2017年8月12日土曜日

「四つの署名(The Sign of the Four)」

ロンドンの Metro Media Ltd. から
Self Made Hero シリーズの一つとして出版されているグラフィックノベルの
シャーロック・ホームズシリーズ「四つの署名」の表紙

サー・アーサー・イグナチウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)は、シャーロック・ホームズの長編小説の一つで、第1作の「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)に続く第2作に該る。

ロンドンの Metro Media Ltd. から
Self Made Hero シリーズの一つとして出版されているグラフィックノベルの
シャーロック・ホームズシリーズ「四つの署名」の裏表紙

1889年8月30日、ロンドン市内のオックスフォードサーカス(Oxford Circus→2015年4月26日付ブログで紹介済)の近くに建つランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)において、以下のアイリッシュ系の男性3人が食事会を行った。

(1)米国のフィラデルフィアに本社を構える「リピンコット・マンスリー・マガジン(Lippincott’s Monthly Magazine)」のエージェントであるジョーゼフ・マーシャル・ストッダート博士(Dr. Joseph Marshall Stoddart→アイルランド生まれの米国人)
(2)新進気鋭の若い作家として売り出し中のオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年→ダブリンの名門に生まれた生粋のアイルランド人)
(3)サー・アーサー・イグナチウス・コナン・ドイル(→アイルランドの血をひくスコットランド人)

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 

この食事会で、ストッダート博士は、オスカー・ワイルドとコナン・ドイルの2人から、それぞれ長編物を一作同誌に寄稿する約束を取り付けた。

コナン・ドイルは早速執筆に取り掛かり、約1ヶ月間で原稿を書き上げて、それをストッダート博士宛に送付。その作品のタイトルが「四つの署名」である。事件の依頼人であるメアリー・モースタン嬢(Mary Morstan)の父親で、約10年前の1878年12月、インドから帰国した後、行方不明になったアーサー・モースタン大尉(Captain Arthur Morstan)の宿泊先として、コナン・ドイル達が食事会を行なったランガムホテルが使用された。

本グラフィックノベルの構成は、Mr. Ian Edginton

「四つの署名」は、「リピンコット・マンスリー・マガジン」の1890年2月号に掲載されたが、続いて、同誌の1890年7月号に掲載されたオスカー・ワイルドの作品は、あの有名な「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)」であった。
なお、コナン・ドイルの原稿料は、4万5千語の作品で100ポンドだったが、当時、英国の世紀末文学の旗手として期待されていたオスカー・ワイルドの原稿料は、コナン・ドイルの倍の200ポンドだった、とのこと。コナン・ドイルが「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1891年7月号にホームズシリーズの短編小説「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」を発表して爆発的な人気を得る前のことであり、残念ながら、売れっ子のオスカー・ワイルドとは、それ位の開きがあったのである。

本グラフィックノベルの作画は、Mr. I. N. J. Culbard

コナン・ドイルは、当初、作品の題名として「四つの署名」と「ショルト家の問題」という2つの候補を考えていて、「リピンコット・マンスリー・マガジン」のストッダート博士に最終判断を委ねた。同誌の1890年2月号に掲載された際には、2つの候補を使用した「四つの署名、あるいは、ショルト家の問題(The Sign of the Four, or, The Problem of the Sholtos)」という題名が採用された。
その後、1890年10月に英国のスペンサー・ブラケット社(Spencer Blackett)から「四つの署名」が出版された際には、「The Sign of the Four」から「Four」の前の冠詞「the」が省かれた「The Sign of Four」が作品の題名として使用され、以降、主要な出版社はそれに倣っている。

日本語版の題名は、新潮社が最初に出版した日本語訳版の「四つの署名」が一般に定着しているが、原題に即したタイトルとして、河出書房新社では「四つのサイン」を、また、東京創元社では「四人の署名」という題名を採用している。

2017年8月6日日曜日

ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill)ーその2

1909年当時、通商大臣だったウィンストン・チャーチルが新婚時代に住んでいた物件が
ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の
ピムリコ地区(Pimlico)内に所在している

アガサ・クリスティー作「複数の時計(The Clocks)」(1963年)は、エルキュール・ポワロシリーズの長編で、今回、ポワロは殺人事件の現場へは赴かず、また、殺人事件の容疑者や証人への尋問も直接は行わないで、ロンドンにある自分のフラットに居ながらにして(=完全な安楽椅子探偵として)、事件の謎を解決するのである。

ウィンストン・チャーチルは、
彼の新婚時代(1909年ー1913年)に
この物件に住んでいた

TV版のポワロシリーズ「複数の時計」(2011年)が時代設定を置いている第二次世界大戦(1939年ー1945年)勃発前の1937年5月、ジョーゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain:1836年ー1914年)の子供であるアーサー・ネヴィル・チェンバレン(Arthur Neville Chamberlain:1869年ー1940年→2017年7月16日付ブログで紹介済)が保守党の党首に就任して、チェンバレン内閣(1937年ー1940年)を組閣するものの、ウィンストン・チャーチルは「閣議の和を乱す危険分子」と見做され、入閣の道は開かれなかった。

この頃、英国やフランス等が、軍事増強と領土の拡大を推し進めるドイツやイタリア等との間で、政治的な緊張を増していた時期で、独自のルートを通じ、ウィンストン・チャーチルは情報を得て、ドイツの領土的野心への警戒を強めていた。
ヒトラー総統が率いるドイツは、ドイツ系住民が多数を占める地域の割譲を要求し始めており、1938年3月、ドイツ民族国家のオーストリアを併合。ドイツやイタリアに宥和政策を行う首相のアーサー・ネヴィル・チェンバレンは許容範囲内と見做したが、ウィンストン・チャーチルはこれを良しとせず、ヒトラーによるオーストリア併合を批判する演説を展開。
更に、ヒトラーは、同じくドイツ系住民が多数を占めていたチェコスロヴァキアのズデーデン地方の割譲を要求。首相のネヴィル・チェンバレンはドイツのバイエルン州にあるヒトラーの別荘へ直接赴いて、彼を説得しようとしたが、逆に説き伏せられてしまい、結局、英国、フランス、ドイツおよびイタリアによるミュンヘン協定(1938年9月29日)に基づき、「これ以上の領土要求を行わない。」という約束をヒトラーと交わす代償として、ズデーデン地方をドイツに帰属させることを全面的に認めてしまった。これに反対するウィンストン・チャーチルとチャーチル派の議員は、抗議の意思を明確にするため、ミュンヘン協定の批准会議を欠席した。
ネヴィル・チェンバレンの宥和政策にもかかわらず、チェコスロヴァキアの内紛に伴い、チェコとスロヴァキアに分離した状況につけ込んで、1939年3月にドイツはチェコを併合。ここまで事態が至って、やっと政界や世論にも、ネヴィル・チェンバレンによる宥和政策は失敗だったという認識が強まった。

ウィンストン・チャーチルが
新婚時代に住んでいた物件は、
ピムリコ地区の高級住宅エリア内にある

1939年8月23日にソビエト連邦との間に独ソ不可侵条約を締結したドイツは、間髪をおかず、同年9月1日、ポーランドへの侵攻を開始。内閣閣僚から対独開戦を強く要求された首相のネヴィル・チェンバレンもこれ以上抗しきれず、その2日後の9月3日、ドイツに宣戦を布告し、これにフランスも呼応することになり、ここに第二次世界大戦が勃発した。
「閣議の和を乱す危険分子」のウィンストン・チャーチルではあったが、対独強硬派である彼をこれ以上無視することができなくなった首相のネヴィル・チェンバレンは彼を海軍大臣に任じ、同年9月、ウィンストン・チャーチルは海軍大臣執務室に復帰した。
ウィンストン・チャーチルは海軍大臣として大戦を指導するが、状況は一進一退で、1940年4月、英国はドイツ軍のノルウェー作戦阻止に失敗して惨敗するが、この惨敗の責任は首相のネヴィル・チェンバレンに帰せられた。そして、同年5月10日、ドイツ軍がベネルクス3国(オランダ、ベルギーとルクセンブルク)へと侵攻の矛先を転じると、ネヴィル・チェンバレンは責任をとって首相を辞任して、後任には主戦派であるウィンストン・チャーチルが保守党や労働党等を含む挙国一致内閣を組閣して、その後の大戦を指導することになった。

ウィンストン・チャーチルが新婚時代に住んでいた物件は、
エクルストンスクエア(Eccleston Square)に面している

ここまでが、TV版のポワロシリーズ「複数の時計」における時代設定の状況と第二次世界大戦へと至る経緯を、アーサー・ネヴィル・チェンバレンとウィンストン・チャーチルを中心にして纏めたものである。

2017年8月5日土曜日

ロンドン モンタギュープレイス23番地(23 Montague Place)


サー・アーサー・イグナチウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)は、シャーロック・ホームズシリーズ最初の長編「緋色の研究(A Studay in Scarlet)」(「ビートンのクリスマス年鑑(Beeton’s Christmas Annual)」)(1887年11月)に掲載→2016年7月30日付ブログで紹介済)を執筆した後、1889年8月に米国のフィラデルフィアに本社を構えるJ. B. リピンコット社からの依頼を受けて、同シリーズ第2作目の長編「四つの署名(The Sign of the Four)」を執筆し、同作品は1890年2月に出版された「リピンコット・マンスリー・マガジン(Lippincott's Monthly Magazine)」に掲載された。(「四つの署名」執筆の経緯については、2014年7月6日付ブログ「ロンドン ランガムホテル(Langham Hotel)」を御参照。)


「四つの署名」が「リピンコット・マンスリー・マガジン」に掲載されたその年(1890年)の8月に、ドイツのベルリンで開催された国際医学会議において、ロベルト・コッホが新しい結核治療法を発表した。コッホの発表に興味を抱いたコナン・ドイルはコッホに会うべく、直ちにベルリンへと向かった。ベルリン行きの列車内で、コナン・ドイルはロンドンで成功をおさめていた皮膚科の専門医モリルに出会い、彼から GP(一般開業医)ではなく、眼科専門医への転身を説得された。

モンタギュープレイスの東側(その1)ー
奥に見えるのがラッセルスクエア、
右側の建物が大英博物館、左側の建物がロンドン大学

モンタギュープレイスの東側(その2)

モンタギュープレイスの東側(その3)

コッホとの面会は叶わなかったものの、ベルリン滞在中に眼科専門医になることを思い立ったコナン・ドイルは、1890年11月にポーツマス(Portsmouth→2016年9月17日付ブログで紹介済)近郊のサウスシー(Southsea)に戻ると、開業していた個人診療所を閉鎖する。そして、1891年1月に、妻のルイーズ・ホーキンズを伴って、彼はオーストリアのウィーンへ移住し、眼科専門医になるための勉強を始めた。しかし、専門的な授業についていけるだけのドイツ語能力がコナン・ドイルには絶対的に不足していたため、彼は直ぐに授業についていけなくなり、眼科専門医になることを断念せざるを得なかった。彼は当初の予定を切り上げて、1891年3月末にロンドンに帰国すると、モンタギュープレイス23番地(23 Montague Place)の邸宅を居住の地として、アッパーウィンポールストリート2番地(2 Upper Wimpole Street→2014年5月18日付ブログで紹介済)において無資格の眼科医を始めたのである。


オーストリアのウィーンからロンドンに戻ったコナン・ドイル一家が居住の地として定めたモンタギュープレイス(Montague Place→2015年2月21日付ブログで紹介済)は、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在している。ブルームズベリー地区は、19世紀から20世紀にかけて、多くの芸術家や学者等が住む文教地区として発展してきた街である。

モンタギュープレイスの西側ー
奥に見えるのがベッドフォードスクエア

モンタギュープレイスは、東側のラッセルスクエア(Russel Square)から始まり、西側のベッドフォードスクエア(Bedford Square)で終わる約500mの通りである。また、通りの北側にはロンドン大学(University of London→2016年8月6日付ブログで紹介済)が、そして、南側には大英博物館(British Museum→2014年5月26日付ブログで紹介済)があり、現在、通りの両側で住居になっているところは、ベッドフォードスクエアに近い場所のみで、住所表記上、モンタギュープレイス23番地に該当する住居は残っていない。



アッパーウィンポールストリート2番地で無資格の眼科医を始めたコナン・ドイルではあったが、ロンドン、特にアッパーウィンポールストリートの一本東側にあるハーリーストリート(Harley Street→2015年4月11日付ブログで紹介済)には、資格を有する眼科医が大勢開業していたため、無資格の眼科医である彼に診察してもらおうと考える患者が現れることはなかった。コナン・ドイルは、現れる筈がない患者を待つ暇な時間を利用して、小説の執筆に励んだ。結局、彼は患者が全く来ない眼科診療所を閉鎖する羽目となり、執筆業一本に専念することになる。アッパーウィンポールストリート2番地の診療所を閉鎖すると、コナン・ドイル一家はモンタギュープレイス23番地の邸宅も引き払って、サウスノーウッド(South Noorwood)郊外のテニスンロード12番地(12 Tenison Road)へと移住した。

ベッドフォードスクエア側から見たモンタギュープレイス

「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」にホームズシリーズの短編小説が掲載されて、爆発的な人気を得るまでには、あと数ヶ月の時が必要であった。

2017年7月30日日曜日

ロンドン ロウワーブリクストンロード(Lower Brixton Road)

ブリクストンロードの上を通る鉄道高架

サー・アーサー・コナン・ドイル作「六つのナポレオン(The Six Napoleons)」において、ある夜、スコットランドヤードのレストレイド警部(Inspector Lestrade)がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れる。ここのところ、ロンドンの街中で何者かが画廊、住居や診療所に押し入って、ナポレオンの石膏胸像を壊してまわっていたのだ。そのため、レストレイド警部は、ホームズのところに相談に来たのである。

地下鉄ブリクストン駅の外観(その1)

最初の事件は4日前で、テムズ河(River Thames)の南側にあるケニントンロード(Kennington Road → 2016年6月11日付ブログで紹介済)で画廊を経営しているモース・ハドソン氏(Mr Mose Hudson)の店で発生していた。そして、レストレイド警部は、2番目の事件に関する説明に移った。

地下鉄ブリクストン駅の外観(その2)

「しかしながら、2番目の事件はもっと深刻で、かつ奇妙なものでした。それは、昨夜起きたばかりです。」
「ケニントンロード沿いで、モース・ハドソンの画廊から数百ヤード以内のところに、バーニコット博士という非常に有名な開業医が住んでいます。彼はテムズ河の南側で最も流行っている医者の一人です。彼の住まいと主診療室はケニントンロードにありますが、診療所兼薬局の分室は、2マイル離れたロウワーブリクストンロードにあります。バーニコット博士はナポレオンの熱狂的な崇拝者で、彼の住まいはナポレオンの本、絵画や記念品で一杯です。少し前ですが、彼はモース・ハドソンからフランスの彫刻家ドゥヴィーヌ作の有名なナポレオン頭部彫刻の複製石膏像を2個購入しました。その一つをケニントンロードの住まいのホールに置き、もう一つをロウワーブリクストンロードの診療所の暖炉の上に置きました。…」
ホームズは両手を擦り合わせた。
「これは、確かに非常に目新しいね。」と、彼は言った。
「あなたが喜ぶだろうと思っていました。しかし、話はまだ終わっていませんよ。バーニコット博士は12時に分室の診療所での予約がありました。彼が診療所に到着すると、夜の間に窓が抉じ開けられ、2つ目の胸像が粉々になって、部屋中に散らばっているのを発見したのです。その際、彼がどんなに驚いたのか、想像がつくでしょう。石膏像は、置いてあった場所で粉々になっていました。どちらの事件でも、この犯行を行った犯罪者か、あるいは、精神異常者の手掛かりとなる痕跡は、何もありませんでした。さあ、ホームズさん、事実関係の説明は、これで全てです。」

ブリクストンロードの南端

‘The second case, however, was more serious and also more singular. It occurred only last night.
‘In Kennington Road, and within a few hundred yards of Mose Hudson’s shop, there lives a well-known medical practitioner, named Dr Barnicot, who has one of the largest practices upon the south side of the Thames. His residence and principal consulting-room is at Kennington Road, but he has a branch surgery and dispensary at Lower Brixton Road, two miles away. This Dr Barnicot is an enthusiastic admirer of Napoleon, and his house is full of books, pictures, and relics of the French Emperor. Some little time ago he purchased from Mose Hudson two duplicate plaster casts of the famous head of Napoleon by the French sculptor, Devine. One of these he placed in his hall in the house at Kennington Road, and other on the mantelpiece of the surgery at Lower Brixton Road, … ‘
Holmes rubbed his hands.
‘This is certainly very novel,’ said he.
‘I thought it would please you. But I have not got to the end yet. Dr Barnicot was due at his surgery at twelve o’clock and you can imagine his amazement when, on arriving there, he found that the window had been opened in the night, and that the broken pieces of his second bust were strewn all over the room. It had been smashed to atoms where it stood. In neither case were there any signs which could give us a clue as to the criminal or lunatic who had done the mischief. Now, Mr Holmes, you have got the facts.’


バーニコット博士(Dr Barnicot)がモース・ハドソン氏の画廊から購入したナポレオンの石膏胸像2個のうちの1つが置かれていた診療所はロウワーブリクストンロード(Lower Brixton Road)にあるが、この通りは架空の通りである。
その代わり、ブリクストンロード(Brixton Road)は実在する。ブリクストンロードは、ロンドン・ランベス区(London Borough of Lambeth)内を南北に走る大通りで、北はケニントンパーク(Kennington Park)から始まって、南は地下鉄ブリクストン駅(Brixton Tube Station)で終わり、そこからブリクストンヒル通り(Brixton Hill)と名前が変わる。

ブリクストンロードが
ブリクストンヒル通りへと変わったところ

モース・ハドソン氏が経営する画廊やバーニコット博士の自宅と主診療室があるケニントンロードについては、以前に紹介したが、このケニントンロードはケニントンパークロード(Kennington Park Road)に突き当たり、ケニントンパークに沿いつつ、同じ通りになった後、ケニントンパークの南側で再び2つに分かれ、ブリクストンロードへと名前を変え、南へ延びている。
ブリクストンロードの存在はローマ時代まで遡り、当時よりロンドンから英国南部海岸に面する保養地ブライトン(Brighton)へと至る行程の一部を成していたそうである。

2017年7月23日日曜日

ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill)ーその1

パーラメントスクエア(Parliament Square)内に建つウィンストン・チャーチルのブロンズ像(その1)

アガサ・クリスティー作「複数の時計(The Clocks)」(1963年)は、エルキュール・ポワロシリーズの長編で、今回、ポワロは殺人事件の現場へは赴かず、また、殺人事件の容疑者や証人への尋問も直接は行わないで、ロンドンにある自分のフラットに居ながらにして(=完全な安楽椅子探偵として)、事件の謎を解決するのである。

ウィンストン・チャーチルのブロンズ像(その2)

キャサリン・マーティンデール(Miss Katherine Martindale)が所長を勤めるキャヴェンディッシュ秘書紹介所(Cavendish Secretarial Bureau)から派遣された速記タイピストのシーラ・ウェッブ(Sheila Webb)は、ウィルブラームクレッセント通り19番地(19 Wilbraham Crescent)へと急いでいた。シーラ・ウェッブが電話で指示された部屋(居間)へ入ると、彼女はそこで身なりの立派な男性の死体を発見する。男性の死体の周囲には、6つの時計が置かれており、そのうちの4つが何故か午後4時13分を指していた。鳩時計が午後3時を告げた時、ウィルブラームクレッセント19番地の住人で、目の不自由な女教師ミリセント・ペブマーシュ(Miss Millicent Pebmarsh)が帰宅する。自宅内の異変を感じたミリセント・ペブマーシュが男性の死体へと近づこうとした際、シーラ・ウェッブは悲鳴を上げながら、表へと飛び出した。そして、彼女は、ちょうどそこに通りかかった青年コリン・ラム(Colin Lamb)の腕の中に飛び込むことになった。
実は、コリン・ラム青年は、警察の公安部員(Special Branch agent)で、何者かに殺された同僚のポケット内にあったメモ用紙に書かれていた「M」という文字、「61」という数字、そして、「三日月」の絵から、ウィルブラームクレッセント19番地が何か関係して入るものと考え、付近を調査していたのである。「M」を逆さまにすると、「W」になり、「ウィルブラーム」の頭文字になる。「三日月」は「クレッセント」であり、「61」を逆さまにすると、「19」となる。3つを繋げると、「ウィルブラームクレッセント通り19番地」を意味する。

ビッグベン(Big Ben)ーその1

クローディン警察署のディック・ハードキャッスル警部(Inspector Dick Hardcastle)が本事件を担当することになった。
シーラ・ウェッブは、ミリセント・ペブマーシュの家へ今までに一度も行ったことがないと言う。また、ミリセント・ペブマーシュは、キャヴェンディッシュ秘書紹介所に対して、シーラ・ウェッブを名指しで仕事を依頼する電話をかけた覚えはないと答える。更に、シーラ・ウェッブとミリセント・ペブマーシュの二人は、ウィルブラームクレッセント通り19番地の居間で死体となって発見された男性について、全く覚えがないと証言するのであった。
ミリセント・ペブマーシュの居間においてキッチンナイフで刺されて見つかった身元不明の死体は「R.・H・カリイ(R. H. Curry)」とされたが、スコットランドヤードの捜査の結果、全くの偽名であることが判明し、身元不明へと逆戻りする。彼が目の不自由な老婦人の居間で刺殺される理由について、スコットランドヤードも、そして、コリン・ラムも、皆目見当がつかなかった。途方に暮れたコリン・ラムは、ポワロに助けを求める。年若き友人からの頼みを受けて、ポワロの灰色の脳細胞が事件の真相を解き明かす。

ウィンストン・チャーチルのブロンズ像(その3)

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie’s Poirot」の「複数の時計」(2011年)では、アガサ・クリスティーの原作とは異なり、ウィルブラームクレッセント62番地の住人がラムジィ夫妻(Mr and Mrs Ramsay)と息子2人から(フランスの武器製造会社と取引がある会社に勤める)クリストファー・マバット(Christopher Mabbutt)と娘2人に変更された。
時代背景についても、アガサ・クリスティーの原作では、第二次世界大戦(1939年ー1945年)後の米ソ冷戦状態をベースにしているが、TV版の場合、他のシリーズ作品と同様に、第一次世界大戦(1914年ー1918年)と第二次世界大戦の間、それも、第二次世界大戦開戦間近という設定が行われている。そのため、英国の仮想敵国を原作のソビエト連邦からアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツへと変更している。
そして、物語のサブプロットとして、クリストファー・マバットがドイツ側に英国の機密情報を渡すスパイの一人であることが物語の終盤に判明し、MI6 の秘密情報部員(intelligence officer)であるコリン・レイス大尉(Liteunant Colin Raceーアガサ・クリスティーの原作では、警察の公安部員であるコリン・ラム)が率いるチームによって、クリストファー・マバットは会社を出てフランスへと赴く直前に逮捕される。コリン・レイス大尉による取り調べを受ける中、クリストファー・マバットは、次のように述べる。

ビッグベン(Big Ben)ーその2

「我々は英国の愛国者だからこそ、ヒトラーに英国の機密情報を渡すのだ。もしチェンバレンの宥和政策が続かず、(主戦派の)チャーチルのような輩が権力に就いた場合、我々は前の対戦(=第一次世界大戦)より100倍もひどい戦争に引き込まれることになるからだ。」

‘We are patriots who pass information to Hitler, because if Chamberlain’s policy of appeasement doesn’t hold and someone like Churchill gets his hands on power, we will be dragged into a war 100 times worse than the last one.’

ウィンストン・チャーチルのブロンズ像(その4)

クリストファー・マバットが言うチャーチルとは、英国の政治家、軍人、従軍記者、作家であるウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill:1874年ー1965年)のことである。おそらく、英国で最も有名な人物は、コナン・ドイルが創り出したシャーロック・ホームズであるが、実在の人物だけに限ると、ウィンストン・チャーチルがその人に該ると思われる。

ビッグベン(Big Ben)ーその3

ウィンストン・チャーチルは、1874年、保守党の政治家でもあった第7代マールバラ公爵ジョン・ウィンストン・スペンサー=チャーチル(John Winston Spencer-Churchill, 7th Duke of Marlborough:1822年ー1883年)を祖父に、また、同じく保守党の政治家だったランドルフ・ヘンリー・スペンサー=チャーチル卿(Lord Randolph Henry Spencer-Churchill:1849年ー1895年→卿と呼ばれているが、三男のため、身分は平民)を父にして出生。
サンドハースト王立陸軍士官学校で軽騎兵連隊に所属して、第二次ボーア戦争(Second Anglo-Boer War:1899年ー1902年)等に従軍。
1900年の総選挙において、オールダム選挙区から保守党候補として立候補し、初当選するが、植民地大臣(1895年ー1903年)だったジョーゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain:1836年ー1914年)が唱える保護貿易主義に対して、自由貿易主義者のウィンストン・チャーチルは反発して、1904年に保守党から自由党へ移籍。
移籍した自由党において、ウィンストン・チャーチルは通商大臣や内務大臣を務め、失業保険制度等の社会改良政策に尽力するものの、暴動やストライキ運動に直面することになり、社会主義への警戒を強める。第一次世界大戦(1914年ー1918年)前から海軍大臣(1911年ー1915年)を務め、対戦時には戦争を指導するが、アントワープ等で惨敗を喫して辞任。その後も、軍需大臣(1917年ー1919年)、航空大臣(1919年ー1921年)や戦争大臣(1919年ー1921年)に就任し、ロシア革命に端を発する共産主義の台頭を阻止しようとしたが、干渉戦争を快く思わない内閣上層部から植民地大臣(1921年ー1922年)への転任を命じられる。最終的には、反共産主義の立場を強めたウィンストン・チャーチルは自由党を離党し、1924年に保守党に復党する。
保守党に復帰したウィンストン・チャーチルは、大蔵大臣(1924年ー1929年)に就任するが、米国や日本が新興国として世界へ進出してくる中、英国の貿易が弱体化し、金本位制への復帰失敗もあって、英国の政権は保守党かた労働党へと移行する。その結果、保守党、そして、ウィンストン・チャーチルは、1930年代前半に停滞するのであった。

2017年7月22日土曜日

サフォーク州 ニューマーケット(New Market)

Royal Mail が2017年4月6日に発行した記念切手シリーズ「Racehorse Legends」−
2011年4月30日に New Market で開催された 2000 Guineas Stakes で優勝した Frankel 

発表時期で言うと、一番最後のシャーロック・ホームズ物語となるサー・アーサー・コナン・ドイル作「ショスコム オールドプレイス(Shoscombe Old Place)」の冒頭、シャーロック・ホームズは、ジョン・ワトスンにサー・ロバート・ノーバートン(Sir Rober Norberton)のことを尋ねる。

Royal Mail が2017年4月6日に発行した記念切手シリーズ「Racehorse Legends」−
1977年4月2日に Aintree で開催された Grand National で優勝した Red Rum 

彼(ホームズ)は、イライラしながら、自分の時計に目をやった。「新しい依頼者が来ることになっているんだが、遅れているようだな。ところで、ワトスン、君は競馬のことには明るいかい?」
「当たり前さ。何故なら、傷痍年金の半分位を競馬につぎ込んでいるからね。」
「それでは、君に僕の『競馬案内』になってもらおう。サー・ロバート・ノーバートンとは、何者なんだい?この名前を聞いて、何か思い当たることはあるかい?」
「ああ、知っているよ。彼はショスコムオールドプレイスに住んでいる。僕は、夏の間、そこで一度過ごしたこおtがあるから、その土地のことはよく知っているんだ。ノーバートンは、一度あやうく君の担当領域に足を踏み入れかけたのさ。」
「どんな風にだい?」
「彼はニューマーケットヒースでサム・ブルーワーを馬の鞭でしたたかに打ち据えたんだ。サム・ブルーワーは、有名なカーゾンストリートの金貸しだ。彼はもう少しでサム・ブルーワーを殺すところだったよ。」
「成る程、面白そうな男だな!」

Royal Mail が2017年4月6日に発行した記念切手シリーズ「Racehorse Legends」−
1981年6月3日に Epsom Downs で開催された The Derby で優勝した Shergar 

He looked impatiently at his watch. 'I had a new client calling, but he is overdue. By the way, Watson, you know something of racing?'
'I ought to. I pay for it with about half my wound pension.'
'Then I'll make you my Handy Guide to the Turf. What about Sir Robert Norberton? Does the name recall anything?'
'Well, I should say so. He lives at Shoscombe Old Place, and I know it well, for my summer quarters were down there once. Norberton near came within your province once.'
'How was that ?'
'It was when he horsewhipped Sam Brewer, the well-known Curzon Street moneylender, on Newmarket Heath. He nearly killed the man.'
'Ah, he sounds interesting!'

Royal Mail が2017年4月6日に発行した記念切手シリーズ「Racehorse Legends」−
2009年3月13日に Cheltenham で開催された Cheltenham Gold Cup で優勝した Kauto Star 

ショスコム オールドプレイスに住むサー・ロバート・ノーバートンが、カーゾンストリート(Curzon Street)ー2015年9月12日付ブログで紹介済)の有名な金貸しであるサム・ブルーワーを馬の鞭で打ち据えて、危うく殺してしまう寸前だった場所ニューマーケット(New Market)は、英国東部のサフォーク州(Suffolk)にある町で、競馬が非常に盛んである。

Royal Mail が2017年4月6日に発行した記念切手シリーズ「Racehorse Legends」−
1989年3月16日に Cheltenham で開催された Cheltenham Gold Cup で優勝した Desert Orchid

ニューマーケットには、世界最高の競馬場とも目されるニューマーケット競馬場(New Market Race Course)がある。

Royal Mail が2017年4月6日に発行した記念切手シリーズ「Racehorse Legends」−
1971年5月1日に New Market で開催された 2000 Guineas Stakes で優勝した Brigadier Gerard

記録によると、1660年頃に競馬コースが作られたとのことで、現在、
(1)ローリーマイルコース→夏場以外のシーズンで使用
(2)ジュライコース→夏場のみ使用
(3)バンバリーマイルコース→上記(2)のうち、直線部分のみのコース
の3つの芝コースを有している。

Royal Mail が2017年4月6日に発行した記念切手シリーズ「Racehorse Legends」−
1964年3月7日に Cheltenham で開催された Cheltenham Gold Cup で優勝した Arkle 

ニューマーケット競馬場では、現在、以下のレースが主に開催されている。
(1)クレイヴンミーティング(Craven Meeting)-4月半ば
(2)ギニーズフェスティバル(Guineas Festival)-5月上旬
(3)ジュライフェスティバル(July Festival)-7月
(4)ケンブリッジミーティング(The Cambridge Meeting)-9月後半
(5)フューチャーチャンピオンディ(Future Champion Day

Royal Mail が2017年4月6日に発行した記念切手シリーズ「Racehorse Legends」−
2013年6月20日に Royal Ascot で開催された Gold Cup で優勝した Estimate 


2017年7月16日日曜日

アーサー・ネヴィル・チェンバレン(Arthur Neville Chamberlain)

英国の首相を務めたアーサー・ネヴィル・チェンバレンが住んでいた住居が
シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の
ベルグラーヴィア地区(Belgravia)内にある

アガサ・クリスティー作「複数の時計(The Clocks)」(1963年)は、エルキュール・ポワロシリーズの長編で、今回、ポワロは殺人事件の現場へは赴かず、また、殺人事件の容疑者や証人への尋問も直接は行わないで、ロンドンにある自分のフラットに居ながらにして(=完全な安楽椅子探偵として)、事件の謎を解決するのである。


キャサリン・マーティンデール(Miss Katherine Martindale)が所長を勤めるキャヴェンディッシュ秘書紹介所(Cavendish Secretarial Bureau)から派遣された速記タイピストのシーラ・ウェッブ(Sheila Webb)は、ウィルブラームクレッセント通り19番地(19 Wilbraham Crescent)へと急いでいた。シーラ・ウェッブが電話で指示された部屋(居間)へ入ると、彼女はそこで身なりの立派な男性の死体を発見する。男性の死体の周囲には、6つの時計が置かれており、そのうちの4つが何故か午後4時13分を指していた。鳩時計が午後3時を告げた時、ウィルブラームクレッセント19番地の住人で、目の不自由な女教師ミリセント・ペブマーシュ(Miss Millicent Pebmarsh)が帰宅する。自宅内の異変を感じたミリセント・ペブマーシュが男性の死体へと近づこうとした際、シーラ・ウェッブは悲鳴を上げながら、表へと飛び出した。そして、彼女は、ちょうどそこに通りかかった青年コリン・ラム(Colin Lamb)の腕の中に飛び込むことになった。
実は、コリン・ラム青年は、警察の公安部員(Special Branch agent)で、何者かに殺された同僚のポケット内にあったメモ用紙に書かれていた「M」という文字、「61」という数字、そして、「三日月」の絵から、ウィルブラームクレッセント19番地が何か関係して入るものと考え、付近を調査していたのである。「M」を逆さまにすると、「W」になり、「ウィルブラーム」の頭文字になる。「三日月」は「クレッセント」であり、「61」を逆さまにすると、「19」となる。3つを繋げると、「ウィルブラームクレッセント通り19番地」を意味する。

イートンスクエアガーデンズ(Eaton Square Gardens)−その1

クローディン警察署のディック・ハードキャッスル警部(Inspector Dick Hardcastle)が本事件を担当することになった。
シーラ・ウェッブは、ミリセント・ペブマーシュの家へ今までに一度も行ったことがないと言う。また、ミリセント・ペブマーシュは、キャヴェンディッシュ秘書紹介所に対して、シーラ・ウェッブを名指しで仕事を依頼する電話をかけた覚えはないと答える。更に、シーラ・ウェッブとミリセント・ペブマーシュの二人は、ウィルブラームクレッセント通り19番地の居間で死体となって発見された男性について、全く覚えがないと証言するのであった。
ミリセント・ペブマーシュの居間においてキッチンナイフで刺されて見つかった身元不明の死体は「R.・H・カリイ(R. H. Curry)」とされたが、スコットランドヤードの捜査の結果、全くの偽名であることが判明し、身元不明へと逆戻りする。彼が目の不自由な老婦人の居間で刺殺される理由について、スコットランドヤードも、そして、コリン・ラムも、皆目見当がつかなかった。途方に暮れたコリン・ラムは、ポワロに助けを求める。年若き友人からの頼みを受けて、ポワロの灰色の脳細胞が事件の真相を解き明かす。

イートンスクエアガーデンズ(Eaton Square Gardens)−その2

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie’s Poirot」の「複数の時計」(2011年)では、アガサ・クリスティーの原作とは異なり、ウィルブラームクレッセント62番地の住人がラムジィ夫妻(Mr and Mrs Ramsay)と息子2人から(フランスの武器製造会社と取引がある会社に勤める)クリストファー・マバット(Christopher Mabbutt)と娘2人に変更された。
時代背景についても、アガサ・クリスティーの原作では、第二次世界大戦(1939年ー1945年)後の米ソ冷戦状態をベースにしているが、TV版の場合、他のシリーズ作品と同様に、第一次世界大戦(1914年ー1918年)と第二次世界大戦の間、それも、第二次世界大戦開戦間近という設定が行われている。そのため、英国の仮想敵国を原作のソビエト連邦からアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツへと変更している。
そして、物語のサブプロットとして、クリストファー・マバットがドイツ側に英国の機密情報を渡すスパイの一人であることが物語の終盤に判明し、MI6 の秘密情報部員(intelligence officer)であるコリン・レイス大尉(Liteunant Colin Raceーアガサ・クリスティーの原作では、警察の公安部員であるコリン・ラム)が率いるチームによって、クリストファー・マバットは会社を出てフランスへと赴く直前に逮捕される。コリン・レイス大尉による取り調べを受ける中、クリストファー・マバットは、次のように述べる。

イートンスクエアガーデンズ(Eaton Square Gardens)−その3

「我々は英国の愛国者だからこそ、ヒトラーに英国の機密情報を渡すのだ。もしチェンバレンの宥和政策が続かず、(主戦派の)チャーチルのような輩が権力に就いた場合、我々は前の対戦(=第一次世界大戦)より100倍もひどい戦争に引き込まれることになるからだ。」

イートンスクエア通りの南側から北側を見たところ

‘We are patriots who pass information to Hitler, because if Chamberlain’s policy of appeasement doesn’t hold and someone like Churchill gets his hands on power, we will be dragged into a war 100 times worse than the last one.’

アーサー・ネヴィル・チェンバレンが住んでいた住居の住所は、
37 Eaton Square, Belgravia, London SW1W 9DH

クリストファー・マバットが言うチェンバレンとは、英国の首相も務めた政治家アーサー・ネヴィル・チェンバレン(Arthur Neville Chamberlain:1869年ー1940年)のことである。

住居の外壁には、
アーサー・ネヴィル・チェンバレンがここに住んでいたことを示す
ブループラークが掛けられている(その1)

アーサー・ネヴィル・チェンバレンは、バーミンガム市長(1873年ー1876年)、通商大臣(1880年ー1885年)、自治大臣(1886年)、そして、植民地大臣(1895年ー1903年)を歴任したジョーゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain)の次男として、バーミンガムに出生。
メイソンサイエンスカレッジ(Mason Science Collegeーバーミンガム大学(University of Birmingham)の前身)で科学と治金学(金属工学)を学んだ後、監査法人に就職し、その後、父のジョーゼフが経営するバハマ(当時、英国の植民地)の農園へ派遣され、そこで農園経営を学ぶ。
そして、実業界で成功を収めた彼は、その名声を後ろ盾にして、1911年バーミンガム市会議員に、次に、父のジョーゼフと同じように、1915年バーミンガム市長となる。
続いて、1918年に下院議員に当選すると、保健大臣(1923年、1924年ー1929年+1931年)や財務大臣(1923年ー1924年+1931年ー1937年)の要職を務めた後、1937年に保守党党首 / 首相の座に就き、第一次チェンバレン内閣 / 第二次チェンバレン内閣(1937年ー1940年)を組閣した。

住居の外壁には、
アーサー・ネヴィル・チェンバレンがここに住んでいたことを示す
ブループラークが掛けられている(その2)

TV版の「複数の時計」の時代設定の頃、英国やフランス等は軍事増強と領土の拡大を推し進めるドイツやイタリア等との間で政治的緊張を増していた時期であり、アーサー・ネヴィル・チェンバレンは、ドイツのアドルフ・ヒトラーやイタリアのべニート・ムッソリーニに対して宥和政策を行い、1938年9月29日のミュンヘン協定に基づき、「これ以上の領土要求を行わない。」との約束をヒトラーと交わす代償として、ドイツ系住民が多数を占めていたチェコスロヴァキアのズデーデン地方をドイツに帰属させることを全面的に認めた。結果的に、このミュンヘン協定によって、第二次世界大戦の勃発が1年程引き延ばされたことになるが、その一方で、ドイツ側に軍備を増強させる時間的な猶予を与えたことになり、また、ヒトラーに「英国からドイツの近隣諸国への侵攻を容認された。」と勘違いさせる要因となったと、後年の専門家等からは強く批判されている。

アーサー・ネヴィル・チェンバレンが住んでいた住居は
高級住宅街内にある

アーサー・ネヴィル・チェンバレンによる宥和政策にもかかわらず、1939年9月1日にドイツ軍はポーランドへと侵攻し、その2日後の9月3日、英国は対ドイツ宣戦布告を行って、ここに第二次世界大戦が勃発した。

アーサー・ネヴィル・チェンバレンが住んでいた住居の外壁上部

1940年4月に英国はドイツ軍のノルウェー作戦の阻止に失敗し、同年5月10日、ドイツ軍がベネルクス3国(オランダ / ベルギー / ルクセンブルグ)へ侵攻の矛先を転じると、アーサー・ネヴィル・チェンバレンはその責任を取って首相を辞任する。後任には、主戦派のウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill:1874年ー1965年)が保守党や労働党等を含む挙国一致内閣を組閣して、対応に当たった。アーサー・ネヴィル・チェンバレンは、この挙国一致内閣下、枢密院議長として残ったが、その後、体調を崩したため、同年10月に閣僚から退く。そして、同年11月9日、胃癌によりこの世を去っている。