2017年12月3日日曜日

ロンドン ブリクストン地区(Brixton)

地下鉄ブリクストン駅(Brixton Tube Station)の入口

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。


元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel → 2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatre → 2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。


ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。


しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。

ブリクストンヒル通り(Brixton Hill)を北上する

ホームズの依頼に応じて、ワトスンは、ランベス地区(Lambeth)の水辺近くにあるピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane → 2017年10月28日付ブログで紹介済)に住む鳥の剥製屋シャーマン(Sherman)から、犬のトビー(Toby)を借り出す。そして、ホームズとワトスンの二人は、バーソロミュー・ショルトの殺害現場に残っていたクレオソートの臭いを手掛かりにして、トビーと一緒に、現場からロンドン市内を通り、犯人の逃走経路を追跡して行く。

ブリクストンヒル通りの西側に
ランベスタウンホール(Lambeth Town Hall)が見える

私達は、ストリーサム地区、ブリクストン地区やキャンバーウェル地区を横切り、オヴァールクリケット場の東側へ行く脇道を通り抜けて、ケニントンレーンへと達した。私達が追っている犯人の男達は、おそらく人目につかないようにと警戒して、奇妙なジグザクの経路を通っているようだった。並行した脇道がある場合には、彼らは決して幹線道路を通らないようにしていたのである。

ランベスタウンホール(その1)

We had traversed Streatham, Brixton, Camberwell, and now found ourselves in Kennington Lane, having borne away through the side-streets to the east of the Oval. The men whom we pursued seemed to have taken a curiously zig-zag road, with the idea probably of escaping observation. They had never kept to the main road if a parallel side-street would serve their turn.

ランベスタウンホール(その2)

ホームズとワトスンの二人が、犬のトビーと一緒に、ストリーサム地区(Streatham → 2017年12月2日付ブログで紹介済)の次に通ったのが、ブリクストン地区(Brixton)で、テムズ河(River Thames)の南岸にあるロンドン・ランベス地区(London Borough of Lambeth)内に所在している。

ブリクストンヒル通りの東側に建つ St. Matthew's Church

「ブリクストン(Brixton)」の名前は、「サクソン人の領主ブリックスィの石(the stone of Brixi, a Saxon lord)」をその起源としている。

ブリクストンヒル通りの東側に建つ映画館 Ritzy Picturehouse

ブリクストン地区は、ロンドン市内から英国南岸にある夏場の保養地ブライトン(Brighton)へと至る幹線道路沿いに位置している。ローマ時代よりロンディニウム(Londinium)と呼ばれたロンドン市内から英国南岸にある港町へと向かう幹線道路として発展して、現在、この道路がそのまま「A23」という主要道路となっている。

ここで、ブリクストンヒル通りから
ブリクストンロード(Brixton Road)へと名前が変わる−
ブリクストンロードの東側に地下鉄ブリクストン駅がある

ホームズとワトスンの二人は、犬のトビーの嗅覚を頼りに、バーソロミュー・ショルトの屋敷を出発して、彼を殺害した犯人達を追跡しつつ、ストリーサム地区、そして、ブリクストン地区へと北上し、テムズ河方面に向かっているのである。

ブリクストンロードの上を
高架鉄道の線路が横切っている

ブリクストン地区には、有名なストリートマーケットがあるが、主に住宅街で、様々な人種が住んでおり、カリブ海出身の人がその大部分を占めている。

2017年12月2日土曜日

ロンドン ストリーサム地区(Streatham)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。


元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel → 2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。


彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatre → 2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。


ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。


しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。


ホームズの依頼に応じて、ワトスンは、ランベス地区(Lambeth)の水辺近くにあるピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane → 2017年10月28日付ブログで紹介済)に住む鳥の剥製屋シャーマン(Sherman)から、犬のトビー(Toby)を借り出す。そして、ホームズとワトスンの二人は、バーソロミュー・ショルトの殺害現場に残っていたクレオソートの臭いを手掛かりにして、トビーと一緒に、現場からロンドン市内を通り、犯人の逃走経路を追跡して行く。


私達は、ストリーサム地区、ブリクストン地区やキャンバーウェル地区を横切り、オヴァールクリケット場の東側へ行く脇道を通り抜けて、ケニントンレーンへと達した。私達が追っている犯人の男達は、おそらく人目につかないようにと警戒して、奇妙なジグザクの経路を通っているようだった。並行した脇道がある場合には、彼らは決して幹線道路を通らないようにしていたのである。


We had traversed Streatham, Brixton, Camberwell, and now found ourselves in Kennington Lane, having borne away through the side-streets to the east of the Oval. The men whom we pursued seemed to have taken a curiously zig-zag road, with the idea probably of escaping observation. They had never kept to the main road if a parallel side-street would serve their turn.


ホームズとワトスンの二人が、犬のトビーと一緒に、最初に横切ったストリーサム地区(Streatham)は、テムズ河(River Thames)の南岸にあるロンドン・ランベス地区(London Borough of Lambeth)内に所在している。


「ストリーサム(Streatham)」は、「道沿いの村(the hamlet on the street)」を意味し、実際、ストリーサム地区は、ロンドン市内から英国南岸にある夏場の保養地ブライトン(Brighton)へと至る幹線道路沿いに位置している。
ローマ時代よりロンディニウム(Londinium)と呼ばれたロンドン市内から英国南岸にある港町へと向かう幹線道路として発展して、現在、この道路がそのまま「A23」という主要道路となっている。


1950年代、ストリーサム地区はロンドン南部で一番発展している商業地域で、1951年に英国で一番最初のスーパーマーケットが開店し、続いて、1955年にウェイトローズ(Waitorose)も同社最初の店舗を開いている(ただし、ウエイトローズの店舗は、1963年に閉店)。


その後、1970年代や1980年代を通じて、人口が他の場所へ移るのに伴って、ストリーサム地区のハイストリートは次第に衰退していく。そのため、2011年以降、公的資金等が投入されて、ストリーサム地区のハイストリートやハイストリート沿いの建物等の大改修工事が実施されている。

2017年11月26日日曜日

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手5-「六つのナポレオン像(The Six Napoleons)」

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手「六つのナポレオン像」が添付された絵葉書

5番目に、かつ、最後に紹介するシャーロック・ホームズ生還100周年記念切手は、「六つのナポレオン像(The Six Napoleons)」である。「六つのナポレオン像」は、56あるホームズシリーズの短編のうち、サー・アーサー・コナン・ドイルが32番目に発表した作品で、英国では「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1904年5月号に、また、米国では「コリアーズ ウィークリー(Collier's Weekly)」の1904年4月30日号に掲載された。その後、同作品は、1905年に出版された第3短編集となる「シャーロック・ホームズの帰還(The Return of Sherlock Holmes)」に収録されている。

「六つのナポレオン像」は、ある夜、スコットランドヤードのレストレイド警部(Inspector Lestrade)がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れるところから、物語が始まる。

最近、ロンドンの街中で何者かが画廊や住居等に押し入って、ナポレオンの石膏胸像を壊してまわっていたのだ。そのため、レストレイド警部はホームズのところへ相談に来たのである。最初の事件は、4日前にモース・ハドソン氏(Mr Morse Hudson)がテムズ河(River Thames)の南側にあるケニントンロード(Kennington Road → 2016年6月11日付ブログで紹介済)で経営している画廊で、そして、2番目の事件は、昨夜、バーニコット博士(Dr Barnicot)の住まい(ケニントンロード)と診療所(ロウワーブリクストンロード(Lower Brixton Road → 2017年7月30日付ブログで紹介済))で発生していた。続いて、3番目の事件がケンジントン地区(Kensington)のピットストリート131番地(131 Pitt Street → 2016年6月18日付ブログで紹介済)にあるセントラル通信社(Central Press Syndicate)の新聞記者ホーレス・ハーカー氏(Mr Horace Harker)の自宅で起きたのであった。4体目の石膏胸像が狙われた上に、今回は殺人事件にまで発展したのだ。

ステップニー地区(Stepney)のチャーチストリート(Church Street→2016年7月16日付ブログで紹介済)にあるゲルダー社(Gelder and Co.)を訪れたホームズとジョン・ワトスンは、ナポレオンの石膏胸像が全部で6体制作され、3体がケニントンロードのモース・ハドソン氏の画廊へ、そして、残りの3体はケンジントンハイストリート(Kensington High Street → 2016年7月9日付ブログで紹介済)のハーディングブラザーズ(Harding Brothers)の店へ送られたことを聞き出す。モース・ハドソン氏の画廊へ送られた3体は、全て何者かによって壊されたため、ホームズとワトスンはハーディングブラザーズの店へ出向き、ホーレス・ハーカー氏が購入した1体を除く残りの2体の行方について尋ねたのであった。

ステップニー地区にあるゲルダー社が制作した6体のナポレオン像のうち、4体までが謎の侵入者によって粉々に破壊されてしまう。
残った2体の所有者の一人であるチズウィック(Chiswick → 2016年7月23日付ブログで紹介済)のラバーナム荘(Laburnum Villa)に住むジョサイア・ブラウン氏(Mr Josiah Brown)宅近くに張り込んでいたホームズ、ジョン・H・ワトスンとレストレイド警部の三人は、同宅から石膏鏡像を盗んで出て来た犯人を取り押さえることに成功する。ただし、組み合う最中に、胸像は粉々に砕けてしまった。
翌日、残りの1体の所有者であるレディング(Reading)に住むサンドフォード氏(Mr Sandeford)から10ポンドという高額で石膏胸像を買い取ったホームズは、サンドフォード氏を帰した後、ワトスンとレストレイド警部の目の前で、テーブルの上に置いた胸像に対して、狩猟用鞭で鋭い一撃を加える。

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手
「六つのナポレオン像」のアップ写真

記念切手には、物語の終盤、テーブルの上で粉々になったナポレオン胸像の破片の中から、ホームズが丸く黒い物体を取り出して、ワトスンとレストレイド警部の二人に、「これは、以前、ダクレホテル(Dacre Hotel)のコロンナ王子(Prince of Colonne)の寝室から盗まれたボルジア家の黒真珠(black pearl of the Borgias)だ。」と告げるシーンが描かれている。

2017年11月25日土曜日

フランクフルト ゲーテハウス / ゲーテ博物館(Goethe Haus / Goethe Museum)-その2


1年強の学業を終えて、1771年8月、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe:1749年ー1832年)は故郷に戻ったものの、フランクフルト市の役所の仕事に就けなかったので、弁護士の資格を取り、弁護士事務所を開設。ただ、彼は次第に仕事への興味を失って、文学活動に没頭するようになった。そのため、息子を心配した父親によって、彼は最高裁判所があったヴェッツラーへと送られ、法学を再習得することになった。これが、彼が生家を離れる4回目となる。




1772年4月にヴェッツラーに到着したヨハンであったが、法学の再習得ではなく、父親の目が届かない遠隔地で、文学にまた熱中するようになる。そして、同年6月、ヴェッツラー郊外で開催された舞踏会において、彼は19歳のシャルロッテ・ブッツに出会い、恋に落ちるが、友人のヨハン・クリスティアン・ケストナーの婚約者であることを知る。報われぬ恋に絶望したヨハンは、同年9月、ヴェッツラーを去るのであった。




故郷に戻ったヨハンは、弁護士事務所を再開するも、シャルロッテのことを忘れられず、ヴェッツラーでの体験をベースにした書簡体小説「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers)」を1774年9月に出版すると、若者を中心にして熱狂的な読者を集め、一躍ドイツだけではなく、ヨーロッパ中に彼の名前が知れ渡るようになった。同年12月、後に彼を自国のヴァイマル公国に招くことになるカール・アウグスト公が、パリへの旅行の途上、フランクフルトの彼を訪問している。




そして、1775年11月、ヨハンはカール・アウグスト公の招きを受けて、故郷フランクフルトを離れ、ヴァイマル公国へと移り、その後永住することになる。こうして、この生家は、ヨハンが生まれた1749年から1775年までの青春時代をやや断続的ではあるが、ずーっと見つめてきたのである。




ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの生家は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中に全壊するが、その後、完全に復元されて、そこで彼の肖像画、直筆の原稿や彼が愛用した所縁の品々等を見ることができる。

2017年11月19日日曜日

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手4-「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskerville)」

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手「バスカヴィル家の犬」が添付された絵葉書

4番目に紹介するシャーロック・ホームズ生還100周年記念切手は、「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskerville)」である。「バスカヴィル家の犬」は、4つあるホームズシリーズの長編のうち、サー・アーサー・コナン・ドイルが3番目に発表した作品で、英国では「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1901年8月号から1902年4月号に渡って連載され、1902年に出版されている。

コナン・ドイルによる作品発表順でいくと、「バスカヴィル家の犬」は「最後の事件(The Final Problem→2017年11月12日付ブログで紹介済)」(「ストランドマガジン」の1893年12月号に掲載→事件発生年月:1891年4月)と「空き家の冒険(The Emputy House)」(「ストランドマガジン」の1903年10月号に掲載→事件発生年月:1894年4月)の間に該るが、事件発生年で言うと、「バスカヴィル家の犬」は「最後の事件」の発生年である1891年よりも前に設定されており、犯罪界のナポレオンこと、ジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と一緒に、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝壺(Reichenbach Falls)へと姿を消したホームズが「空き家の冒険」以前に一旦生還した訳ではない。
なお、コナン・ドイルが「バスカヴィル家の犬」を執筆した詳細な経緯については、2014年6月4日付ブログを御参照いただきたい。

長編が4、そして、短編が56あるホームズシリーズの中でも、「バスカヴィル家の犬」は最も人気が高い作品である。また、デヴォン州(Devon)南部に広がる荒野ダートムーア(Dartmoor)の景観や「火を吐く魔犬」という題材等が好まれて、ホームズシリーズ中、映像化された回数は突出して多い。

物語の終盤、メリピットハウス(Merripit House)において、昆虫学者のジャック・ステイプルトン(Jack Stapleton)と夕食を共にしたサー・ヘンリー・バスカヴィル(Sir Henry Baskerville)は、霧が深く立ち込めるダートムーアを歩いて、バスカヴィル館(Baskerville Hall)へと戻ろうとする。そこに伝説の魔犬が姿を現して、サー・ヘンリー・バスカヴィルの命を狙おうとする。彼の行動を遠巻きに見守っていたホームズ、ジョン・H・ワトスンとスコットランドヤードのレストレイド警部(Inspector Lestrade)の三人は、彼を救うべく、現場へと駆け付ける。

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手
「バスカヴィル家の犬」のアップ写真

記念切手は、サー・ヘンリー・バスカヴィルに襲いかかろうと後ろ足で立ち上がる伝説の魔犬に向かって、ホームズが拳銃を発砲するシーンが、非常に印象的に描かれている。画面手前から画面奥へ向かって、サー・ヘンリー・バスカヴィル、伝説の魔犬、そして、拳銃を発砲するシャーロック・ホームズという順番である。

記念切手に描かれたシーンはとても活劇的ではあるが、コナン・ドイルによる原作によると、実際には、伝説の魔犬がサー・ヘンリー・バスカヴィルを地面に引き倒して、彼の喉元に噛み付いた時、現場に駆け付けたホームズが5発の銃弾全てを魔犬の腹に打ち込んでおり、記念切手に描かれたシーン程には派手な場面にはなっていない。


2017年11月18日土曜日

フランクフルト ゲーテハウス / ゲーテ博物館(Goethe Haus / Goethe Museum)-その1


ドイツを代表する文豪であるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe:1749年ー1832年)は、1749年8月28日、ドイツ中部フランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main)の裕福な家庭の長男として出生する。彼の生家は、現在、「ゲーテハウス(Goethe Haus)」と呼ばれ、ゲーテ博物館(Goethe Museum)になっている。


Uバーン(U Bahn)のヴィリー・ブラント・プラッツ駅(Willy-Brandt-Platz)で下車して、少し北上したところにカイザー広場(Kaiserplatz)があり、その広場の少し東側に南北へ延びるグロッサー・ヒルシュグラーベン(Grosser Hirschgraben)の23ー25番地の建物(Grosser Hirschgraben 23 - 25)がそれである。



ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、1749年8月28日、ヨハン・カスパー・ゲーテを父親に、エリーザベト・ゲーテを母親にして、グロッサー・ヒルシュグラーベン23ー25番地に生まれる。
彼の祖父は、フランスで仕立て職人として修行を積んだ後、フランクフルト市内で旅館の経営と葡萄酒の取引で大成功を納めて、財を成した。次男であった彼の父は、大学を卒業した後、フランクフルト市の要職に就けず、文物の蒐集に没頭していたが、彼の祖父が成した財のため、生活には困らなかった。
また、彼の母親の実家は代々法律家を務め、更に、母方の祖父はフランクフルト市長に就いており、所謂、名門の家系であった。



彼の父親は、彼ヨハンと彼の姉コルネーリアの教育に熱心で、幼少期より彼らの教育に力を入れた。
3歳の時に、彼は私立の幼稚園に入り、読み書きや算数等の初等教育を受ける。そして、5歳から寄宿制の初等学校に通うため、一旦、フランクフルトの生家を離れるが、7歳の時に、天然痘に罹患して生家に戻った。その後、彼の父親が家庭教師を呼び、生家において、語学、図画、カリグラフィー、楽器演奏やダンス等を彼に学ばせた。その結果、英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語およびヘブライ語を、彼は少年時代に習得したのである。



その後、16歳になった1765年、父親の意向を受けて、彼は故郷フランクフルトを出て、ライプツィヒ大学法学部に入学。これが、彼が生家を離れる2回目となる。彼は3年程大学に通うものの、病気(結核と思われる)のため、退学を余儀なくされ、故郷へ戻り、1年半程生家で療養する。
そして、1770年、父親の薦めもあって、彼はフランス領のストラスブルグ大学に入学する。これが、彼が生家を離れる3回目となる。