・ダーウィンは、彼の弟子となり、標本集めの助手を務めた。そして、そのあまりの熱心さから、チャールズ・ダーウィンは、「ヘンズローと歩く男」と揶揄される程だった。


エディンバラ大学 / 医学では挫折を味わったチャールズ・ダーウィンであったが、中の上の成績をおさめて、1831年4月にケンブリッジ大学神学部を無事卒業する。


ケンブリッジ大学卒業後、北ウェールズの地質調査に同行していたチャールズ・ダーウィンが実家に戻って来ると、恩師であるヘンズロー教授から手紙が届く。

その手紙によると、英国海軍の測量艦ビーグル号の艦長(captain)であるロバート・フィッツロイ(Robert FitzRoy:1805年ー1865年)が博物学者を探しており、ヘンズロー教授としては、チャールズ・ダーウィンを推薦したい、とのことだった。


英国海軍の500周年を記念して、
2019年に英国のロイヤルメールが発行した8種類の記念切手のうち、
英国の自然学者 / 生物学者であるチャールズ・ロバート・ダーウィンが乗艦したことで
有名な
「HMS ビーグル」。


当初、父のロバートは、「牧師となって、早く身を固めるべき。」と猛反対したが、叔父のジョサイア・ウェッジウッド2世(Josiah Wedgwood II:1769年ー1843年)を味方に付けて、父ロバートの説得に成功した22歳の若きチャールズ・ダーウィンは、未知の世界への切符を手に入れ、ビーグル号に乗船して、1831年12月27日、プリマス(Plymouth → 2023年9月8日付ブログで紹介済)を出港した。

ビーグル号の航海は、当初、3年の予定だったが、前述の通り、約5年に及ぶ航海となったが、これが、後に彼の人生を劇的に変える出来事となったのである。

なお、チャールズ・ダーウィンの叔父のジョサイア・ウェッジウッド2世は、彼の母親であるスザンナ・ダーウィン(Susannah Darwin:1765年ー1817年)の弟で、後に彼の妻となるエマ・ウェッジウッド(Emma Wedgwood:1808年ー1896年)の父親でもある。


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