1894年3月30日の夜、メイヌース伯爵(Earkl of Maynooth)の次男である青年貴族ロナルド・アデア(Ronald Adair)が、パークレーン427番地(427 Park Lane → 2015年6月27日付ブログで紹介済)の自宅において、殺害された事件のニュースで、ロンドンは大騒ぎだった。犯行時刻は、彼が帰宅した午後10時から、彼の母親と妹が帰宅した午後11時20分までの間と考えられた。
ある晩、ケンジントン地区(Kensington)の自宅からハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)へ散策に出かけたジョン・H・ワトスンは、そのついでに事件現場に立ち寄った。残念ながら、何の成果もなく、ケンジントンの自宅へと戻ったワトスンの元を、先程パークレーン(Park Lane)でぶつかった本蒐集家の老人が訪ねて来た。
訪ねて来た老人は、先程の非礼を詫びるとともに、「自分は、近所の本屋である。」と自己紹介した。そして、老人は、ワトスンの背後にある書棚に空きがあるからと言って、手持ちの本数冊の購入を進めてきた。老人にそう言われて、ワトスンが、書棚を振り返り、本の隙間を確認して、再度老人に視線を戻したところ、そこには、約3年前、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれたジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と一緒に、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝(Reichenbach Falls)で亡くなった筈のシャーロック・ホームズが、笑顔で立っていたのである。
ホームズを見たワトスンは、すっかりと仰天してしまい、椅子から立ち上がると、ホームズを数秒間見つめた後、「生涯において、最初で最後の」気絶をしてしまった。(then it appears that I must have fainted for the first and the last time in my life.)
ワトスンが意識を取り戻すと、ホームズが自分(ワトスン)の首元を緩め、気付け薬として、ブランディーを飲ませているところだった。ワトスンは、改めて、自分の目の前のホームズが本当に生きていて、元気で居ることを確認するのであった。
ホームズは、ワトスンに対して、変装で驚かせてしまったことを詫びるとともに、何故、自分が生きているのか、そして、この3年間の間、どこで何をしていたのかを説明した。
<何故、自分が生きているのか?>
ライヘンバッハの滝において、モリアーティー教授と対峙したホームズは、体得していた日本の格闘術(Japanese system of wrestling)である「バリツ(baritsu)」を以って、自分に襲い掛かってきたモリアーティー教授のみを滝壺へと落とすことができ、無事生き延びたのである。
ライヘンバッハの滝近辺には居たのは、モリアーティー教授だけではなく、彼の部下も居ることを確信したホームズは、モリアーティー教授と一緒に、自分も死んだことにするために、崖を登って、身を隠した。そして、自分(ホームズ)は滝壺へ転落して死んだものと思ったワトスンが、滝から引き上げるまでの一部始終を、ホームズは、崖の岩棚から見守っていた。その後、ホームズが懸念して居た通り、彼は、モリアーティー教授に同行していた部下から襲撃を受けたものの、部下の襲撃を何とかやり過ごして、フィレンツェ(Florence)まで辿り着くと、そのまま姿を消したのである。
<この3年間の間、どこで何をしていたのか?>
‘I travelled for two years in Tibet, therefore, and amused myself by visiting Lhassa and spending some days with the head Llama.(中略)I then passed through Persia, looked in at Mecca, and paid a short but interesting visit to the Khalifa at Khartoum, the results of which I have communicated to the Foreign Office. Returning to France I spent some months in a research into the coal-tar derivatives, which I conducted in a laboratory at Montpelier, in the South of France.’
「僕は、2年間、チベットを旅行し、ラサを訪れたり、ラマ教の高僧と数日間を過ごしたりして、楽しんだ。(中略)それから、ペルシア経由で、メッカを訪れて、ハルツームでカリフと短いながらも興味深い会見をした。会見の結果については、英国の外務省に報告済だ。フランスへ戻ると、南フランスにあるモンペリエの研究所で、コールタールの誘導体に関する研究に数ヶ月を費やしたんだ。」
ホームズによるワトスンへの説明の中に、2つの誤記がある。
(1)「the head Llama」 → 「Llama」は、南米に生息する哺乳類である「リャマ」を指す。チベットのラマ教の高僧を意味するのであれば、「Lama」が正しい。
(2)「Montpelier」 → 「Montpelier」と言う場所は、米国内にあるが、南フランスにはない。従って、南フランスに所在する「モンペリエ」を指す「Montpellier」が正しい。
なお、米国コロンビア大学(Columbia University)の中東・アジア言語文化学部(Department of Middle East and Asian Languages and Cultures)の名誉教授(professor emeritus)で、以前は、インドのニューデリーにある米国大使館(United States embassy in New Delhi)の上級館員 / 参事官(counsellor)として勤務していたテッド・リッカルディ(Ted Riccardi:1937年ー)が2003年に発表した短編集「シャーロック・ホームズの東方事件簿(The Oriental Casebook of Sherlock Holmes → 2020年12月12日付ブログで紹介済)」には、この「大空白時代(1891年5月から1894年4月までの3年間)」中、ホームズが東方を旅している間に遭遇した9つの事件が収録されている。
米国ニューヨークにある Pegasus Books LLC が発行する Pegasus Crime シリーズの一つに加えられている テッド・リッカルディ作「シャーロック・ホームズの東方事件簿」の表紙 (Cover Design by Faceout Studio / Charles Brock) |
ホームズによると、この3年間、自分が生きていたことは、兄であるマイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)しか知らない、とのことだった。
ホームズは、(1)モリアーティー教授の部下がまだ一人ロンドンに残っていること、そして、(2)その部下が、パークレーンにおいて、青年貴族であるロナルド・アデアを殺害したものと思われることを考慮、3年ぶりにロンドンへと戻って来たのである。
その後、ワトスンは、自分の長い話を終えたホームズから、「悲しみを癒すには、仕事をするのが、一番の特効薬だ。今夜、自分達二人には、非常に危険な仕事が控えている。以前のように、自分の仕事を手伝って欲しい。(’Work is the best antidote to sorrow, my dear Watson,(中略)and I have a piece of work for us both tonight which if we can bring it to a successful conclusion, will in itself justify a man’s life on this planet.)」と聞かされて、大いに喜ぶ。これで、また、昔のように、二人で獲物(犯人)を追いかけられるのだ。3年間の間、悲しみに沈んでいたワトスンにとって、これ以上嬉しいことはなかった。
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