2025年9月12日金曜日

ロンドン ダリッジピクチャーギャラリー(Dulwich Picture Gallery)- その3

ダリッジピクチャーギャラリーの館内(その1)
<筆者撮影>

今回は、英国の新古典主義を代表する建築家となり、1788年10月16日に、英国の建築家 / 彫刻家であるサー・ロバート・テイラー(Sir Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めたサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年 → 2025年6月24日 / 6月28日 / 7月9日付ブログで紹介済)が設計したダリッジピクチャーギャラリー(Dulwich Picture Gallery)について、引き続き、紹介したい。


英国の肖像画家であるサー・トマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence:1769年ー1830年)が描いた
「サー・ジョン・ソーン(76歳)の肖像画 (Portrait of Sir John Soane, aged 76)」
(1828年ー1829年)
の絵葉書
Oil on canvas 
<筆者がサー・ジョン・ソーンズ博物館で購入>


ロンドンで画商として成功したスイス系英国人であるサー・ピーター・フランシス・ルイス・ブルジョワ(Sir Peter Francis Lewis Bourgeois:1753年ー1811年)と彼の共同経営者であるフランス人のノエル・ジョーゼフ・デザンファン(Noël Joseph Desenfans:1741年ー1807年)の2人は、1790年にポーランド・リトアニア共和国(Polish-Lithuanian Commonwealth)の(最後の)国王であるスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ / スタニスワフ2世アウグスト(Stanisław August Poniatowski / Stanisław II August:1732年ー1798年 在位期間:1764年-1795年)から、ポーランド王室の美術品の充実とポーランドにおける美術の発展を目的とした依頼を受ける。

スタニスワフ2世アウグストからの依頼を受けた彼ら2人は、1790年から5年をかけて欧州中を巡り、絵画を収集したが、1795年に第3次ポーランド分割が行われた結果、スタニスワフ2世アウグストを国王とするポーランド・リトアニア共和国は消滅することになり、彼らが収集した絵画コレクションの引き取り手が居なくなってしまった。

そこで、サー・ピーター・フランシス・ルイス・ブルジョワとノエル・ジョーゼフ・デザンファンの2人は、収集した絵画コレクションを他国へ売却しようとしたが、最終的にうまくいかず、重要な美術品の追加購入資金を確保するために、数点の絵画を売却するにとどめ、残りの絵画コレクションについては、ロンドンにあるノエル・ジョーゼフ・デザンファンの屋敷において保管することになった。


ダリッジピクチャーギャラリーの絵画コレクションの基礎を築いた
サー・ピーター・フランシス・ルイス・ブルジョワ(右上)、
ノエル・ジョーゼフ・デザンファン(左下)、
そして、マーガレット・モリス・デザンファン(左上)の肖像画
<筆者撮影>


1807年に共同経営者であるノエル・ジョーゼフ・デザンファンが死去した後、2人で収集した絵画コレクションを引き継いだサー・ピーター・フランシス・ルイス・ブルジョワは、大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)に対して、「自分が死去した後、絵画コレクションを遺贈したい。」と持ち掛けたものの、大英博物館側の役員達の問題により、この話は流れてしまう。


大英博物館の正面入口 -
グレイトラッセルストリート(Great Russell Street
→ 2025年7月15日付ブログで紹介済)に面している。
<筆者撮影>


最終的には、サー・ピーター・フランシス・ルイス・ブルジョワは、1811年に死去した際、イングランドとアイルランドの女王で、テューダー朝(House of Tudor)の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年)の統治時代に俳優として活躍し、その後、劇場経営主として成功したエドワード・アレン(Edward Alleyn:1566年ー1626年)が創設した「神の賜物カレッジ(College of God’s Gift)」から分化した「ダリッジカレッジ(Dulwich College)」に対して、ノエル・ジョーゼフ・デザンファンと一緒に収集した絵画コレクションを遺贈した。


ダリッジ村内に設置されている
エドワード・アレン記念碑(Memorial to Edward Alleyn)
<筆者撮影>


ダリッジビレッジ通り(Dulwich Village)沿いに設置されている「神の賜物カレッジ」の説明板
<筆者撮影>


その際、サー・ピーター・フランシス・ルイス・ブルジョワの遺言には、友人の建築家であるサー・ジョン・ソーンによる設計による新しいギャラリーを建設の上、絵画コレクションを収蔵し、大衆に公開することが条件として付されていた。そのための費用として、2千ポンドの遺産が残された。


ダリッジピクチャーギャラリーの建物模型
<筆者撮影>


こうして、サー・ピーター・フランシス・ルイス・ブルジョワが残した遺言に従って、彼とノエル・ジョーゼフ・デザンファンが収集した絵画コレクションを収蔵するためのダリッジピクチャーギャラリーが、サー・ジョン・ソーンによる設計により建設されることになったのである。

サー・ジョン・ソーンは、「天窓を通じて、自然光を取り入れた続き部屋の展示室」と言うシンプルで、かつ基本的なデザインを設計に採用した。彼によるこの設計は、その後の美術館建築に対して、大きな影響を与えた。


ダリッジピクチャーギャラリーの天窓
<筆者撮影>


また、サー・ジョン・ソーンは、サー・ピーター・フランシス・ルイス・ブルジョワ、ノエル・ジョーゼフ・デザンファン、そして、ノエル・ジョーゼフ・デザンファンの妻マーガレット・モリス・デザンファン(Margaret Morris Desenfans:1731年(?)/ 1737年(?)ー1814年)を埋葬するための霊廟(Mausoleum)を、ギャラリーの西棟中央に設計した。


ダリッジピクチャーギャラリーの絵画コレクションの基礎を築いた
サー・ピーター・フランシス・ルイス・ブルジョワ、
ノエル・ジョーゼフ・デザンファンと
マーガレット・モリス・デザンファンの3人が埋葬されている霊廟
<筆者撮影>


サー・ジョン・ソーンが設計したダリッジピクチャーギャラリー(当時は、ダリッジカレッジピクチャーギャラリー(The Dulwich College Picture Gallery)と呼ばれた)は、1815年に王立芸術院(Royal Academy of Arts)に対して公開。

同ギャラリーがイングランドにおいて最初に一般大衆に開かれた美術館(the oldest public art gallery in England)としてオープンしたのは、それから2年後の1817年だった。ギャラリーの正式な開館が2年も遅れたのは、美術館内に設置された暖房設備に問題が生じたためである。


ダリッジピクチャーギャラリーの館内(その2)
<筆者撮影>


ギャラリーの西側に沿って、サー・ジョン・ソーンは救貧院を設計したが、英国の建築家であるチャールズ・バリー・ジュニア(Charles Barry Jr.:1823年ー1900年)が1880年に展示場所への改築を行った。


ダリッジピクチャーギャラリーの館内(その3)
<筆者撮影>


ギャラリーの西棟と霊廟は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中の1994年7月12日、ドイツ軍のV1飛行爆弾(Germany V1 flying bomb)を受けて、甚大な損害を被り、霊廟に埋葬されていた3人の遺骨は、ギャラリー正面の芝生に散乱したと言われている。


ダリッジピクチャーギャラリーの館内(その4)
<筆者撮影>


その後、ギャラリーの西棟と霊廟は、修復工事を経て、1953年4月27日、エリザベス王太后(HM Queen Elizabeth The Queen Mother:1900年ー2002年)来臨の下、再開館の運びとなった。

なお、エリザベス王太后は、ウィンザー朝(House of Winsor)第3代国王であるジョージ6世(George VI:1895年ー1952年 在位期間:1936年-1952年)の王妃で、ウィンザー朝第4代女王であるエリザベス2世(Elizabeth II:1926年ー2022年 在位期間:1952年ー2022年)の母である。


ダリッジピクチャーギャラリーの館内(その5)
<筆者撮影>


ダリッジピクチャーギャラリーは、「ダリッジカレッジ」に属していたが、1994年に独立した美術館となった。


ダリッジピクチャーギャラリーの館内(その6)
<筆者撮影>


1999年、米国の建築家であるリック・マザー(Rick Mather:1937年ー2013年)の設計により、カフェ、教育施設、階段式講堂、新しいエントランスやガラス張りの通路が増改築され、エリザベス2世来臨の下、2000年5月25日に公開された。


ダリッジピクチャーギャラリーのエントランスホールの壁に描かれている
Sinta Tantra 作「The Grand Tour, 2020 - Paint and gold leaf」(その1)
<筆者撮影>


ダリッジピクチャーギャラリーと霊廟は、現在、歴史的な建造物として、グレード II(Listed Grade II)に指定されている。


ダリッジピクチャーギャラリーのエントランスホールの壁に描かれている
Sinta Tantra 作「The Grand Tour, 2020 - Paint and gold leaf」(その2)
<筆者撮影>


ダリッジピクチャーギャラリーは、17世紀から18世紀を中心とした欧州のオールドマスター(Old Master)達による絵画を所蔵するイングランド有数の美術館として有名で、特に、オランダ、フランドル、イタリア、スペインやフランスの絵画とテューダー朝(House of Tudor)から19世紀にかけての英国の肖像画のコレクションで知られている。


ダリッジピクチャーギャラリーの館内の壁に掛けられている
ギャラリーの沿革をかかる説明板

<筆者撮影>


ダリッジピクチャーギャラリーが所蔵する絵画コレクションについては、次回に紹介したい。


2025年9月11日木曜日

ロンドン カンバーランド波止場 (Cumberland Wharf)

ロザーハイズ地区のテムズ河沿いの遊歩道に設置されている
ピルグリムファーザーズの記念碑と
ブロンズ像「Sunshine Weekly and The Pilgrims Pocket」
<筆者撮影>


サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作が、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、43番目に発表された作品である「瀕死の探偵(The Dying Detective → 2025年5月5日 / 5月21日付ブログで紹介済)」に出てくるロザーハイズ地区(Rotherhithe → 2025年8月31日 / 9月6日付ブログで紹介済)は、ロンドンの特別区の一つであるサザーク区(London Borough of Southwark)内にある地区で、テムズ河(River Thames)の南岸にあり、テムズ河へ半島のように突き出している場所にある関係上、北側、東側と西側の三方はテムズ河に囲まれている。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1913年12月号に掲載された挿絵(その1) -
ジョン・H・ワトスンがシャーロック・ホームズとの共同生活を解消してから、
2年が経過していた。
ベイカーストリート221B の家主であるハドスン夫人が、
ワトスンの家を訪ねて来る。ホームズが謎の病に罹り、
瀕死の状態に陥っている、とのこと。
ハドスン夫人の依頼を受けて、ワトスンは、
直ぐにホームズの元へと向かい、
熱帯病に詳しい医師を連れて来ようと提案するものの、
何故か、ホームズは一切聞き入れず、
後で自分が指定する人物を読んで来るようにと言い張ったのである。
画面右側から、シャーロック・ホームズ、
そして、ジョン・H・ワトスン。
挿絵:ウォルター・スタンリー・パジェット
(Walter Stanley Paget:1862年 - 1935年)

なお、ウォルター・スタンリー・パジェットは、
シャーロック・ホームズシリーズのうち、

第1短編集の「シャーロック・ホームズの冒険

(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1892年)、

第2短編集の「シャーロック・ホームズの回想

(The Memoirs of Sherlock Holmes)」(1893年)、

第3短編集の「シャーロック・ホームズの帰還

(The Return of Sherlock Holmes)」(1905年)および

長編第3作目の「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」

「ストランドマガジン」1901年8月号から1902年4月号にかけて連載された後、

単行本化)の挿絵を担当したシドニー・エドワード・パジェット

(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)の弟である。


ロザーハイズストリート沿いに建つ案内標識
<筆者撮影>


以前、ロザーハイズ地区内にあったカンバーランド波止場(Cumberland Wharf)は、1620年に米国へ渡った「メイフラワー号(Mayflower)」が一番最初に出航した場所である。


ロザーハイズ地区のテムズ河沿いの遊歩道に設置されている
ピルグリムファーザーズの記念碑(その1)
<筆者撮影>


「メイフラワー号」とは、ピューリタン(清教徒)であるピルグリムファーザーズ(Pilgrim Fathers)が、英国ステュアート朝(House of Stuart)のジェイムズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年ー1625年)による宗教弾圧を恐れて、1620年に米国へ渡った際に乗船した船である。


ロザーハイズ地区のテムズ河沿いの遊歩道に設置されている
ピルグリムファーザーズの記念碑(その2)
<筆者撮影>


主に貨物船として、欧州各国とイングランドの間で貨物(主にワイン)を運んでいた「メイフラワー号」は、1620年9月16日(ユリウス暦:1620年9月6日)に、英国デヴォン州(Devon)プリマス(Plymouth → 2023年9月8日付ブログで紹介済)を出港して、新天地である米国(現在のマサチューセッツ州(Commonwealth of Massachusettes)プリマス(Plymouth))に辿り着いている。

なお、「メイフラワー号」の一番最初の出航地は、元々、母港としていたロザーハイズ地区内のカンバーランド波止場で、65名を乗せて出港し、プリマスに着く前に、サザンプトン(Southampton)に寄港して、食糧等の補給を受けている。


ロザーハイズ地区のテムズ河沿いの遊歩道に設置されている
ブロンズ像「Sunshine Weekly and The Pilgrims Pocket」(その1)
<筆者撮影>


当初、「メイフラワー号」と「スピードウェル号(Speedwell)」の2隻で米国へ向かう予定であったが、1620年8月15日(ユリウス暦:1620年8月5日)にサザンプトンを出港した後、「スピードウェル号」に水漏れが発生して、ダートマス(Dartmouth → 2023年9月6日付ブログで紹介済)で修理を受けた。

修理後、「スピードウェル号」は再度大西洋へ向かって出港したが、再度、水漏れが起こり、プリマスへ戻った。

その結果、2隻で予定されていた航海が1隻となり、「メイフラワー号」のみで米国へと向かうことになった。


ロザーハイズ地区のテムズ河沿いの遊歩道に設置されている
ブロンズ像「Sunshine Weekly and The Pilgrims Pocket」(その2)
<筆者撮影>


当時、「メイフラワー号」には、


*船長:クリストファー・ジョーンズ・ジュニア(Christopher Jones Jr.:1570年頃ー1622年)

*乗組員:25名ー30名

*乗客:102名


が乗船したため、荷物のスペースが非常に制限されることになった。


ロザーハイズ地区のテムズ河沿いの遊歩道に設置されている
ブロンズ像「Sunshine Weekly and The Pilgrims Pocket」(その3)
<筆者撮影>


「メイフラワー号」の一番最初の出航地であるカンバーランド波止場を記念して、ロザーハイズ地区のテムズ河沿いの遊歩道には、「Sunshine Weekly and the Pilgrim Pocket」と言うピルグリムファーザーズのブロンズ像が設置されている。

このブロンズ像は、彫刻家であるピーター・マクリーン(Peter McLean)により制作され、1991年11月29日に除幕式を迎えている。


ロザーハイズストリート沿いに建つ「メイフラワー号パブ」
<筆者撮影>

ロザーハイズストリートの途中から西方面を見たところ -
画面右手奥に見えるのが、「メイフラワー号パブ」
<筆者撮影>


また、ロザーハイズストリート(Rotherhithe Street)沿いでは、「メイフラワー号パブ(The Mayflower Pub - 住所:117 Rotherhithe Street, London SE16 4NF)」が営業しており、地元民や観光客等で賑わっている。


2025年9月10日水曜日

コナン・ドイル作「花婿失踪事件」<小説版>(A Case of Identity by Conan Doyle )- その2

1891年9月号に掲載された挿絵(その2) -
母親の再婚相手であるジェイムズ・ウィンディバンクは、
メアリー・サザーランドに対して、男友達との交際を禁じていたが、
彼がフランスへ出張している間に、
彼女は、ガス管取付業界の舞踏会へ出かけ、
そこでホズマー・エンジェルと知り合い、間もなく婚約した。

画面手前左側から、
メアリー・サザーランド、
そして、ホズマー・エンジェル。


サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作シャーロック・ホームズシリーズの短編第3作目に該る「花婿失踪事件(A Case of Identity)」の場合、ジョン・H・ワトスンが、数週間ぶりに、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れたところから、その物語が始まる。

ホームズとワトスンの2人が会話を交わしている最中、事件の依頼人であるメアリー・サザーランド(Mary Sutherland)が、給仕の少年に案内されて、部屋へと入って来た。


メアリー・サザーランドは、太った女性で、立派な毛皮の襟巻きを首に巻き、大きくて巻いた赤い羽根が付いた鍔が広い帽子をコケティッシュなデヴォンシャー公爵夫人風に傾けて、片方の耳を覆うように冠っていた。(a large woman with a heavy fur boa round her neck, and a large curling red feather in a broad-brimmed hat which was tilted in a coquettish Duchess of Devonshire fashion over her ear)


開口一番、ホームズは、メアリー・サザーランドに対して、「貴女のような近視だと、タイプをうつのは、大変ではないですか?(’Do you not find,’ he said, ‘that with your short sight it is a little trying to do so much typewriting?’)」と尋ねて、彼女を驚かせる。


メアリー・サザーランド曰く、警察や他の人達が既に死んだものと諦めていたエサリッジ夫人(Mrs Etherege)の夫をホームズがいとも容易に見つけだした評判を聞きつけて、相談に訪れた、とのことだった。


メアリー・サザーランドは、ホームズに対して、「結婚式の場から行方不明になったホズマー・エンジェル(Hosmer Angel)を探してほしい。」と依頼。


メアリー・サザーランドは、現在、母親とその再婚相手であるジェイムズ・ウィンディバンク(James Windibank - メアリー・サザーランドの母親よりも15歳近く年下)の3人で暮らしていた。


彼女の実の父親は、トッテナムコートロード(Tottenham Court Road → 2015年8月5日付ブログで紹介済)で配管工(plumber)をしており、亡くなった際、かなりの収益がある会社を遺した。彼女の母親は、親方(foreman)のハーディー氏(Mr Hardy)と一緒に、事情を継続していたが、再婚したジェイムズ・ウィンディバンクが、会社を売却させてしまった。



トッテナムコートロードの北側を望む
<筆者撮影>


メアリー・サザーランドによると、母親の再婚相手であるジェイムズ・ウィンディバンクは、彼女より5歳ちょっと年上で、「フェンチャーチストリート(Fenchurch Street → 2014年10月17日付ブログで紹介済)にある大きな赤ワイン輸入業者ウェストハウス&マーバンクで、外交員をしています。(He travels for Westhouse & Marbank, the great claret importers of Fenchurch Street.)」と答える。なお、「クラレット」とは、フランスのボルドー(Bordeaux)地方産の赤ワインを指す。



ロンバードストリート(Lombard Street
→ 2015年1月31日付ブログで紹介済)から
フェンチャーチストリートを望む。
<筆者撮影>


メアリー・サザーランドは、タイピストとして、それなりの収入を得ている他に、オークランド(Auckland)のネッド伯父(Uncle Ned)が遺してくれたニュージーランド公債(New Zealand stock)から、年に100ポンドの利子をもらっていた。

メアリー・サザーランドは、母親とその再婚相手であるジェイムズ・ウィンディバンクと一緒に暮らしている間、この利子収入を彼らに渡していた。


母親の再婚相手であるジェイムズ・ウィンディバンクは、メアリー・サザーランドに対して、男友達との交際を禁じていたが、彼がフランスへ出張している間に、彼女は、ガス管取付業界の舞踏会(gasfitters' ball)へ出かけ、そこでホズマー・エンジェルと知り合い、間もなく婚約した。


ホズマー・エンジェルは、レドンホールストリート(Leadenhall Street → 2014年10月5日付ブログで紹介済)にある事務所で出納係として働いていて(Hosmer - Mr. Angel - was a cashier in an office in Leadenhall Street.)、寝起きもその事務所でしている(He slept on the premises.)と言う。



レドンホールストリート沿いに建つロイズ保険組合の本社ビル「ロイズビル」-
ロイズ(Lloyd’s)」とは、正式には、
「ロイズ・オブ・ロンドン(Lloyd’s of London
→ 2023年12月8日付ブログで紹介済)」と言う。
<筆者撮影>


ホームズが驚いたことに、メアリー・サザーランドは、ホズマー・エンジェルが働いている事務所の住所を、レドンホールストリート以外、全く知らなかったのである。メアリー・サザーランドによると、「ホズマー・エンジェルは、事務所宛に手紙を送られると、女性から手紙をもらったことで、他の社員達からからかわれるので、自分から彼への手紙は、全て、レドンホールストリート郵便局の局留めで送っていた。(To the Leadenhall Street Post Office, to be left till called for.)」とのことだった。


                                       

2025年9月9日火曜日

ジョン・ディクスン・カー作「軽率だった夜盗」(A Guest in the House / The Incautious Burglar by John Dickson Carr)

東京創元社から、創元推理文庫の一冊として出版されている
ジョン・ディクスン・カー作
「カー短編全集2 妖魔の森の家」の表紙
(カバー : アトリエ絵夢 志村 敏子氏) -
「軽率だった夜盗」(宇野 利奏訳)において、
夜盗がクランレイ荘に侵入した際、
「その(懐中電燈の)光が、食器棚に沿って匍っていくと、
銀色にきらめくものがあった。果物鉢である。
鉢の中のリンゴに、まるでそれが人間の胴であるかのように、
小型ナイフが不気味につき刺さったままだ。」や
「銀の食器類が一そろい、食器棚の前に散乱していた。
果物鉢も転げ落ちていた。
オレンジとリンゴ、そして葡萄の粒が潰れているあいだに、
死体が仰向けに倒れている。」と言う記述があるので、
表紙のデザインは、同作の内容を参考しているものと思われる。

今回は、ジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)作「軽率だった夜盗」(A Guest in the House / The Incautious Burglar)」について、紹介したい。


軽率だった夜盗」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カーが1940年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの短編である。


軽率だった夜盗」は、英国の場合、ハミッシュ・ハミルトン社(Hamish Hamilton)から1963年に、また、米国の場合、ハーパー社(Harper)から1964年に出版された「奇跡を解く男(The Men Who Explained Miracles)」に収録されている。

軽率だった夜盗」は、1940年に「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」に掲載された際、「A Guest in the House」と言うタイトルだったが、 「奇跡を解く男」に収録される際に、「The Incautious Burglar」へ改題された。


日本の場合、日本の出版社である東京創元社が1970年に編集した「カー短編全集2 妖魔の森の家(The Third Bullet, The House in Goblin Wood and Other Stories)」に収録された。


ケント州(Kent)の荒涼たる平原を見下ろす丘の上に建つクランレイ荘が、物語の舞台となる。

ある夜、午後11時を過ぎると、屋敷に滞在する客を除く訪問客が帰り、以下のメンバーが山荘に残った。


(1)マーカス・ハント(Marcus Hunt - 企業家 / 投資家で、クランレイ荘の主人)

(2)ハリエット・ディヴィス(Harriet Davis - マーカス・ハントの姪)

(3)アーサー・ロルフ(Arthur Rolfe - 美術商)

(4)デリク・ヘンダースン(Derek Henderson - 美術批評家)

(5)ルイス・バトラー(表面上は、ハリエット・ディヴィスの友人であるが、実際には、スコットランドヤード犯罪捜査部(C. I. D.)の警部補)


マーカス・ハントは、クランレイ荘において、レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijin:1606年ー1669年 / ネーデルラント連邦共和国(現オランダ王国)の画家)の絵画を2枚、そして、アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck:1599年ー1641年 / バロック期のフランドル出身の画家)の絵画を1枚を所蔵しており、これら3枚は、莫大な値打ちを持つ名画だった。

マーカス・ハントは、元々、これら3枚を2階の寝室の隣りにある鍵がかかる部屋で保管していたが、何故か、階下の庭に面した食堂の壁に移動させたのである。食堂から、フランス窓経由、容易に庭へ出ることができた。

不思議なことに、マーカス・ハントは、これら3枚に対して、保険を掛けていなかった。更に、奇妙なのは、彼はクランレイ荘内に設置されていた夜盗避けの警報装置を一つ残らず撤去してしまったのである。

まるで、マーカス・ハントは、盗みに入られることを待っているかのようだった。

にもかかわらず、彼は、スコットランドヤードに依頼して、内々でルイス・バトラー警部補を派遣してもらい、クランレイ荘内に張り込ませていた。

上記の通り、マーカス・ハントの行動には、全く一貫性がなかった。果たして、彼は何を考えているのか?


そして、夜中の午前2時過ぎ、夜盗が現れた。フランス窓のガラスを切り取り、開けると、食堂へと侵入。壁に掛かった額縁からレンブラント作「帽子をかぶった老婆」を抜き取ると、画布を丸く巻こうとした。その作業に熱中するあまり、夜盗は、室内にもう一人の人物が居ることに少しも気付かなかった。


金属製の物体が転げ落ちる音を聞いた皆が2階から階下の食堂へ駆け付けると、銀の食器類が散乱する中、食器棚の前に、夜盗がセーターとズボンを血で汚したまま、仰向けに倒れており、全く動かなかった。食器棚の中にあった果物鉢の果物ナイフで、肋の辺りを刺されて、既に死亡していた。

ルイス・バトラー警部補が死体の側へ歩み寄り、油染みた鳥打ち帽を脱がせ、冠っていた黒布のマスクを外したところ、なんと、夜盗の正体は、クランレイ荘の主人であるマーカス・ハントだった。彼自身の山荘に所蔵されている名画を盗み出す最中に、胸を刺されて殺害されると言う奇怪な様相を呈していた。


「自分の所有物を自分が盗みに入る」と言う一見馬鹿げた行動ではあるが、何らかの理由があったに違いない。

ルイス・バトラー警部補の上司であるデイヴィッド・ハドリー警視(Superintendent David Hadley)から依頼を受けたギディオン・フェル博士が現地へと赴き、この奇怪な事件の謎を解き明かすのである。


ギディオン・フェル博士が登場するこの短編をベースにして、ジョン・ディクスン・カーは、カーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で、ヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)を探偵役とするシリーズ長編第13作目に該る「メッキの神像 / 仮面荘の怪事件(The Gilded Man)」を執筆して、1942年に発表している。

「メッキの神像 / 仮面荘の怪事件」については、次回、紹介したい。


2025年9月8日月曜日

ロンドン リトルセントジェイムズストリート(Little St. James’s Street)

クリーヴランドロウから北上する
リトルセントジェイムズストリートを見たところ
<筆者撮影>

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1936年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第7作目に該る「アラビアンナイトの殺人(The Arabian Nights Murders → 2025年8月30日付ブログで紹介済)」の場合、事件の舞台となるウェイド博物館(Wade Museum - 大富豪であるジェフリー・ウェイドが10年程前に開設した私立博物館で、中近東の陳列品(Oriental Art)を展示する他、初期の英国製馬車で、素晴らしい逸品も保存)は、クリーヴランドロウ(Cleveland Row → 2025年9月5日付ブログで紹介済)沿いに建っているが、裏口は別の通りに面している。


東京創元社から創元推理文庫として出版された
ジョン・ディクスン・カー作「アラビアンナイトの殺人」の表紙
(カバー:山田 維史)


「さてと、もうだいぶおそい時間だが、あの博物館へはいりこむ工夫はないものかね? むろんあの建物には、夜番かなにか、おいてあるにちがいあるまい」

「それはおりますよ。プルーンという老人でしてね、だいたいあの博物館が開かれるのは、週に二日間、それも夜間にかぎっていまして、午後の七時から十時までのあいだ、一般の参観をゆるしているのです。まあいわば、館長の気まぐれみたいなものですな。

 プルーンはその三時間を、館内の説明係として働いておりました。閉館になると、とたんに夜番の役に早変わりをするんです。もっとも、玄関から呼んだのでは、あの男を起こすわけには行きません。そのためには、裏口へまわることが肝心です - パーマー・ヤードの通りに面したほうですね」

 私は思い出しましたが、パーマー・ストリートというのは、セント・ジェイムズ・ストリートへ抜ける横町のことでして、その通りを、もっと先まで行きますと、クリーヴランド・ロウと平行に走るかっこうになるのでした。…

<宇野 利泰訳>



「パーマー・ストリート」と言う通りは、現在の住所表記上、存在しておらず、今だと、「リトルセントジェイムズストリート(Little St. James’s Street)」のことを指しているものと思われる。


北上するリトルセントジェイムズストリートの途中から
クリーヴランドロウを振り返ったところ

<筆者撮影>


事件の舞台となるウェイド博物館の裏口が面しているリトルセントジェイムズストリートは、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James’s)内にある。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
セントジェイムズ地区の地図を抜粋。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から西へ向かう通りは、ヘイマーケット通り(Haymarket)とパル・マル通り(Pall Mall → 2016年4月30日付ブログで紹介済)の2つに分かれる。


夕暮れが迫るパル・マル通り
<筆者撮影>


ヘイマーケット通りは北上して、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)へと至る。


セントジェイムズ宮殿の建物正面
<筆者撮影>


一方、パル・マル通りは更に西進して、進行方向左手にセントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)が見えたところで、セントジェイムズストリート(St. James’s Street → 2021年7月24日付ブログで紹介済)とクリーヴランドロウの2つに分かれる。


セントジェイムズストリートの西側から東側を見たところ -
画面右奥斜めに延びる通りは、ジャーミンストリート(Jermyn Street)
<筆者撮影>


セントジェイムズストリートは北上して、ピカデリーサーカスからハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)へと向かって西進するピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)に突き当たり、終わっている。


クリーヴランドロウの東端 -
画面手前を右へ行くと、セントジェイムズストリートへ、
そして、画面左手へ戻ると、パル・マル通りへと至る。
なお、画面左側に建っているのは、セントジェイムズ宮殿。
<筆者撮影>


クリーヴランドロウは、セントジェイムズ宮殿の前を通り、更に西へ進み、グリーンパーク(Green Park)の手前で終わっている。


北上するリトルセントジェイムズストリートを右折したところ
(この辺りに、ウェイド博物館の裏口があったと思われる)-
なお、画面奥に左右に延びる通りは、セントジェイムズストリート。
<筆者撮影>


リトルセントジェイムズストリートは、西進するクリーヴランドロウの途中から北上する通りで、直角に右折し、同通り名のまま東進して、最終的には、セントジェイムズストリートに突き当たり、終わっている。



北上するリトルセントジェイムズストリートを左折したところ -
画面奥へと延びるキャサリンホイールヤードの先は、行き止まりとなっている。
<筆者撮影>

クリーヴランドロウの途中から北上するリトルセントジェイムズストリートが直角に左折したところには、キャサリンホイールヤード(Catherine Wheel Yard)と言う路地が存在するが、その先は行き止まりである。