1891年7月の「ボへミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」を皮切りに、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」にほぼ毎月シャーロック・ホームズ作品を連載していたアーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)であったが、毎回新しいストーリーを考え出して作品を創作することが、彼にはだんだん苦痛となってきていた。また、コナン・ドイルとしては、自分の文学的才能は長編歴史小説の分野において発揮/ 評価されるべきと考えており、ホームズ作品は彼にとってはあくまでも副業に過ぎなかったのである。
ところが、「ストランドマガジン」を通じて、ホームズ作品が予想以上に爆発的な人気を得るに至ったため、コナン・ドイルは、ホームズ作品の原稿締め切りに毎回追われる始末で、自分が本来注力したい長編歴史小説に時間を全く割けない状況であった。
そこで、彼は、1893年12月の「最後の事件(The Final Problem → 2022年5月1日 / 5月8日 / 5月11日付ブログで紹介済)」において、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティ教授(Professor James Moriarty)と一緒に、ホームズをスイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの深い滝壺(Reichenbach Falls)の中に葬ってしまったのである。
実は、同年4月に、彼は母親のメアリーに対して手紙を出しており、その中で、ホームズを最後に殺すことで、ホームズ今回のシリーズを以って、終わりにすることを伝えている。ホームズ作品の爆発的な人気のお陰で、長年の貧乏暮らしから脱却できたことを十二分に判っていた母親のメアリーは、息子の方針に対して、反対を唱えたが、彼の決意が翻ることはなかったのである。
「最後の事件」が「ストランドマガジン」に掲載された際、読者は大いに嘆き悲しみ、ロンドン市民は正式な喪に服すべく、黒い腕章を身につけたとのことである。更に、2万人以上の読者が「ストランドマガジン」の購読を中止した上、何千通もの抗議の手紙が出版社宛に届けられたそうである。更に、コナン・ドイルに対しても、抗議、非難や中傷の手紙が多数送り付けられた。
しかしながら、コナン・ドイルの決意は固く変わらず、長期間に渡り、読者や出版社からの要望を拒否し続け、ホームズが復活することはなかったのである。
当初の計画通り、ホームズを抹殺したコナン・ドイルは、ナポレオン戦争時代を舞台にして、「ジェラール准将」シリーズの執筆を1894年から始めた。最初の8編については、1896年に短編集「ジェラール准将の功績(The Exploits of Brigadier Gerard)」として、また、残りの8編に関しては、1903年に短編集「ジェラールの冒険(The Adventures of Gerard)」として単行本化されている。コナン・ドイルの期待通り、ジェラール准将シリーズもそれなりの人気作品となったが、読者や出版社からは、ホームズシリーズの再開とホームズの復活を求める声が、依然として強かった。
英国で出版された「ストランドマガジン」 1903年10月号に掲載された挿絵(その5) - ロンドンに帰還したシャーロック・ホームズは、 セバスチャン・モラン大佐を捕まえようと格闘するものの、 非常に苦戦しているホームズのために、 ジョン・H・ワトスンが救援に入った。 挿絵:シドニー・エドワード・パジェット (1860年 - 1908年) |
一方で、コナン・ドイル家には、悲劇が訪れていたのである。
1885年にルイーズ・ホーキンズと結婚したコナン・ドイルには、長女のマリー・ルイーズに続き、1892年11月には、待望の長男が生まれた。彼は、自作の「白衣の騎士団(The White Company)」(1891年)の主人公の名前を採って、アーサー・アレイン・キングスレー・ドイルと名付けられた。
そして、1893年に入ると、時折、身体の不調を訴えていた妻のルイーズが、脇腹の痛みと激しい咳に悩まされるようになり、最後には、血痰を出すまでに至った。これに驚いたコナン・ドイルが、ロンドンのハーリーストリート(Harley Street → 2015年4月11日付ブログで紹介済)にある専門医に依頼して、妻ルイーズの診察をしてもらったところ、結果は、「結核(tuberculosis)」(当時、不治の病と考えられていた)という診断だった。それも、病状は既に相当進行しており、余命は長くないという非常に厳しいものであった。当時、結核に対する唯一の対処療法は、肉体的な消耗を極力避けて、安静に過ごすことで、とにかく自力回復を待つことだけだった。そのためには、湿気は大敵で、キレイな空気と風が得られる土地での静養が必須だった。
更に、追い打ちをかけるように、同年10月に、彼の父親であるチャールズ・アルタモント・ドイル(Charles Altamont Doyle)が亡くなったのである。享年61歳だった。
彼の祖父であるジョン・ドイルは、ロンドンで人気の風刺政治漫画家で、5人居た息子のうち、上の4人は父親の芸術的な素養を受け継ぎ、その才能を開花させていったが、末っ子のチャールズは、残念ながら、「はぐれもの」だった。17歳のチャールズは、ロンドンから職を求めて、エジンバラへと都落ちし、父親ジョンの口利きで、王立建設院の土木助手の仕事を得ることができた。彼は、下宿していた家の娘であるメアリー・フォーリーと結婚したものの、刺激の乏しいエジンバラでの生活の中、次第に現実逃避的になり、過度の飲酒が原因で、失職した。そして、1879年に地元の施設(治療院)に収容されてしまったのである。
それから、チャールズは、スコットランド東北部のアルコール中毒専門の治療院へと移されたが、その後、本格的な治療院を転々とした後、最後は、スコットランド南部の小さな町で息を引き取ったのであった。
2つの悲劇が訪れたコナン・ドイルは、最後の事件」を書き上げると、妻ルイーズの療養のために、ロンドン郊外に購入した家を引き払うと、ルイーズを伴い、スイスのダボス(アルプス山脈の海抜1,600メートルに位置する保養都市)にあるホテルへと転地したのである。
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