2018年8月5日日曜日

ロンドン グローヴナーストリート12番地(12 Grosvenor Street)

カーター・ディクスン作「ユダの窓」において、
エイヴォリー・ヒューム邸の住所として設定されている
グローヴナーストリート12番地

「ユダの窓(The Judas window)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、別のペンネームであるカーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で1938年に発表した推理小説で、ヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズの長編第7作目に該る。当作品は、米国ではモロウ社(Morrow)から、そして、英国ではハイネマン社(Heinemann)から出版された。


亡き母の財産を相続した裕福な若者であるジェイムズ・キャプロン・アンズウェル(James Caplon Answell)は、ある年のクリスマスパーティーにおいて、従兄弟のレジナルド・アンズウェル大尉(Captain Reginald Answell)からメアリー・ヒューム(Mary Hume)を紹介された。直ぐにお互いに惹かれあった二人は、年明けには婚約に至る。1月4日、サセックス州(Sussex)からロンドンのフラットに戻ったジェイムズ・キャプロン・アンズウェルのところに、メアリーの父親で、キャピタルカウンティーズ銀行の元取締役であるエイヴォリー・ヒューム(Avory Hume)から電話があり、同日の夕方、自宅へ招待された。
指定されたその日の午後6時過ぎに、ロンドン市内のヒューム邸を訪れたジェイムズ・キャプロン・アンズウェルは、エイヴォリー・ヒュームが待つ書斎へと案内されるのだが、その後、予想もしない事件が発生して、エイヴォリー・ヒューム謀殺の罪名で逮捕され、起訴されてしまうのである。

グローヴナーストリート12番地の建物全景

カーター・ディクスンの原作上、エイヴォリー・ヒューム邸は、グローヴナーストリート12番地(12 Grosvenor Street)に設定されている。

グローヴナーストリートの南側から
グローヴナースクエア方面を見たところ
グローヴナーストリートの南側から
ニューボンドストリート方面を見たところ

グローヴナーストリート12番地は、実在の住所で、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級地区メイフェア(Mayfair)内に所在している。
グローヴナーストリートは、グローヴナースクエア(Grosvenor Square→2015年2月22日付ブログで紹介済)から東へ向かって延びる通りで、ニューボンドストリート(New Bond Street→2017年5月21日付ブログで紹介済)にぶつかって終わっている。

グローヴナーストリート12番地の Ground Floor には、
現在、画廊が入居しており、上階はオフィスビルとなっている
(オフィス部分には、グローヴナーストリート10番地の入口から入る模様)

グローヴナーストリート12番地自体は、ディヴィスストリート(Davies Street)とニューボンドストリートに挟まれた通り(=グローヴナーストリート)の北側に建っている。以前、Ground Floor でカフェが営業していたが、数年前に改装されて、現在は画廊になっている。

グローヴナーストリート12番地の左隣りの建物が、
カーター・ディクスンの原作上、
ランドルフ・フレミング邸として設定されている

カーター・ディクスンの原作では、エイヴォリー・ヒューム邸の左隣りには、彼の友人で、アーチェリー愛好者でもあるランドルフ・フレミング(Randolph Fleming)が住む家が建っていることになっているが、ランドルフ・フレキング邸に該る建物も、現在は、オフィスビルになっているようである。
また、原作上、エイヴォリー・ヒューム邸とランドルフ・フレミング邸の間に、路地があることになっているが、現在、建物は完全に隣り合っており、路地は存在していない。

2018年8月4日土曜日

ロンドン シティー・オブ・ロンドン(City of London)–その1

あるオフィスビルの最上階から見た
セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)とシティー・オブ・ロンドン

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。

元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。

ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。

しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。
ホームズの依頼に応じて、ワトスンは、ランベス地区(Lambeth)の水辺近くにあるピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane→2017年10月28日付ブログで紹介済)に住む鳥の剥製屋シャーマン(Sherman)から、犬のトビー(Toby)を借り出す。そして、ホームズとワトスンの二人は、バーソロミュー・ショルトの殺害現場に残っていたクレオソートの臭いを手掛かりにして、トビーと一緒に、現場からロンドン市内を通り、犯人の逃走経路を追跡して行く。

ホームズとワトスンの二人が、犬のトビーと一緒に、ストリーサム地区(Streatham→2017年12月2日付ブログで紹介済)、ブリクストン地区(Brixton→2017年12月3日付ブログで紹介済)、キャンバーウェル地区(Camberwell→2017年12月9日付ブログで紹介済)、オヴァールクリケット場(Oval)を抜けて、ケニントンレーン(Kennington Lane→2017年12月16日付ブログで紹介済)へと達した。そして、彼らは更にボンドストリート(Bond Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)、マイルズストリート(Miles Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)やナイツプレイス(Knight’s Place→2017年12月23日付ブログで紹介済)を通って、ナインエルムズ地区(Nine Elms→2017年12月30日付ブログと2018年1月6日付ブログで紹介済)までやって来たが、ブロデリック&ネルソンの材木置き場という間違った場所に辿り着いてしまった。どうやら、犬のトビーは、どこかの地点から違うクレオソートの臭いを辿ってしまったようだ。

二人はトビーをクレオソートの臭いの跡が二つの方向に分かれていたナイツプレイスへと戻し、犯人達の跡を再度辿らせた。そして、彼らはベルモントプレイス(Belmon Place→2018年1月13日付ブログで紹介済)とプリンスズストリート(Prince’s Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)を抜けて、ブロードストリート(Broad Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)の終点で、テムズ河岸に出るが、そこは船着き場で、どうやら犯人達はここで船に乗って、警察の追跡をまこうとしたようだ。

ホームズは、ウィギンズ(Wiggins)を初めとするベイカーストリート不正規隊(Baker Street Irregulars)を使って、バーソロミュー・ショルトを殺害した犯人達が乗った船の隠れ場所を捜索させたものの、うまくいかなかった。独自の捜査により、犯人達の居場所を見つけ出したホームズは、ベイカーストリート221B へスコットランドヤードのアセルニー・ジョーンズ警部(Inspector Athelney Jones)を呼び出す。ホームズは、呼び出したアセルニー・ジョーンズ警部に対して、バーソロミュー・ショルトの殺害犯人達を捕えるべく、午後7時にウェストミンスター船着き場(Westminster Stairs / Wharf→2018年3月31日 / 4月7日付ブログで紹介済)に巡視艇を手配するよう、依頼するのであった。

巡視艇がウェストミンスター船着き場を離れると、ホームズはアセルニー・ジョーンズ警部に対して、巡視艇をロンドン塔(Tower of London→2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)方面へと向かわせ、ジェイコブソン修理ドック(Jacobson’s Yard)の反対側に船を停泊するよう、指示した。

テムズ河に架かるブラックフライアーズ橋(Blackfriars Bridge)から見たテムズ河の北岸–
ジョン・H・ワトスンが巡視艇から見たセントポール大聖堂が建っている

「彼らが本当に真犯人かどうかは判りませんが、ホームズさん、あなたは全てを非常に見事に計画されましたね。」と、ジョーンズ警部は言った。「もし私がこの事件を担当していたら、ジェイコブソン修理ドックの周りに警察官を配置して、彼らがやって来たところで逮捕しますね。」
「それは、絶対にうまくいかないさ。真犯人のスモールは、かなり抜け目のない男だ。奴は、前以って偵察を送り、何か怪しいと感じることがあれば、もう一週間身を潜めているだろう。」
「しかし、モルディカイ・スミスを尾行すれば、犯人達の隠れ家に辿り着けたかもしれない。」と、私が言った。
「ワトスン、君が言う通りにしていたら、僕は一日無駄にしていたに違いない。スミスが犯人達の居場所を知っている確率は、百分の一だと、僕は思っている。スミスにとって、酒と割と良い報酬がある限り、あれこれと詮索する必要があると思うかい?犯人達は、伝言を使い、スミスに対して指示をしている。いいや、僕はあらゆる可能な手段を検討したが、これが最善の策なんだ。」
こういった話をしている間に、私達が乗った巡視艇は、テムズ河に架かる橋の長い列を抜けて行った。シティーを過ぎた時、沈みゆく太陽の最後の光が、セントポール大聖堂の頂に建つ十字架を金色に染めていた。ロンドン塔に着く頃には、既に黄昏時だった。

テムズ河に架かるブラックフライアーズ橋から見たテムズ河の南岸–
昔、火力発電所で、その後、美術館に改装されたテート・モダン美術館(Tate Modern)や
その奥には、「ガラスの破片」を意味するシャード(Shard)ビルが建っている

‘You have planned it all very neatly, whether they are the right men or not, said Jones. ‘But if the affair were in  my hands I should have had a body of police in Jacobson’s Yard, and arrested them when they came down.’
‘Which would have been never. This man Small is a pretty shrewd fellow. He would send a scout on a head, and if anything made him suspicious he would lie snug for another week.’
‘But you might have stuck to Mordecai smith, and so been led to their hiding-place,’ said I.
‘In that case I should have wasted my day. I think that it is a hundred to one against smith knowing where they live. As long as he has liquor and good pay, why should he ask questions? They send him messages what to do. No, I thought over every possible course, and this is the best.’
While this conversation had been proceeding, we had been shooting the long series of bridges which span the Thames. As we passed the City the last rays of the sun were gilding the cross upon the summit of St Paul’s. It was twilight before we reached the Tower.

テムズ河に架かるブラックフライアーズ橋から見たテムズ河の北岸(その2)–
シティー・オブ・ロンドン内では、今も新しいオフィスビルの建設が進められている

ホームズ、ワトスンとスコットランドヤードのアセルニー・ジョーンズ警部の三人が警察官達と一緒に乗った巡視艇がウェストミンスター船着き場を出発して、テムズ河(River Thames)に架かる橋を次々と抜けた後、通り過ぎたのは、シティー・オブ・ロンドン(City of London)で、ロンドンの中心部に位置する地区であり、ロンドンのみならず、英国における経済活動の中心地である。

シティー・オブ・ロンドンは、単純に「シティー(the City)」とも、あるいは、その広さが約1マイル四方であることから、「スクエアマイル(the Square Mile)」とも呼ばれている。また、英国の金融業界全体を指す意味としても使われている。

2018年7月29日日曜日

カーター・ディクスン作「ユダの窓」(The Judas Window by Carter Dickson)– その2

中央刑事裁判所の建物上部全景

エイヴォリー・ヒューム(Avory Hume)の死体を見て、名状しがたい恐怖に狼狽えたジェイムズ・キャプロン・アンズウェル(James Caplon Answell)が部屋を見回したところ、彼が通って来たオーク材の重いドアには、内側から差し錠が掛かっている上に、二つ並んだ窓には、スティール製のシャッターが頑丈に閉まっていて、誰も出入りできな状況だった。また、部屋の中には、誰か他の第三者が身を潜めるような場所は、どこにもなかった。

中央刑事裁判所の入口が
「Old Bailey(オールドベイリー通り)」に面しているため、
中央刑事裁判所自体が「オールドベイリー」という通称で呼ばれている

ドアを叩く音を聞いて、やむなく彼がドアを開けると、エイヴォリー・ヒュームの執事のダイアー、秘書のアメリア・ジョーダン、そして、ヒューム家の隣人であるランドルフ・フレミングの3人が部屋の中へと入って来て、事件が発覚したのであった。

中央刑事裁判所の入口(オリジナル)

ジェイムズ・キャプロン・アンズウェルは、「エイヴォリー・ヒュームから手渡されたウィスキーソーダの中に、何かが入っていて、意識を失ってしまったので、何が起きたのか、全く判らない。」と主張するが、サイドボードの上に置かれたウィスキーのデカンター、ソーダ水のサイフォンおよび4つのタンブラーグラスには、薬物が入れられた形跡はなく、また、彼の身体からも薬物の兆候は見つからなかった。

中央刑事裁判所の入口(オリジナル)に横に掛けられている
「中央刑事裁判所」の表示

ジェイムズ・キャプロン・アンズウェルが驚いたことに、彼が着ていたコートのポケットから、彼の従兄弟であるレジナルド・アンズウェル大尉(Captain Reginald Answell)のピストルが出てきたが、彼はそんな物をここに持参し来た覚えがなかった。更に、運が悪いことに、エイヴォリー・ヒュームの胸に深く突き刺さったアーチェリーの矢からは、ジェイムズ・キャプロン・アンズウェルの指紋だけが検出されたのであった。

建物の上部に設置された「正義の女神」像

ジェイムズ・キャプロン・アンズウェルは、エイヴォリー・ヒューム謀殺の罪名で逮捕された上、被告として起訴され、3月4日に中央刑事裁判所(Central Criminal Court→2016年1月17日付ブログで紹介済)において裁判が行われることとなった。
裁判の過程で、ジェイムズ・キャプロン・アンズウェルに不利な証言が相次ぐ中、彼の弁護人に就いた法廷弁護士の資格を有するヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)が、「犯人は、どの部屋にも存在する「ユダの窓」(Judas Window)から、エイヴォリー・ヒュームに対して、クロスボウでアーチェリーの矢を射たのだ。」と論述するのである。

中央刑事裁判所のサウスブロック–
現在、建物への出入りには、
こちらが使用されている

明智小五郎シリーズ等で有名な日本の推理作家 / 怪奇・恐怖小説家 / アンソロジストである江戸川乱歩(1894年ー1965年)が「カー問答」(1950年)の中で、ジョン・ディクスン・カー / カーター・ディクスンの作品を最も面白い第1位のグループから最もつまらない第4位のグループまで評価分けをしているが、本作品「ユダの窓」は、第1位のグループに入った6作品の中で、5番目に挙げられている。
また、海外においても、「Locked Room Murders」(1979年、1991年)の著者であるロバート・エイデイが「密室ミステリーの最高峰」と絶賛している。

ニューゲートストリート(Newgate Street)から見た
中央刑事裁判所の建物全景

「ユダの窓」は、1964年にペーパーバックで上梓された際、「The Crossbow Murder」と改題されている。

2018年7月22日日曜日

ロンドン クイーン アン ストリート23番地(23 Queen Ann Street)

英国のロマン主義の画家であるジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーが住んでいた
クイーン アン ストリート23番地は、
1st Floor(日本では、2階)から英国の国旗が掲げられている建物である

18世紀末から19世紀中頃にかけて活躍した英国のロマン主義の画家である「J・M・W・ターナー(J. M. W. Turner)」こと、ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年)が住んでいた家が、クイーン アン ストリート23番地(23 Queen Ann Street)にある。クイーン アン ストリート23番地は、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のマリルボーン地区(Marylebone)内に所在している。


クイーン アン ストリート(Queen Ann Street→2014年11月15日付ブログで紹介済)は、東西に延びる通りで、東側はチャンドスストリート(Chandes Street)から始まり、西側はウェルベックストリート(Welbeck Street→2015年5月16日付ブログで紹介済)に突き当たって終わっている。
なお、チャンドスストリートは、サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」等に登場したランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)の西側を南北に延びる通りである。また、ウェルベックストリートは、「最後の事件(The Final Problem)」において、シャーロック・ホームズが、犯罪界のナポレオンであるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)配下の者が乗った二頭立ての馬車に襲撃された通りである。

クイーン アン ストリート23番地の建物全景

クイーン アン ストリート23番地の Ground Floor / 1st Floor

クイーン アン ストリートは、英国のステュアート朝(House of Stuart)最後の君主であるアン女王(Queen Ann:1665年ー1714年)に因んで名付けられている。

ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示されている
アン女王の肖像画
(By Michael Dahl
 / Oil on canvas / 1702年)

アン女王は、1702年3月に(最後の)イングランド王国・スコットランド王国君主およびアイルランド女王(Queen of England, Scotland and Ireland)として即位し、1707年5月にスコットランドがイングランドに併合されたことに伴い、(最初の)グレイトブリテン王国君主およびアイルランド女王(Queen of Great Britain and Ireland)として、1714年8月まで君臨した。


クイーン アン ストリート23番地は、ウィンポールストリート(Wimpole Street)とウェルベックストリートに東西を挟まれたクイーン アン ストリートの南側にある建物で、現在はフラットになっている模様。

クイーン アン ストリート23番地の入り口(その1)

クイーン アン ストリート23番地の入り口(その2)

ロンドンの劇場街コヴェントガーデン(Covent Garden)に生まれ、若くして成功と名声を手にいれたジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは、1812年にそれまで住んでいたハーリーストリート64番地(64 Harley Street)からクイーン アン ストリート23番地へと引っ越して、亡くなる1851年まで、その家を所有したそうである。クイーン アン ストリート23番地の駐車場入口上の外壁に、画家ターナーがここに住んでいたことを記すプレートが掲げられている。

画家ターナーが
クイーン アン ストリート23番地に
住んでいたことを記すプレート(その1)

画家ターナーがクイーン アン ストリート23番地に
住んでいたことを記すプレート(その2)

なお、彼が亡くなった場所は、クイーン アン ストリート23番地ではなく、1846年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(Royal Academy of Arts)の副会長を辞した後に居を構えたケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のチェルシー地区(Chelsea)内にあるテムズ河(River Thames)沿いの家であった。

2018年7月21日土曜日

カーター・ディクスン作「ユダの窓」(The Judas Window by Carter Dickson)–その1

東京創元社から出版されている創元推理文庫
カーター・ディクスン作「ユダの窓」の表紙–
       カバーイラスト:ヤマモト マサアキ 
カバーデザイン:折原 若緒 
  カバーフォーマット:本山 木犀
 

「ユダの窓(The Judas window)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、別のペンネームであるカーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で1938年に発表した推理小説で、ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズの長編第7作目に該る。当作品は、米国ではモロウ社(Morrow)から、そして、英国ではハイネマン社(Heinemann)から出版された。

亡き母の財産を相続した裕福な若者であるジェイムズ・キャプロン・アンズウェル(James Caplon Answell)は、ある年のクリスマスパーティーにおいて、従兄弟のレジナルド・アンズウェル大尉(Captain Reginald Answell)からメアリー・ヒューム(Mary Hume)を紹介された。直ぐにお互いに惹かれあった二人は、年明けには婚約に至る。1月4日、サセックス州(Sussex)からロンドンのフラットに戻ったジェイムズ・キャプロン・アンズウェルのところに、メアリーの父親で、キャピタルカウンティーズ銀行の元取締役であるエイヴォリー・ヒューム(Avory Hume)から電話があり、同日の夕方、自宅へ招待された。

指定されたその日の午後6時過ぎに、ロンドン市内のヒューム家を訪れたジェイムズ・キャプロン・アンズウェルは、エイヴォリー・ヒュームが待つ書斎へと案内される。エイヴォリー・ヒュームの執事ダイアーと一緒に、玄関からホールの大階段の横を通って書斎へと向かうジェイムズ・キャプロン・アンズウェルは、2階の手すり越しに彼を見下ろしている秘書のアメリア・ジョーダンを見かける。

早川書房から出版されているハヤカワ文庫
カーター・ディクスン作「ユダの窓」の表紙
(カバー装画:山田 維史)

ジェイムズ・キャプロン・アンズウェルが案内された書斎は、屋敷の裏手に該る部屋だった。ダイアーに招き入れられた書斎は、天井の高い事務室風の部屋で、部屋の真ん中にはモダンな事務机が鎮座し、その上ではモダンな卓上スタンドが明るい光を投げかけていた。部屋の右側の壁には、サイドボードが設えており、左側の壁に二つ並んだ窓には、スティール製のシャッターが付けられていた。そして、入って正面の壁には、飾り気のない白大理石のマントルピースがあり、その真上には、部屋で唯一の装飾となるアーチェリーの矢が3本、三角形に組み合わされて飾られていた。エイヴォリー・ヒュームの説明によると、アーチェリーが趣味の彼が入会している「ケント州森の狩人クラブ」の年次大会において、最初に金的(=的の真ん中)を射た際の賞品とのことだった。

エイヴォリー・ヒュームがサイドボードの上に置かれたデカンターの栓を開け、二人分のウィスキーソーダを作った。ジェイムズ・キャプロン・アンズウェルは、エイヴォリー・ヒュームから手渡されたウィスキーソーダを飲んだ途端、忽ち意識を失ってしまった。薄れゆく意識の中で、「ウィスキーソーダに何か入っていた。」ということが、彼の頭の中をよぎった。

暫くして、胃のむかつきを抑えながら、何とか堪えて目を開けたジェイムズ・キャプロン・アンズウェルが懐中時計を見ると、時計の針は午後6時半を指していた。彼が、窓とデスクの間に左わきを下にして横たわっているエイヴォリー・ヒュームを仰向けにすると、その胸にはアーチェリーの矢が深々と突き刺さっていたのである。そのアーチェリーの矢は、マントルピースの真上に飾られていた3本のうちの1本で、壁の矢は2本に減っていた。エイヴォリー・ヒュームの胸から突き出た矢には、3枚の羽根が付いていたが、中央の矢羽根は半分にちぎれていた。

2018年7月15日日曜日

ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)–その3

テイト・ブリテン美術館に所蔵されている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作「Norham Castle, Sunrise」(1845年)

1804年にハーリーストリート(Harley Street→2015年4月11日付ブログで紹介済)の自宅近くにオープンした自分自身の作品を展示するギャラリーの運営が軌道に乗り始めると、ギャラリーを父親に任せて、J・M・W・ターナー(J. M. W. Turner)こと、ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年)は、英国外へと足を伸ばし、フランス、スイス、オランダやベルギー等へスケッチ旅行に出かけることが増えていく。
そして、J・M・W・ターナーにとって大きな転機となったのは、1819年、44歳の時に初めて訪れたイタリアであった。ルネサンス期以来、イタリアは西洋美術の中心地であり続け、英国等の北方ヨーロッパ出身の画家達にとっては、いつか訪れてみたい「憧れ」の地だったのである。イタリア訪問中、J・M・W・ターナーは、北方ヨーロッパにはない明るい陽光とそこから生まれる豊かな色彩に息を飲み、そして、魅せられた。イタリアの中でも、彼は「水の都」と呼ばれるヴェネツィア(Venice)に惹かれ、4週間に満たない滞在中に、400枚を超えるスケッチを残した。ヴェネツィアをこよなく愛したJ・M・W・ターナーは、その後、同地を何度も訪れている。

イタリア旅行後、J・M・W・ターナーの作品上、画面における光と空気の関係性を追求することに主眼が置かれた。彼は、イタリア滞在中、目に焼き付けた光を分解して、空気や大気の動きを色によって描き出す研究に、その後の画家人生を捧げたのである。そのため、彼が描く対象の形態は、次第に曖昧になり、最終的には、ほとんど抽象画に近づいていった。彼の絵画は、ただただ、まばゆいばかりの光の海、波と霧の渦でしかないものまで行き着いたのである。J・M・W・ターナーの最終学歴は小学校で、その上、難読症でもあったが、雲の成り立ちに関する気象学者の講義に出席したり、ニュートンの光学理論やゲーテの色彩論に基づいて、光を描いたりと、自分の不利なところを補う人一倍の探究心を持って、独学で突き進んでいった。

ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの遺体が埋葬された
セントポール大聖堂の正面を見上げたところ

強い絆で結ばれていた父親が1829年に死去すると、J・M・W・ターナーは失意のどん底で苦しんだ。そんな彼を側で支えてくれたのが、25歳年下の未亡人ソフィア・キャロライン・ブース(Sophia Caroline Booth)であった。
老齢を迎えて、1846年にロイヤルアカデミー(Royal Academy)の副会長の座を辞したJ・M・W・ターナーは、現在のチェルシー地区(Chelsea)にあるテムズ河(River Thames)沿いのチェイニーウォーク(Cheyne Walk)に居を構え、ソフィア・キャロライン・ブースと一緒に暮らしながら、作品の制作を続けた。その後、1851年に体調を崩し、彼は病床に絵の具を持ち込んで、作品を制作したが、同年12月19日、コレラ(cholera)が原因で世を去り、76歳の生涯を閉じた。彼の遺体は、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral)に埋葬された。

ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの遺体が埋葬された
セントポール大聖堂のドームと側面を見上げたところ

J・M・W・ターナーは、自分の手元にあった主要作品を全て国家に遺贈したので、彼の作品の多くは、ロンドンのナショナルギャラリー(National Gallery)やテイト・ブリテン美術館(Tate Britain→2018年2月18日付ブログで紹介済)で見ることができる。特に、テイト・ブリテン美術館には、400点にのぼる油彩画と2万点に及ぶ水彩画が所蔵されている。

2018年7月14日土曜日

ロンドン ホウジアレーン(Hosier Lane)

ホウジアレーンの中央辺りから、ギルトスパーストリート方面を見上げたところ –
現在、画面右手奥では、ホテルが建設されている。

米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、別のペンネームであるカーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で発表した長編第2作目で、ヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)が探偵役を務める長編第1作目となる「黒死荘の殺人(The Plague Court Murder → 2018年5月6日 / 5月12日付ブログで紹介済)」では、降霊会の最中、黒死荘(The Plague Court)の庭に建つ石室内において、心霊学者のロジャー・ダーワース(Roger Darworth)が血の海の中で無残にも事切れていた。石室は厳重に戸締りされている上に、石室の周囲には、足跡が何も残されていなかった。それに加えて、殺害されたロジャー・ダーワースの傍らには、前日の午後、ロンドン博物館から盗まれた曰く付きの短剣が真っ赤な血に染まって残されていたのである。


ロジャー・ダーワースが殺害された黒死荘があった場所の第二候補先は、コックレーン(Cock Lane → 2018年6月30日 / 7月7日付ブログで紹介済)と同様に、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー・オブ・ロンドン(City of London)内にあり、サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」において、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンが初めて出会ったセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew’s Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)の近くにある。

ギルトスパーストリート側から
ホウジアレーンを下る(その1)

ギルトスパーストリート側から
ホウジアレーンを下る(その2)

セントバーソロミュー病院を右手に見て、ギルトスパーストリート(Giltspur Street → 2018年6月9日 / 6月16日 / 6月23日付ブログで紹介済)を北上。左手に見えるコックレーンを過ぎて、更に北上し、有名な肉市場であるスミスフィールドマーケット(Smithfield Market)の手前にあるウェストスミスフィールド(West Smithfield)と呼ばれるロータリー前で左折したところにあるホウジアレーン(Hosier Lane)が、それである。

スミスフィールドストリート側から
ホウジアレーンを見上げたところ(その1)

スミスフィールドストリート側から
ホウジアレーンを見上げたところ(その2)

ホウジアレーンの東側は、ギルトスパーストリートから始まり、西側は、スミスフィールドマーケットから南下するスミスフィールドストリート(Smithfield Street)に突き当たって終わっている。また、ホウジアレーンは、コックレーンの北側で、コックレーンに並行するように東西に延びる通りである。

ホウジアレーンとスミスフィールドストリートが
交差した角に建つオフィスビルのG階(地上階)には、
Karaoke Box が入っている。

ホウジアレーンの「hosier」とは、靴下や昔の男性用タイツ等を意味する「hose」と「~する者(職業を表す)」を意味す「ier」が合わさって出来上がった単語で、「男性用洋品商」や「靴下肌着類製造業者 / 販売業者」を意味している。現在、ホウジアレーンの両側には、オフィスビル等が建ち並んでいるが、以前、通り沿いに男性用洋品商が店を開いていて、それに因み、「ホウジアレーン」と名付けられたのかもしれない。