2022年7月31日日曜日

コナン・ドイル作「ぶな屋敷」<小説版>(The Copper Beeches by Conan Doyle ) - その1

英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年6月号に掲載された挿絵(その1) -
ベイカーストリート221B221B Baker Street →
2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)
において、
シャーロック・ホームズは、ジョン・H・ワトスンに対して、
「最近、自分のところに持ち込まれる依頼の質が落ちた。」と嘆く。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット

(Sidney Edward Paget 1860年 - 1908年)

英国イーストサセックス州(East Sussex)ルイス(Lewes)出身の作家であるジェイムズ・マシュー・ヘンリー・ラブグローヴ(James Matthew Henry Lovegrove:1965年ー)が2013年に発表した「悪夢の塊(The Stuff of Nightmares → 2022年6月11日 / 6月18日 / 6月24日付ブログで紹介済)」において、ジョン・H・ワトスンは、序文で以下のように述べている。


「As I wrote in the story entitled “The Final Problem”, there were only three cases of which I retain any record for the year 1890, and two of those I published as “The Red-Headed League” and “The Copper Beeches”. This is the third, and it has remained solely in note form until now.」


つまり、著者のジェイムズ・ラヴグローヴは、ジョン・ワトスンの口を借りて、彼(ジョン・ワトスン)が知る限り、シャーロック・ホームズが1890年に手掛けた事件は3件しかなく、それらは、

(1)「赤毛組合(The Red-Headed League)」

(2)「ぶな屋敷(The Copper Beeches)」

(3)「悪夢の塊」(←これは、ジェイムズ・ラヴグローヴによる創作である。)

の3件だと言わせているのである。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年6月号に掲載された挿絵(その2) -
約束した翌日の午前10時半に、
若い家庭教師であるヴァイオレット・ハンターが
ベイカーストリート221Bのホームズの元を訪れる。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット

(1860年 - 1908年)


「ぶな屋敷」は、ホームズシリーズの56ある短編小説のうち、12番目に発表された作品で、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1892年6月号に掲載された。そして、ホームズシリーズの第1短編集である「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1892年)に収録された。


ちなみに、本作品は、作者であるサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年-1930年)の母親であるメアリーが思いついたアイディアが、物語のベースになっている。

1891年7月の「ボへミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」を皮切りに、「ストランドマガジン(Strand Magazine)」に毎月シャーロック・ホームズ作品を連載していたコナン・ドイルであったが、毎回新しいストーリーを考え出して作品を創作することが、彼にはだんだん苦痛となってきていた。また、コナン・ドイルとしては、自分の文学的才能は長編歴史小説の分野において発揮/ 評価されるべきと考えており、ホームズ作品は彼にとってはあくまでも副業に過ぎなかったのである。ところが、「ストランドマガジン」を通じて、ホームズ作品が予想以上に爆発的な人気を得るに至ったため、コナン・ドイルは、ホームズ作品の原稿締め切りに毎回追われる始末で、自分が本来注力したい長編歴史小説に時間を全く割けない状況であった。そのため、コナン・ドイルとしては、ホームズシリーズを打ち切るつもりでいたが、母親から物語のアイディアを得たことにより、ホームズシリーズは存続することとなった。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年6月号に掲載された挿絵(その3) -
ウェストエンドにある家庭教師紹介所ウェストアウェイにおいて、
ヴァイオレット・ハンターは、
ハンプシャー州の「ぶな屋敷」に住むジェフロ・ルーカッスル氏から
住み込むの家庭教師の申し出を受ける。
その申し出は、破格の給料であったが、
彼から提示された条件の中には、何か不自然なものが伴っていて、
ヴァイオレット・ハンターは、疑念を抱いた。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット

(1860年 - 1908年)

ジョン・H・ワトスンに対して、「ここのところ、自分のところに持ち込まれる依頼の質が落ちた。」と嘆くホームズの元に、若い家庭教師であるヴァイオレット・ハンター(Violet Hunter)から、相談の手紙が来た。

約束した翌日の午前10時半に、ベイカーストリート221B に現れたヴァイオレット・ハンターによると、彼女は、現在、失業中で、次の仕事の目処が立っていなかった。そんな中、ウェストエンド(West End)にある家庭教師紹介所ウェストアウェイ(Westaway)において、彼女は、ジェフロ・ルーカッスル氏(Mr. Jephro Rucastle)なる人物から、破格の給料(年額100ポンド → 後に、年額120ポンドへ値上げ / なお、ヴァイオレット・ハンターは、以前の勤務先で、月額で4ポンドの報酬を得ていた)で、住み込みの家庭教師の申し出を受けた。


しかしながら、このあまりに高額の報酬には、いくつかの条件があった。


(1)ハンプシャー州(Hampshire)のウィンチェスター(Winchester)から5マイル離れた「ぶな屋敷」に住み込むこと

(2)6歳の腕白坊主の面倒を見ること

(3)妻(ルーカッスル夫人)のちょっとした頼みをきくこと

(4)雇い主(ルーカッスル氏)が指定する服を着ること

(5)「ぶな屋敷」へ来る際に、髪を短く切ってくること


条件のうち、(1)から(3)については、ヴァイオレット・ハンターとしても、問題なかったが、(4)と(5)に関しては、何か不自然なところがあると疑い始めた。特に、(5)の場合、亡き母からも喜ばれていた長い髪を切ることになり、彼女としては、受け入れることができず、その場でルーカッスル氏の申し出を断ってしまった。


ルーカッスル氏の申し出を断ったヴァイオレット・ハンターであったが、生活が苦しくなってきたため、折角舞い込んだ高額の働き口を受けなかったことを後悔していた。そんな最中、ルーカッスル氏から、彼女宛に再考を求める手紙が届いた。その手紙の中で、報酬の年額が当初の100ポンドから120ポンドへと引き上げられていたのである。


生活が苦しい中、高額な報酬に未練があるものの、ルーカッスル氏から提示された不自然な条件に引き続き疑念を抱くヴァイオレット・ハンターは、ホームズに対して、助言を求める。

彼女の話を聞いたホームズは、こう答えた。「正直に言うと、これが自分の妹だったら、引き受けさせたくないですね。(I confess that it is not the situation which I should like to see a sister of mine apply for.)」と。


2022年7月30日土曜日

アーサー王伝説(The Legend of King Arthur) - その1

米国出身の推理作家であるキャロル・ブッゲ(Carole Bugge:1953年ー)が1997年に発表した「インドの星(The Star of India → 2022年6月19日 / 7月13日付ブログで紹介済)」では、1894年10月のある土曜日の雨が降る午後、ジョン・H・ワトスンが、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)に住むシャーロック・ホームズの元を訪れるところから、物語が始まる。「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれたジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)がスイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝(Reichenbach Falls)に姿を消し、そして、彼の右腕であるセバスチャン・モラン大佐(Colonel Sebastian Moran)が逮捕された後、興味を持てる事件がなく、ホームズは非常に退屈していた。


翌朝、コンウォール州(Cornwall)に居るハドスン夫人の姉から、ハドスン夫人の緊急を知らせる電報が届く。ハドスン夫人は、姉を訪れるために、コンウォール州へ出かけていたのである。ハドスン夫人の姉からの電報を受けたシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は、直ぐに馬車でウォータールー駅(Waterloo Station → 2014年10月19日付ブログで紹介済)へ向かい、昼12時の列車でコンウォール州(Cornwall)へと出発した。


ハドスン夫人の姉から「彼女(ハドスン夫人)は、ティンタジェル城(Tintagel Castle → 2022年7月23日付ブログで紹介済)へ見物に出かけている。」と聞いたホームズとワトスンは、ティンタジェルの町へと引き返して、ホームズがティンタジェル城に残るハドスン夫人の足跡を辿った結果、満潮が迫る海岸の洞窟の奥に、手足を縛られたハドスン夫人を発見したのである。


ティンタジェル城は、コンウォール州のティンタジェル沿岸部に所在し、切り立った崖の上に大西洋を見下ろすように建つ城跡で、アーサー王(King Arthur)伝説所縁の場所(=アーサー王の生地とされる場所)とされている。


英国のロイヤルメール(Royal Mail)は、2021年3月16日、「アーサー王伝説(The Legend of King Arthur)」をテーマにした10種類の記念切手を発行しているので、それらについて紹介したい。

なお、アーサー王は、5世紀後半から6世紀初めのブリトン人(ウェールズ人)の君主である。


(1)「Merlin and the baby Arthur」



魔法使いのマーリン(Merlin)が、ユーサー・ペンドラゴン(Uther Pendragon)の正統な息子で、将来の王であるアーサーを抱いている場面が描かれている。これ以降、マーリンは、アーサーを補佐して、導いていく。


(2)「Arthur draws the sword from the stone」


ユーサー・ペンドラゴンの息子アーサーは、「これを引き抜いた者は、将来、王となるだろう。」と書かれた台座に刺さっていた剣を引き抜いて、王となる資格を証明する場面が描かれている。


(3)「Arthur takes Excalibur」


アーサーは、魔法使いマーリンの導きを受けて、名君へと成長していくが、その途中、湖の中から伝説の名剣である「エクスカリバー(Excalibur)」を入手する場面が描かれている。


(4)「Arthur marries Guinevere」


アーサーは、キャメロット城を拠点として、巨人退治やローマ遠征等、様々な冒険を重ね、英国だけではなく、フランスやイタリア等を含む巨大な王国をまとめ上げる。そして、アーサー王が、グィネヴィア(Guinevere)を王妃に迎える場面が描かれている。


(5)「Sir Gawain and the Green Knight」


ガウェイン卿(Sir Gawain)は、「円卓の騎士」の一人で、アーサー王の甥(オークニー王ロトとアーサー王の異父姉モルゴースの

子)に該る。

これは、アーサー王伝説ではなく、1300年代後半にイングランドで書かれた作者不詳の物語「ガウェイン卿と緑の騎士(Sir Gawain and the Green Knight)」がベースとなっている。


アーサー王の宮殿において、新年の宴が行われていた際、突如、衣服だけではなく、髪の毛や皮膚、更に、跨る馬までが全て緑色をした「緑の騎士(Green Knight)」が姿を現し、ガウェイン卿に対して、「首切りゲーム」を持ち掛けてくる。「緑の騎士」は、ガウェイン卿に「自分の首を大鉈で掻き斬ってみろ!」と挑発するともに、「それでも、自分が無事だった場合、それに相応する挑戦を受けろ!」と持ち掛けたのである。挑発を受けたガウェイン卿が、大鉈で「緑の騎士」の首を一振りで斬り落とす前の場面が描かれている。


2022年7月29日金曜日

コナン・ドイル作「空き家の冒険」<小説版>(The Empty House by Conan Doyle ) - その6

Penguin Books 社から2011年に
The Penguin Sherlock Holmes Collection として出版された
サー・アーサー・コナン・ドイル作
「バスカヴィル家の犬」の裏表紙


アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年-1930年)は、第二次ボーア戦争(Second Anglo-Boer War)が発生した南アフリカから、1900年8月に本国に帰国した後、「大ボーア戦争(The Great Boer War)」を執筆して、1901年に発表した。そして、彼は、いろいろな作品を執筆するとともに、政治、社会や軍事の分野に積極的に関与していく。


1900年10月の解散総選挙を控えて、著名な作家であるコナン・ドイルは、与党である保守党 / 自由統一党からも、野党である自由党からも、擁立候補としての誘いを受けていた。思案した結果、彼は、(第2次)ボーア戦争の支持を表明していた自由統一党からの出馬を決めた。

自由統一党執行部は、コナン・ドイルに対して、与党候補の当選が確実な選挙区を用意すると言ったが、彼は、それを断って、彼の地元であるものの、与党候補者の当選が非常に困難と考えられていたエディンバラのセントラル選挙区から出馬した。同選挙区では、出版業者が自由党候補として出馬。

コナン・ドイルは、選挙活動期間中、自由党候補との争点について、(1)ボーア戦争における大英帝国の大義名分と(2)国内外から批判されていた現地での英国軍による非人道的 / 非道徳的行為(焦土作戦、強制収容所戦略やボーア人婦女子への乱暴等)の擁護だけにしぼって、与党支持、より正確に言えば、ボーア戦争支持を訴えたが、落選の憂き目に遭った。

ただし、前回の選挙と比べると、今回、コナン・ドイルは、自由党候補への票をかなり減じたこともあって、自由統一党としては、それなりの成果があったと評価したようである。なお、解散総選挙全体の結果は、与党である保守党 / 自由統一党による圧勝であった。


第二次ボーア戦争による医療奉仕団活動(1900年3月 - 同年7月)、そして、解散総選挙のための出馬および選挙活動(1900年10月)と、非常に多忙な時期を過ごした結果、体調を崩していたコナン・ドイルは、静養のため、1901年3月にイングランド東部のノーフォーク州(Norfolk)内に所在するクローマー(Cromar)という保養地へと出かけた。

そこで、彼は、イングランド南西部のダートムーア(Dartmoor)出身のジャーナリストであるバートラム・フレッチャー・ロビンソン(Bertram Fletcher Robinson:1870年-1907年)に出会い、ダートムーアに言い伝えられている魔犬伝説を聞かされたのである。


荒涼としたダートムーアに出現する巨大な黒い魔犬。

ロビンソンから魔犬伝説を聞いたコナン・ドイルは、早速、ダートムーアへと向かった。そして、ロビンソンは、現地において、彼の案内役を務めたのである。

当初、コナン・ドイルは、当初、ロビンソンとの共同作品、つまり、シャーロック・ホームズ作品とは全く異なる作品を考えていたが、ロビンソンがこれを固辞したため、コナン・ドイルは単独で執筆を進めることにした。

そこで、コナン・ドイルが非常に困ったのは、ダートムーアの魔犬伝説に対抗できるだけの強力な主役を据えることだったが、残念ながら一筋縄にはいかなかった。


熟慮した結果、コナン・ドイルは、あれだけ嫌っていたホームズを主役に据えたものの、長らく生死不明だったホームズを生還させるのではなく、逆に、本作品の事件発生年月を「最後の事件(The Final Problem → 2022年5月1日 / 5月8日 / 5月11日付ブログで紹介済)」以前に設定するという手法を採ったのである。実際、本作品の事件の発生年月について、「最後の事件」の発生年月である「1891年4月 - 5月」よりも前の「1888年9月」に設定して、「ジョン・H・ワトスンが記録はしたものの、未発表だった事件を今回発表する」ということにしたのだ。

この時点で、ホームズは完全復活を果たした訳ではなかったが、長らくホームズ作品に飢えていた読者は、それでも驚喜し、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」誌上でホームズは一時的に復活して、同誌の1901年8月号から1902年4月号にかけて、「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」の連載が続けられたのである。ホームズが完全復活するには「バスカヴィル家の犬」の連載終了月である1902年4月から約1年半後の「空き家の冒険(The Empty House)」(1903年9月発表)まで、読者はもう暫く待つ必要があった。 

2022年7月28日木曜日

ステュアート・ダグラス作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 偽者の探偵」(The further adventures of Sherlock Holmes / The Counterfeit Detective by Stuart Douglas) - その3

英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2016年に出版された
ステュアート・ダグラス作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 偽者の探偵」の表紙(一部分)

読後の私的評価(満点=5.0)


(1)事件や背景の設定について ☆☆半(2.5)


本作品を読み始めた当初、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの二人が、ニューヨークに居る偽者のホームズの正体を暴く物語かと単純に予想していたが、物語の背後には、後に勃発する第二次ボーア戦争(Second Anglo-Boer War:1899年10月12日 - 1902年5月31日)の火種があることが、物語の終わり間近で判明する。ただし、このことは、ホームズの口から語られるだけで、物語の流れから推理することは不可能。英国の歴史、それも特に、ヴィクトリア朝時代のことを詳細に判っていないと(筆者も後で勉強した)、本当の意味が充分に理解できない。


(2)物語の展開について ☆☆(2.0)


ホームズとワトスンの二人が英国から米国へと向かう船内で、殺人事件が発生する。この殺人事件自体は、ニューヨークに居る偽者のホームズとは全く関係がないため、(A)船内で何も事件が発生しないと、物語の展開上、面白くないこと、また、(B)船内での事件を挿入して、物語の分量を膨らませることが目的かと思ったが、物語の終盤、展開上、ある程度意味があるものと判った。

ただ、ニューヨークに到着した後、偽者のホームズとその協力者が全く姿を見せず、更に、事件の関係者達も重い口を開こうとしないため、物語が遅々として進まず、終盤になって、やっと動きがある程度。文章自体は読み易いが、物語自体は全然面白くない。


(3)ホームズ / ワトスンの活躍について ☆☆(2.0)


ホームズとワトスンの二人にとって、米国(ニューヨーク)は異邦の地である上に、スコットランドヤードのトビアス・グレッグスン警部(Inspector Tobias Gregson)の元同僚であるニューヨーク警察のシメオン・ブロック警部(Inspector Simeon Bullock)にいろいろと助力を依頼しなければならないという不利な点が多々あることを考慮したとしても、事件の関係者達を訪れて、話を聞くものの、彼らの重い口をなかなか開かせることができず、堂々巡りをしている感が否めず、物語をあまり楽しめない。


(4)総合評価 ☆☆(2.0)


ホームズとワトスンの二人によるニューヨークに居るホームズの偽者捜索の話は、あまりパッとしない。

また、偽者のホームズの背後には、この後勃発する第二次ボーア戦争がある。第一次ボーア戦争(First Anglo - Boer War:1880年12月16日 - 1881年3月23日)と第二次ボーア戦争を通し、大英帝国は積極的な帝国主義を遂行して、その支配圏の強化・拡大に努めており、本物のシャーロック・ホームズは、兄であるマイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)からの指示を受けて、実際のところ、その片棒を担いでいた訳で、現在を生きて居る我々からすると、正直ベース、気分の良いものではない。できれば、本作品から政治的な色合いを排除して、本物のホームズには、ニューヨークに居るホームズの偽者を退治するだけの話にしてもらった方が、後味が悪くなかったと言える。



2022年7月27日水曜日

ステュアート・ダグラス作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 偽者の探偵」(The further adventures of Sherlock Holmes / The Counterfeit Detective by Stuart Douglas) - その2

英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2016年に出版された
ステュアート・ダグラス作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 偽者の探偵」の表紙

1899年の夏、ニューヨークの「善意の密告者(A Well Wisher)」から「偽者と思われる人物が、ニューヨークにおいて、シャーロック・ホームズの名を騙って活動している。」という手紙を受け取ったシャーロック・ホームズは、その3日後、ジョン・H・ワトスンを伴って、大西洋を渡る「オーシャニック号(RMS Oceanic)」のデッキに居た。「オーシャニック号」は、世界最大の豪華客船で、これがリヴァプール(Liverpool)からニューヨークへの処女航海であった。

ここ最近、ホームズは、兄であるマイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)からの密命を受けて、秘かに何か重要な任務に従事していたこともあり、非常に不機嫌で怒りぽかったものの、ニューヨークまでの6日間の航海が、彼の精神衛生上、良い結果を生むだろうと、ワトスンは期待していた。


ホームズは、スコットランドヤードのトビアス・グレッグスン警部(Inspector Tobias Gregson)に依頼して、ニューヨーク警察のシメオン・ブロック警部(Inspector Simeon Bullock)への紹介を頼んでいた。ニューヨーク警察のブロック警部は、元々、英国のヨーク州(Yorkshire)生まれで、スコットランドヤードに在籍していた際、グレッグスン警部と一緒に訓練を受けた、とのこと。その後、ブロック警部は、米国へ移住したが、彼はグレッグスン警部と定期的に手紙のやりとりをしていて、連絡を絶やさなかったのである。


「オーシャニック号」内で発生した殺人事件を無事解決したホームズとワトスンの二人は、6日後の午前8時前に、ニューヨークに上陸した。ワトスンは、新聞売りの少年から、偽者のホームズが開設している事務所(英国を出発する前に、スコットランドヤードのグレッグスン警部から入手)への道順を尋ねると、幸いなことに、その事務所は徒歩圏内にあった。その事務所へ向かって急ぐホームズとワトスン。


街灯の建物の前に到着した二人は、家主のヴァン・ラールテ夫人(Mrs. Van Raalte)に対して、レストレード(Mr. Lestrade - ホームズの偽名)とジョン・マレー(Mr. John Murray - ワトスンの偽名)と名乗り、「自分達二人は、シャーロック・ホームズの英国側の同僚で、英国から彼を訪ねて来た。」と告げると、女主人に建物内へ入れてもらえた。


建物内の郵便受けには、「諮問探偵シャーロック・ホームズ」という表示があり、確かに、偽者のホームズは、ここに事務所を構えているようである。

ヴァン・ラールテ夫人によると、偽者のホームズは、1年程前からここに事務所を借りている、とのこと。ただし、彼は外出 / 出張していることが非常に多く、不在がちのため、不在時に届いた郵便物は、彼女が彼の友人宛に定期的に転送しているという説明だった。

偽者のホームズは、今のところ、不在のため、ホームズとワトスンの二人は、とりあえず退散するしか、他に手がなかったが、ヴァン・ラールテ夫人は、何かを隠しているように思えてならなかった。


2022年7月24日日曜日

コナン・ドイル作「空き家の冒険」<小説版>(The Empty House by Conan Doyle ) - その5

Penguin Books 社から2011年に
The Penguin Sherlock Holmes Collection として出版された
サー・アーサー・コナン・ドイル作
「バスカヴィル家の犬」の表紙


帝国主義を積極的に推し進める大英帝国は、南アフリカ南部を狙い、ケープ植民地(Cape Colony)を既に占領していた。南アフリカ南部に、オランダ系移民の子孫であるボーア人が建設した「トランスヴァール共和国(Republic of Transvaal → 正式名:South African Republic)」に金の鉱山が、また、「オレンジ自由国(Orange Free State)」にダイヤモンドの鉱山が発見され、それらの利権を狙った大英帝国が、オレンジ自由国を領有化した後、トランスヴァール共和国の併合を宣言して、同国との間で戦争状態に突入した。1880年12月16日から1881年3月23日にかけて、第1次ボーア戦争(First Anglo-Boer War)が行われたが、大英帝国軍は、トランスヴァール共和国軍に大惨敗して、トランスヴァール共和国の独立を承認する破目となり、その面目は丸潰れとなっていた。


その後、トランスヴァール共和国内に、更に豊富な金の鉱脈が発見されたことに伴い、南アフリカ南部に対して、帝国主義的な野心を抱いていた保守党の党首で、当時、第3次内閣を組閣していた首相の第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury:1830年ー1903年)他が、これを好機と捉えて、1899年10月12日に、トランスヴァール共和国内に対して、先端を開いた。

ボーア軍は民兵部隊で、連装式ライフル銃を装備した騎乗歩兵が主体で、特定の編成や陣形を組まず、茂みや地形の起伏等を利用して、敵を射撃するという柔軟で、かつ、臨機応変な攻撃を行ったため、歩兵が密集の上、横隊陣形を組んで攻撃前進する普通のスタイルを採る英国軍はうまく対処することができず、1899年10月から1900年2月にかけて、ボーア軍は、英国軍に対して、攻勢をかけた。


増大する戦死者を目にして、大英帝国内において、インド人等の英領植民地人を代わりに戦地へ送り、英国人の人的損害を減らすべきであるという意見が、各方面で強まった。

そこに、アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年-1930年)が登場する。彼は、当時、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1893年12月号に「最後の事件(The Final Problem → 2022年5月1日 / 5月8日 / 5月11日付ブログで紹介済)」を発表して、シャーロック・ホームズを、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と一緒に、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝壺(Reichenbach Falls)に葬り去った後で、「ストランドマガジン」の1901年8月号から1902年4月号にかけて、「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」の連載を開始するまでの約7年半に及ぶ空白の期間であった。

コナン・ドイルは、「タイムズ」紙において、「英国人が一人も戦地へ赴かないで、その代わりを英領植民地の人達に穴埋めさせるのは、名誉にかかわるのではないか?」という主張を展開するとともに、自分自身も英国軍に従軍する決意を固めた。ただ、彼は既に40歳を超えていたため、英国陸軍の兵役検査をパスできなかった。そこで、彼は、従軍を諦めたが、その代わりに、戦地へ派遣される50人の医療奉仕団(コナン・ドイルの友人であるジョン・ラングマンが提唱)に医師の一人として参加することに決めたのである。


コナン・ドイルを含む医療奉仕団を乗せたP・O・ラインのオリエンタル号は、1900年3月に英領ケープ植民地の首都ケープランドに到着し、英国軍司令官である初代ロバーツ伯爵フレデリック・ロバーツ(Frederick Roberts, 1st Earl of Roberts:1832年ー1914年)が率いる英国軍の進軍路を辿りつつ、野戦病院において負傷者等の治療に従事した。傷病兵の数は収容しきれない程に増えていき、医療奉仕団の各人は尽力したものの、十分な治療もままならず、多くの兵士が亡くなった。その上、腸チフスが発生した関係で、現地における状況は、更に絶望的になっていったのであった。


ちょうどその頃、増援部隊が大英帝国の本国から到着すると、ロバーツ卿率いる英国軍はボーア軍を遂に打ち破って、反撃に転じ、同年3月13日にオレンジ自由国の首都ブルームフォンテーン(Bloemfontein)を、続いて、同年6月5日にトランスヴァール共和国の首都プレトリア(Pretoria)を陥落させた。

コナン・ドイルは、プレトリアにおいて、ロバーツ卿と会見して、医療奉仕団の活躍を報告した後、プレトリア陥落により、第二次ボーア戦争の大勢は決したと思われたため、当戦争を総括する執筆を行うべく、同年7月に本国への帰国の途に就いたのである。


オレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンとトランスヴァール共和国の首都プレトリアは陥落したものの、大英帝国の支配は、トランスヴァール共和国の北部までには及ばなかった。しかも、英国軍が物理的に支配できたのは、英国軍の分隊が駐在する町や地区のみであった。

25万人居た英国軍兵士では、オレンジ自由国とトランスヴァール共和国の二国が有した巨大な領域を完全に制圧することは物理的に無理で、ボーア軍の特別攻撃隊(コマンド部隊)はかなり自由に動き回ることができたので、ボーア人指揮官の下、ゲリラ戦のスタイルを採用して、1900年9月以降、非常に活発に活動した。この後、第二次ボーア戦争(Second Anglo-Boer War)は、泥沼のゲリラ戦と化していく。

その結果、コナン・ドイルは、1900年8月に本国に帰国した後、「大ボーア戦争(The Great Boer War)」(→発表自体は、1901年)を執筆したものの、「オレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンとトランスヴァール共和国の首都プレトリアの陥落により、第二次ボーア戦争は終結した」という前提で書かれたため、時流に合わないものになってしまったのである。


2022年7月23日土曜日

コンウォール州(Cornwall) ティンタジェル城(Tintagel Castle)

筆者が所有している株式会社 昭文社発行の「マップルマガジン イギリス」から抜粋(その1)

米国出身の推理作家であるキャロル・ブッゲ(Carole Bugge:1953年ー)が1997年に発表した「インドの星(The Star of India)」では、1894年10月のある土曜日の雨が降る午後、ジョン・H・ワトスンが、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)に住むシャーロック・ホームズの元を訪れるところから、物語が始まる。なお、この時点で、ワトスンの2番目の妻は亡くなっていたが、彼はホームズとは離れて、暮らしていたのである。

「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれたジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)がスイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝(Reichenbach Falls)に姿を消し、そして、彼の右腕であるセバスチャン・モラン大佐(Colonel Sebastian Moran)が逮捕された後、興味を持てる事件がなく、ホームズは非常に退屈していた。ホームズのことを心配したワトスンは、彼をロイヤルアルバートホール(Royal Albert Hall → 2016年2月20日付ブログで紹介済)で行われるコンサートへと連れ出す。


翌朝、コンウォール州(Cornwall)に居るハドスン夫人の姉から、電報が届く。ハドスン夫人は、姉を訪れるために、コンウォール州へ出かけていたのである。ハドスン夫人の姉から届いた電報には、驚くべきことが書かれていた。「Martha (ハドスン夫人のこと)in extreme danger : Come at once.」と。


筆者が所有している株式会社 昭文社発行の「マップルマガジン イギリス」から抜粋(その2)

ハドスン夫人の姉からの電報を受けたシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は、直ぐに馬車でウォータールー駅(Waterloo Station → 2014年10月19日付ブログで紹介済)へ向かい、昼12時の列車でコンウォール州(Cornwall)へと出発した。ハドスン夫人の姉であるフローラ・キャンベル(Mrs. Flora Campbell)の家は、ティンタジェル(Tintagel)の町から2-3マイル程離れたところにあった。


ホームズとワトスンがハドスン夫人の姉の家を訪れると、彼女は、「ホームズ宛に電報を出していない。」と答えた。ハドスン夫人自身の所在を尋ねられると、「She (Martha)’s out at Tintagel.」と話した。ハドスン夫人は、ティンタジェルの町に出かけたついでに、ティンタジェル城(Tintagel Castle)の見物をしているようだ。


ティンタジェルの町へと引き返したホームズとワトスンであったが、ティンタジェル城にハドスン夫人の姿は全く見当たらなかった。ホームズがティンタジェル城に残るハドスン夫人の足跡を辿った結果、満潮が迫る海岸の洞窟の奥に、手足を縛られたハドスン夫人を発見したのである。


チャールズ王太子の70歳の誕生日を記念して、
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が2018年11月14日に発行した
6種類の記念切手の一つ(その1)


ティンタジェル城は、コンウォール州のティンタジェル沿岸部に所在し、切り立った崖の上に大西洋を見下ろすように建つ城跡である。


この辺りは、元々、ローマ人の居住地であったが、ローマ人がブリテン島を去った後の中世初期、ケルト人がやって来て、城砦を築いた。


現在残っている城は、13世紀に、プランタジネット朝第3代イングランド王であるジョン(John:1166年ー1216年 在位期間:1199年ー1216年)の次男で、プランタジネット朝第4代イングランド王であるヘンリー3生(Henry III:1207年ー1272年 在位期間:1216年ー1272年の弟である初代コンウォール伯リチャード(Richard, 1st Earl of Cornwall:1209年ー1272年)によって建てられた。初代コンウォール伯リチャードがこの地に城を建てたのは、アーサー王(King Arthur)伝説所縁の場所(=アーサー王の生地とされる場所)という理由からであったが、城自体の戦略的な価値は、全くなかった。

リチャードの後にコンウォール伯を継いだ者の中に、この城に重きを置く人物がいなかったため、州長官の管理に任された。その結果、城は次第に荒廃して、14世紀には、住居として適さない城跡となってしまった。


チャールズ王太子の70歳の誕生日を記念して、
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が2018年11月14日に発行した
6種類の記念切手の一つ(その2)


ヴィクトリア朝時代に入ると、英国内のみならず、欧州の戦記小説に大きな影響を与えたアーサー王伝説のブームが到来して、この城跡は観光地として人気が高まった。ティンタジェルの村は、以前、トレヴィナという名前であったが、この城跡をアーサー王伝説と紐付けて売り出すために、1850年に「ティンタジェル」という名前に解明された。厳密には、ティンタジェルは、沿岸の岬部分のみを指す地名である。


ティンタジェル城は、現在、チャールズ王太子(Charles, Prince of Wales:1948年ー)によって所有されているが、イングリッシュヘリテージ(English Heritage)により管理されている。


2022年7月20日水曜日

ステュアート・ダグラス作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 偽者の探偵」(The further adventures of Sherlock Holmes / The Counterfeit Detective by Stuart Douglas) - その1

英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2016年に出版された
ステュアート・ダグラス作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 偽者の探偵」の表紙

本作品「偽者の探偵(The Counterfeit Detective)」は、英国出身の推理作家であるステュアート・ダグラス(Stuart Douglas)によって、2016年に発表された。

ステュアート・ダグラスは、前年(2015年)に「アルビノの財宝(The Albino’s Treasure → 2022年6月29日 / 7月2日 / 7月7日付ブログで紹介済)」を既に発表している。


1899年の夏、シャーロック・ホームズは、過酷な日々を送っていた。彼は、前年より、兄のマイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)からの密命を受けて、密かに何か重要な任務に従事していた。

彼は、何日も姿を見せなかった後、深夜、非常に疲れ切った様子で、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)に戻って来るのである。しばしば、彼は負傷していて、同居人であるジョン・H・ワトスンが傷の手当てを行う必要があった。ワトスンは、ホームズの健康状態を気づかう。


一方、南アフリカにおいて、ボーア人(Boers - オランダ系移民の子孫)が建国したトランスヴァール共和国(Republic of Transvaal → 正式名:South African Republic) / オレンジ自由国(Orange Free State)とケープ植民地(Cape Colony)を占領した大英帝国の間で、緊張が高まっていて、そのことが新聞の紙面を騒がせていた。


ある朝、二人で朝食をとっていると、ワトスンは、ホームズから、「準備が整い次第、できる限り早く、ニューヨークへと向かうつもりだ。」と告げられる。

ホームズの急な話に驚くワトスンに対して、ホームズは、ある手紙を渡す。その手紙は、「善意の密告者(A Well Wisher)」を名乗る人物からで、署名も為されていない上に、差出人が誰であるかを含めて、その詳細については、全く不明であった。


その手紙によると、彼の叔父が雇われている屋敷で発生した盗難事件に関して、彼の叔父が無実の罪に問われそうになった際、ホームズが彼の叔父の潔白を証明してくれたため、彼としては、ホームズに対して、多大な恩義があると言う。

その後、彼は米国へと渡り、ニューヨークに自宅を構えているが、現在、彼の妻側の家族がホテル業を行なっているカリフォルニア州への移住を考えている、とのこと。

そんなある朝、彼が勤め先から自宅へと歩いて帰る途中、新聞売りの少年の横を通った際、新聞の見出しに「シャーロック・ホームズ」という名前が出ているのが目に入った。ホームズの新しい活躍が読めると思い、彼が新聞売りの少年から新聞を買ったところ、「シャーロック・ホームズは、(ロンドンではなく、)現在、ニューヨークにおいて探偵業に従事しており、既にニューヨーク市内に多くの相談客を抱えている。」という記事が載っていた。記事によると、シャーロック・ホームズは、ニューヨークでの定住を考えているようである。


ところが、新聞に載っていたシャーロック・ホームズの写真は、本人に似てはいるものの、彼が会ったことがある人物とは、全く似ていなかったのである。

彼としては、恩義がある、そして、ロンドンに居る本物のシャーロック・ホームズ本人に対して、偽者と思われる人物がニューヨークでシャーロック・ホームズの名を騙って活動しているということを知らせたかったと、手紙を結んでいた。


2022年7月17日日曜日

コナン・ドイル作「空き家の冒険」<小説版>(The Empty House by Conan Doyle ) - その4

英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した
シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手「最後の事件」が添付された絵葉書

1893年に入り、妻ルイーズ(Louise)が「結核(tuberculosis)」(当時、不治の病と考えられていた)に罹っていることが判明したこと、それに加えて、アルコール中毒のため、1879年以降、施設(治療院)に収容されていた父親のチャールズが亡くなったことの2つの悲劇が訪れたアーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年-1930年)は、「最後の事件(The Final Problem → 2022年5月1日 / 5月8日 / 5月11日付ブログで紹介済)」を書き上げた後、妻ルイーズの結核療養のために、ロンドン郊外に購入した家を引き払うと、ルイーズを伴い、スイスのダボス(アルプス山脈の海抜1,600メートルに位置する保養都市)にあるホテルへと転地した。


スイスのダボスへと転地した後、妻ルイーズは、小康状態を保っていたため、当面の危機は去ったと考えたコナン・ドイルは、転地から1年も経っていない1894年9月に、米国の講演旅行へと出かけ、同年12月中旬にスイスへと戻った。


当初の計画通り、シャーロック・ホームズを抹殺したコナン・ドイルは、ナポレオン戦争時代を舞台にして、「ジェラール准将」シリーズの発表を1894年12月から始めた。最初の8編については、1896年に短編集「ジェラール准将の功績(The Exploits of Brigadier Gerard)」として、また、残りの8編に関しては、1903年に短編集「ジェラールの冒険(The Adventures of Gerard)」として単行本化されている。コナン・ドイルの期待通り、ジェラール准将シリーズもそれなりの人気作品となったが、読者や出版社からは、ホームズシリーズの再開とホームズの復活を求める声が、依然として強かった。


1895年に入ると、コナン・ドイルは、米国の講演旅行に同行できなかった妻ルイーズを、エジプトのカイロへと転地療養に連れて行った。当時、エジプトは、結核保養地として、スイスに次ぐ人気の場所だったのである。

ロンドンの友人から、ロンドン南部の丘陵地帯であるサリー州(Surrey)ハインドヘッド(Hindehead)が結核療養に最適だと聞かされたコナン・ドイルは、エジプトへ出発する前に、土地を購入の上、建築業者も手配し、エジプトから帰国する頃には、完成している筈だったが、実際には、そうならなかった。最終的に、妻ルイーズの結核療養のための新居が完成したのは、1897年の秋だった。


一方で、同じ年に、コナン・ドイル(当時、38歳)は、裕福な実業家の娘であるジーン・レッキー(Jean Leckie / 当時、24歳)と出会い、大きな秘密を抱えることになった。彼の二重生活は、妻ルイーズが亡くなる1906年7月まで続いたのである。その後、彼は、1907年9月に、ジーン・レッキーと再婚している。


英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した
シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手「バスカヴィル家の犬」が添付された絵葉書


妻ルイーズ / 長女マリー・ルイーズ / 長男アーサー・アレイン・キングスレーとの生活とジーン・レッキーとの秘密という二重生活を抱えたコナン・ドイルであったが、彼の今後、それに加えて、彼が抹殺したホームズの運命を大きく変える事件が、1899年に勃発したのである。

帝国主義を積極的に推し進める大英帝国は、南アフリカ南部を狙い、ケープ植民地(Cape Colony)を既に占領していた。南アフリカ南部に、オランダ系移民の子孫であるボーア人が建設した「トランスヴァール共和国(Republic of Transvaal → 正式名:South African Republic)」に金の鉱山が、また、「オレンジ自由国(Orange Free State)」にダイヤモンドの鉱山が発見され、それらの利権を狙った大英帝国が、オレンジ自由国を領有化した後、トランスヴァール共和国の併合を宣言して、同国との間で戦争状態に突入した。1880年12月16日から1881年3月23日にかけて、第1次ボーア戦争(First Anglo-Boer War)が行われたが、大英帝国軍は、トランスヴァール共和国軍に大惨敗して、トランスヴァール共和国の独立を承認する破目となり、その面目は丸潰れとなっていた。

その後、トランスヴァール共和国内に、更に豊富な金の鉱脈が発見されたことに伴い、南アフリカ南部に対して、帝国主義的な野心を抱いていた保守党の党首で、当時、第3次内閣を組閣していた首相の第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury:1830年ー1903年)他が、これを好機と捉えて、1899年10月12日に、トランスヴァール共和国内に対して、戦端を開いた。


この第2次ボーア戦争(Second Anglo-Boer War)に、コナン・ドイルが関与した結果、「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」におけるホームズの一時的な復活、そして、「空き家の冒険(The Empty House)」におけるホームズの帰還 / 生還へと繋がっていくのである。


2022年7月16日土曜日

ロンドン ナショナルポートレートギャラリー(Naional Portrait Gallery)- その1

ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ
(Charles John Huffam Dickens:1812年ー1870年)の写真の葉書
(George Herbert Watkins / 1858年 / albumen print, arched top /
190 mm x 152 mm) -
チャールズ・ディケンズは、英国のヴィクトリア朝時代を代表する小説家で、
「クリスマスキャロル」、「大いなる遺産」、「オリヴァーツイスト」や
「二都物語」等で有名。

英国出身の推理作家であるステュアート・ダグラス(Stuart Douglas)が2015年に発表した「アルビノの財宝(The Albino’s Treasure → 2022年6月29日 / 7月2日 / 7月7日付ブログで紹介済)」では、1896年のある日の朝5時過ぎに、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの二人が、スコットランドヤードのレストレード警部(Inspector Lestrade)の不意な訪問を受け、ベッドから起こされる破目になったところから、物語が始まる。


画面の左手に建つのは、ナショナルギャラリーで、
ナショナルポートレートギャラリーは、画面左手奥を回り込んだところに所在。


レストレード警部によると、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)の近くにあるセントマーティンズプレイス(St. Martin’s Place)に新しく建設されたナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)において、午前2時過ぎに、警備員が館内を巡回していた際、政治家の肖像画が展示されている部屋で、英国首相を務めたソールズベリー卿(Lord Sailsbury)の肖像画をナイフで傷つけている男を発見し、警備員二人がかりで、その男を取り押さえた、とのこと。その男は、近くの壁に赤ペンキで「BOI」という謎の言葉を書いていた。

レストレード警部は、逮捕時に犯人の男が発した「次は、肖像画では済まないぞ!(Next time it wo’nt just a painting.)」という言葉に、共犯者の存在と次なる行動に危機感を抱いていたのである。

ホームズとワトスンがスコットランドヤードに到着すると、レストレード警部は、部下の巡査に指示して、犯人を取調室に連れて来させた。容疑者は、背が高く、痩せた30代の男で、口ひげを生やしていたが、左目の下から顎の辺りまで、傷跡があった。3人は、容疑者に対して、逮捕時の真意を尋ねるが、彼は一言も発しようとしなかった。そうこうするうちに、ホームズが、容疑者に対して、「チャールズ・オドネル伍長(Corporal Charles O’Donnell)」と呼びかけると、彼は驚いてホームズに摑みかかろうとするが、ホームズはすんでのところで身を躱し、彼の手首を折って、事無きを得る。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
ウィリアム・ワーズワース
(William Wordsworth:1770年ー1850年)の肖像画の葉書
(by Benjamin Robert Haydon / chalk / 1818年 / 546 mm x 419 mm) -
ウィリアム・ワーズワースは、英国の代表的なロマン派詩人で、
湖水地方をこよなく愛した。


チャールズ・オドネル元伍長がソールズベリー卿の肖像画をナイフで傷つけていた場所は、「ナショナルポートレートギャラリー(国立肖像画美術館)」で、肖像画専門の美術館である。


ナショナルポートレートギャラリーは、1856年に設立され、収蔵している作品は約1,300点に及んでいる。

収蔵作品には、英国の歴史上の人物(国王、女王や政治家を含む)から最近の著名人(俳優 / 女優、音楽家や小説家等)までが含まれており、肖像画、写真、イラストや彫刻等、あらゆる形態のポートレートに渡っている。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
ブロンテ3姉妹(The Bronte Sisters)の肖像画の葉書
(by Partick Branwell Bronte / oil on canvas / 1834年頃 / 902 mm x 746 mm) -
彼女達は、英国のヴィクトリア朝時代を代表する小説家で、
画面右側の長姉シャーロット・ブロンテ
(Charlotte Bronte:1816年ー1855年)は、「ジェーン・エア」を、
画面中央の2番目の姉エミリー・ジェーン・ブロンテ
(Emily Jane Bronte:1818年ー1848年)は、「嵐ヶ丘」を、
そして、画面左の末姉アン・ブロンテ
(Anne Bronte:1820年−1849年)は、「ワイルドフェル屋敷の人々」を
執筆している。
なお、このポートレートは、
長男のパトリック・ブランウェル・ブロンテ(Patrick Branwell Bronte)が描いており、
元々、シャーロットとエミリーの間(画面中央)に
自分自身を描いていたが、後に塗りつぶされている。


1856年に設立された後、収蔵作品数や来館者数が大幅に増えたことに伴い、ナショナルポートレートギャラリーは、いくつかの場所を転々とした。最終的には、英国政府によって提供された現在の住所(St. Martin’s Place, London WC2H 0HE - ナショナルギャラリー(National Gallery)の隣り)へと移転して、1896年4月4日に正式にオープンした。


ステュアート・ダグラス作「アルビノの財宝」において、事件が発生したのは、1896年なので、 ナショナルポートレートギャラリーが現在の住所へ移転した後のことである。


2022年7月13日水曜日

キャロル・ブッゲ作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / インドの星」(The further adventures of Sherlock Holmes / The Star of India by Carole Bugge) - その2

英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2011年に出版された
キャロル・ブッゲ作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / インドの星」の裏表紙


ハドスン夫人の姉からの電報を受けたシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は、直ぐに馬車でウォータールー駅(Waterloo Station → 2014年10月19日付ブログで紹介済)へ向かい、昼12時の列車でコンウォール州(Cornwall)へと出発した。

ハドスン夫人の姉であるフローラ・キャンベル(Mrs. Flora Campbell)の家は、ティンタジェル(Tintagel)の町から2-3マイル程離れたところにあった。


実は、ホームズが駅で切符を買っている間に、見知らぬ背の低い男がワトスンに近付いて来て、今日のテレグラフ紙を渡すと、人混みの中に姿を消してしまったのである。

ワトスンからそのことを聞いたホームズが新聞を調べたところ、広告欄のページに変な記載があった。


“Mr. Fermat to Mr. Shomel : it’s your move ; your pawn is in deep water and speed is of essence.”


(注)

ピエール・ド・フェルマー(Pierre de Fermat:1607年ー1665年)

フランスの裁判官で、数学者でもあった人物。「フェルマーの定理」で知られており、「数論の父」と呼ばれている。


誰かが新聞の広告欄を使って、チェスゲームをしているようだ。ホームズは、ワトスンに対して、「これは、自分(Mr. Shomel)に対するメッセージだ。」と断言した。しかし、一体、誰が?


ホームズとワトスンがハドスン夫人の姉の家を訪れると、彼女は、「ホームズ宛に電報を出していない。」と答えた。ハドスン夫人自身の所在を尋ねられると、「She(Martha)’s out at Tintagel.」と話した。ハドスン夫人は、ティンタジェルの町に出かけたついでに、ティンタジェル城(Tintagel Castle)の見物をしているようだ。


ティンタジェルの町へと引き返したホームズとワトスンであったが、ティンタジェル城にハドスン夫人の姿は全く見当たらなかった。

ホームズがティンタジェル城に残るハドスン夫人の足跡を辿った結果、満潮が迫る海岸の洞窟の奥に、手足を縛られたハドスン夫人を発見したのである。


無事に救出したハドスン夫人から聞いた証言をベースに、ホームズは、「ハドスン夫人の手足を縛って、海岸の洞窟の奥に運んだ犯人は、ジョージ・シンプソン(George Simpson)だ。」と断定した。

ホームズによると、ジョージ・シンプソンは、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれたジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)の部下として、イーストエンド(East End)で暗躍していた、とのこと。数年前に、ホームズは、ジョージ・シンプソンを捕まえて、ニューゲート監獄(Newgate Prison)へと送ったが、どうやら、既に脱獄済のようだった。


ホームズの話を聞いたワトスンは、彼に対して、「一体、誰が今回の事件の背後に居るのか?(Who … who do you think is behind all of this ?)」と尋ねると、長い沈黙の後、ホームズは答えた。まるで、彼の声は、遠くから聞こえてくるようだった。

「幽霊だよ、ワトスン。幽霊だ。(A ghost, Watson - a ghost.)」

ワトスンが、更に尋ねる。

「墓場から死者が甦ったのか?(I wonder, do ghosts rise from the dead ?)」

すると、ホームズが、あの有名なセリフを繰り返す。

「Once you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, is the truth.」

そして、最後に付け加えたのである。

「そうさ、ワトスン、モリアーティー教授は、生きていたんだ。(Yes, Watson, Professor Moriarty has returned from the dead.)」と。

モリアーティー教授は、自分と同じ数学者であるピエール・ド・フェルマーの名前を使って、自分をチェスゲームに引き込もうとしていると、ホームズは考えていた。


ホームズと同じく、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝壺(Reichenbach Falls)から復活したモリアーティー教授は、先日、彼らの元を訪れたメリーウェザー嬢(Miss Merriweather)が保有する「インドの星(The Star of India)」と呼ばれる青いサファイアに狙いを定めた。

「インドの星」は、正当な持ち主ではない人物の手に渡ると、死をもたらすと言い伝えてられていたのである。(The Star of India, it is said to bring death upon a wrongful owner.)