2015年8月15日土曜日

ロンドン トッテナムコートロード(Tottenham Court Road)

トッテナムコートロードの南側を望む

サー・アーサー・コナン・ドイル作「赤い輪(The Red Circle)」では、大英博物館(British Museum)の近くで下宿屋を営むウォーレン夫人(Mrs Warren)がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れ、自分の家に不審な下宿人が居ると相談する。ウォーレン夫人によると、「(1)下宿の表玄関の鍵を一つ渡すことと(2)部屋の中へ絶対に立ち入らないことの二つの条件をのめば、週5ポンドの下宿代を支払う。」と交渉した男が、その後、10日間一度も外へ出ないで、一日中部屋の中を歩き回っている、とのことだった。また、その男との最初の取り決めでは、(3)ベルを鳴らした後、食事を部屋のドアの外にある椅子の上に置くこと、そして、(4)何か必要なものがある場合には、紙切れに活字体で書いて置いておくので、その指示に従うことになっていた。ウォーレン夫人の話に興味を覚えたホームズは、新聞の私事広告欄に謎の下宿人宛と思われる秘密のメッセージを発見する。ホームズとジョン・ワトスンがウォーレン夫人の下宿屋近辺を調査に行こうと話をしていると、ウォーレン夫人が猛烈な勢いで彼らの部屋に飛び込んで来る。そして、ウォーレン夫人は「うちの主人がひどい目に遭った。」と大騒ぎする。


「御主人がひどい目に遭ったですって?」
「とにかく、うちの主人が手荒に扱われたんですよ。」
「しかし、誰がそんなことをしたのですか?」
「ああ!私の方が知りたいですよ!ホームズさん、ちょうど今朝のことです。主人はトッテナムコートロードのモートン&ウェイライト商会で作業時間記録係をしています。主人は午前7時前に家を出なければなりません。今朝、主人が家を出て10歩も行かないうちに、2人の男が主人の後ろから近づいて来て、主人の頭の上からコートを被せ、縁石沿いに駐めてあった辻馬車の内に主人を放り込んだんです。彼らは主人を辻馬車で1時間連れ回した挙げ句、馬車の扉を開いて、主人を外に放り出しました。主人は気持ちが動転したまま車道に横たわっていたので、辻馬車が主人を放り出した後、どこへ行ったのか、全く見ていませんでした。主人はなんとか立ち上がった際、自分がハムステッドヒースに居ることが判りました。その後、主人は乗合馬車に乗って家まで戻って来て、今は家のソファで横になって休んでいます。その間に私はホームズさんに何が起こったのかをお知らせするために、一目散にここへ来たんです。」
「非常に興味深いですね。」と、ホームズは言った。

トッテナムコートロードと
チェニーズストリート(Chenies Street)が
交差する角に建つ建物

'Knocking Mr Warren about?'
'Using him roughly, anyway.'
'But who used him roughly?'
'Ah! that's what we want to know! It was this morning, sir. Mr Warren is a timekeeper at Morton and Waylight's, in Tottenham Court Road. He has to be out of the house before seven. Well, this morning he had not gone ten paces down the road when two men came up behind him, threw a coat over his head, and bundled him into a cab that was beside the kern, They drove him an hour, and then opened the door and shot him out. He lay in the roadway so shaken in his wits that he never saw what became of the cab. When he picked himself up he found he was on Hampstead Heath; so he took a bus home, and there he lies now on his sofa, while I came straight round to tell you what had happened.'
'Most interesting,' said Holmes.

トッテナムコートロードの北側を望む

ウォーレン氏が働いていたモートン&ウェイライト商会(Morton and Waylight's)があったトッテナムコートロード(Tottenham Court Road)は、ロンドンのブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にある。南側は、東西に走るオックスフォードストリート(Oxford Street)と南北に延びるチャリングクロスロード(Charing Cross Road)が交差するところから始まり、北側は東西に走るユーストンロード(Euston Road)で終わる通りで、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)とロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)の境界付近にある。現状、南側から北側へ向かう一方通行の通りとなっている。

トッテナムコートロードと
トッテナムストリート(Tottetnhame Street)が交差する角にある広場

トッテナムコートロードの南側には、地下鉄トッテナムコートロード駅(Tottenham Court Road Tube Station)があり、セントラルライン(Central Line)、ピカデリーライン(Piccadilly Line)とノーザンライン(Northern Line)が乗り入れている。また、トッテナムコートロードの北側には、地下鉄ウォーレン駅(Warren Tube Station)があり、ノーザンラインとヴィクトリアライン(Victoria Line)が通っている。

上記の広場に建つ建物の側面に描かれている壁画

この一帯は、英国を征服してノルマン王朝を開いたノルマンディー公ウィリアムことウィリアム1世(William I:1027年ー1087年 在位期間:1066年ー1087年)が1086年に作成させた土地台帳(Domesday Book)上に既に登場し、セントポール大聖堂の所有となっていた。
その後、13世紀にトッテナムコートロードとユーストンロードが交差する北西の角にマナーハウスが建てられると、この一帯は、当時の貴族の名前に因んで、次第にトッテン(Totten)、トッタム(Totham)、あるいは、トッティングホール(Totting Hall)と呼ばれるようになる。そして、この一帯がエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年ー1603年)に対して99年間(所謂、無期限)で貸し出される頃には、トッテナムコート(Tottenham Court)とい名前が一般に定着した、とのこと。

ヒールズやハビタが現在入居している建物

トッテナムコートロード、特に通りの南側には、以前、電化製品を販売する店舗が集中していることで有名だったが、現在、それ以外の業種の店舗がかなり進出してきて、電化製品店が占める比率は低くなっている。通り沿いの賃借料の高騰もその原因の一つかと思われる。
一方で、トッテナムコートロードの北側には、ヒールズ(Heals)やハビタ(Habitat)を初めとする家具関係を販売する大型店舗が軒を連ねている。

個人的には、特にトッテナムコートロードの南側は、日中でもやや暗いイメージが付きまとっていたが、今は通りの様子や雰囲気も良くなってきているように感じる。

2015年8月9日日曜日

ロンドン カーターレーン53-55番地(53-55 Carter Lane)

リュックサック等の旅行用鞄を販売する店として撮影に使用された
カーターレーン53−55番地の全景

アガサ・クリスティー作「ヒッコリーロードの殺人(Hickory, Dickory, Dock)」(1955年)は、有能な秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)がタイプした手紙に、エルキュール・ポワロが誤字を3つも見つけるところから始まる。ポワロがミス・レモンに尋ねると、彼女のタイプミスの原因が、彼女の姉で、今はヒッコリーロード26番地(26 Hickory Road)にある学生寮で寮母をしている未亡人のハバード夫人(Mrs. Hubbard)から彼女が相談を受けていたたためであることが判明する。



ミス・レモンによると、姉のハバード夫人が寮母を務めている学生寮では、非常に奇妙なことが連続して発生していたのである。夜会靴、ブレスレット、聴診器、電球、古いフランネルのズボン、チョコレートが入った箱、硼酸の粉末、浴用塩、料理の本やダイヤモンドの指輪(後に、食事中のスープ皿の中から見つかった)等、全く関連性がないものが次々と紛失していた。更に、それに加えて、ズタズタに切り裂かれた絹のスカーフ、切り刻まれたリュックサック、そして、緑のインクで台無しになった学校のノート等が見つかり、盗難行為だけではなく、野蛮かつ不可解な行為も横行していたのだ。

(1)画面右手前がセントポールズチャーチヤード通り10番地(裏側)の荷物搬入口で、
地下鉄ヒッコリーロード駅として、(2)画面右手奥がカーターレーン36番地で、
学生寮(ヒッコリーロード26番地)として、撮影にそれぞれ使用された。
そして、(3)画面左手奥にカーターレーン53−55番地がある。

ここのところ、興味を引く事件がなくて退屈気味だったポワロは、これ以上、ミス・レモンのタイプミスが続くことを避けるべく、彼女への手助けを申し出る。ポワロは、まずハバード夫人に自分の事務所に来てもらい、更に詳しい事情を尋ねるとともに、学生寮に現在住んでいる学生達の情報についても、彼女からヒアリングする。ポワロの灰色の脳細胞が、一見平和そうに見える学生寮の内で何か良からぬ企みが秘かに進行していると彼に告げる。そこで、ポワロはハバード夫人と再度話をして、学生寮に住む面々に犯罪捜査にかかる講演を行うという名目で、ヒッコリーロード26番地を訪ねることに決めた。
何ら脈絡がないと思えた盗難事件であったが、学生寮内での恐ろしい連続殺人事件へと発展するのであった。

カーターレーンの西側から見た
カーターレーン53−55番地の建物前面

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「ヒッコリーロードの殺人」(1995年)の回では、ヒッコリーロード26番地にある学生寮の経営者であるクリスティーナ・二コレティス(Mrs Christina Nicoletis)がダイヤモンド密輸犯の首謀者の一人であり、通りを挟んだ学生寮の右斜め前で、リュックサック等の旅行用鞄を販売する店も営んでいる。その店には、二コレティス夫人の共犯者であるジョルジョス(Giorgios)がアシスタントとして勤めていた。ポワロが後に真相を明らかにするが、ダイヤモンド密輸に関して、この店で販売されているリュックサックが非常に重要な役割を果たすとともに、リュックサック内側の縫い目が連続殺人事件の真犯人を指し示す大事な証拠にもなるのである。

アドルヒル通りから見た
カーターレーン53−55番地の側面—
奥に見えるのが、学生寮として撮影に使用された
カーターレーン36番地

ポワロシリーズの撮影は、ロンドン・シティー(City)内のカーターレーン(Carter Lane)で行われた。
セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)の南側を通るセントポールズチャーチヤード通り(St. Paul's Churchyard)からテムズ河(River Thames)方面へ一本南に下ったところに、カーターレーンがセントポールズチャーチヤード通りと並行して東西に延びている。
セントポールズチャーチヤード通りから南へ下って延びているディーンズコート通り(Dean's Court)とカーターレーンがぶつかった北西の角(カーターレーン36番地)に、学生寮として撮影された建物があり、現在は「YHA London St. Paul's」というユースホステルが営業している。

カーターレーン53−55番地の入口は、現在、
カーターレーンとアドルヒル通りが交差した角にある

このユースホステル入口の右斜め前の建物が、二コレティス夫人が経営し、リュックサック等の旅行用鞄を販売する店として撮影に使われた場所である。
TVドラマのシーンで、ある容疑者を連行するため、ジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)が率いるスコットランドヤードの面々が学生寮乃前に車を乗りつける。やや遅れて、カーターレーンへタクシーで彼らを追って来たポワロは、彼らの行動に加わることもなく、学生寮の向かいにある店に入り、甥へのプレゼントという名目で、リュックサックを購入する。

画面での位置関係から判断すると、カーターレーン53-55番地の建物がそれに該当すると思われる。カーターレーン53-55番地では、現在、ベーカリー兼軽食屋が営業している。20年前の撮影時には、ポワロはカーターレーンに面した入口から店の中に入っているが、今は、カーターレーンに直接面した入口はなく、カーターレーンとアドルヒル通り(Addle Hill)が交差する角に、入口が設けられている。

2015年8月8日土曜日

ロンドン アデルフィ劇場(Adelphi Theatre)ーその2

ストランド通りに面した劇場の表側

サー・アーサー・コナン・ドイルが、自作「ロドニー・ストーン(Rodney Stone)」を戯曲化した「テンパリーの館(The House of Temperley)」や戯曲版「まだらの紐(The Speckled Band)」の上演を行ったアデルフィ劇場(Adelphi Theatre)は、ロンドンの中心部ストランド地区(Strand)内にあり、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からシティー(City)へ向かって東に延びるストランド通り(Strand)沿いに建っている。現在の建物は4代目に該る。


建物外壁では、次の演目の準備が進行中

<初代>
1806年に商人のジョン・スコット(John Scott)と彼の娘であるジェーン・スコット(Jane Scott:1770年ー1839年)によって設立された。ジェーン・スコットは劇場の支配人、舞台女優かつ脚本家でもあった。劇場名として、フランス語で「比類ない」を意味する「ソン・パレイユ(Sans Pareil)」が採用された。興行ライセンスを取得した後、ジェーン・スコットは50以上の演目を上演し、1819年に引退した。
彼女の引退後、ストランド通りを間にして反対側に建つアデルフィビル(Adelphi Buildings)の名を冠して、1819年10月18日に「アデルフィ劇場(Adelphi Theatre)」として再スタートした。



メイデンレーンに面した劇場の裏側

<2代目>
初代の建物が取り壊された後、新劇場が建設され、1858年12月26日に「新アデルフィ劇場(New Adelphi Theatre)」がオープンする。新劇場は1,500人を収容できる座席に加えて、500人を収容する立見席を備えていた。そして、1879年と1887年に改修工事が行われ、劇場の規模が拡大された。
1897年12月16日、劇場に当時出演していた俳優ウィリアム・テリス(William Terriss)が劇場への通用口(ステージドア)で刺し殺される事件があり、その後、犯人は逮捕されたが、それ以降、彼の幽霊が劇場内に出没すると言われている。


劇場への通用口
通用口の左側の外壁に掛けられているプレート

<3代目>
1901年9月11日に3代目の劇場として「センチュリー劇場(Century Theatre)」がオープンする。


右側がエクスチェンジコート(Exchange Court)で、
左側がメイデンレーン

<4代目>
1930年12月3日に4代目劇場としてアールデコ様式の「ロイヤルアデルフィ劇場(Royal Adelphi Theatre)」がオープンする。1940年に劇場名は以前使用されていた「アデルフィ劇場」に戻された。
1993年に、「キャッツ(Cats)」や「オペラ座の怪人(The Phantom of the Opera)」等で有名なアンドルー・ロイド・ウェバー(Andrew Lloyd Weber:1948年ー)が所有するリアリー・ユースフル・グループ(Really Useful Group)が劇場を買い取り、大改修を実施し、現在に至っている。劇場は、今のところ、上記のりアリー・ユースフル・グループとネーデルランダー・インターナショナル(Nederlander International)がパートナーシップを組んだアデルフィ劇場会社(Adelphi Theatre Company Limited)が所有し、運営している。


2015年8月2日日曜日

ロンドン カーターレーン36番地(36 Carter Lane)―ヒッコリーロード26番地(26 Hickory Road)

学生寮(ヒッコリーロード26番地)として撮影に使用された
カーターレーン36番地の建物

アガサ・クリスティー作「ヒッコリーロードの殺人(Hickory, Dickory, Dock)」(1955年)は、有能な秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)がタイプした手紙に、エルキュール・ポワロが誤字を3つも見つけるところから始まる。ポワロがミス・レモンに尋ねると、彼女のタイプミスの原因が、彼女の姉で、今はヒッコリーロード26番地(26 Hickory Road)にある学生寮で寮母をしている未亡人のハバード夫人(Mrs. Hubbard)から彼女が相談を受けていたたためであることが判明する。


ミス・レモンによると、姉のハバード夫人が寮母を務めている学生寮では、非常に奇妙なことが連続して発生していたのである。夜会靴、ブレスレット、聴診器、電球、古いフランネルのズボン、チョコレートが入った箱、硼酸の粉末、浴用塩、料理の本やダイヤモンドの指輪(後に、食事中のスープ皿の中から見つかった)等、全く関連性がないものが次々と紛失していた。更に、それに加えて、ズタズタに切り裂かれた絹のスカーフ、切り刻まれたリュックサック、そして、緑のインクで台無しになった学校のノート等が見つかり、盗難行為だけではなく、野蛮かつ不可解な行為も横行していたのだ。

カーターレーン36番地の正面外観—
現在、ユースホステルが営業している

ここのところ、興味を引く事件がなくて退屈気味だったポワロは、これ以上、ミス・レモンのタイプミスが続くことを避けるべく、彼女への手助けを申し出る。ポワロは、まずハバード夫人に自分の事務所に来てもらい、更に詳しい事情を尋ねるとともに、学生寮に現在住んでいる学生達の情報についても、彼女からヒアリングする。ポワロの灰色の脳細胞が、一見平和そうに見える学生寮の内で何か良からぬ企みが秘かに進行していると彼に告げる。そこで、ポワロはハバード夫人と再度話をして、学生寮に住む面々に犯罪捜査にかかる講演を行うという名目で、ヒッコリーロード26番地を訪ねることに決めた。
何ら脈絡がないと思えた盗難事件であったが、学生寮内での恐ろしい連続殺人事件へと発展するのであった。

セントポールズチャーチヤード通り側から見た
カーターレーン36番地の建物

残念ながら、ヒッコリーロード26番地は架空の住所であり、ロンドン市内には実在していない。英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「ヒッコリーロードの殺人」(1995年)の回では、シティー(City)内のカーターレーン(Carter Lane)にある建物を学生寮として、撮影が行われた。
セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)の南側を通るセントポールズチャーチヤード通り(St. Paul's Churchyard)からテムズ河(River Thames)方面へ一本南に下ったところに、カーターレーンがセントポールズチャーチヤード通りと並行して東西に延びている。セントポールズチャーチヤード通りから南へ下って延びているディーンズコート通り(Dean's Court)とカーターレーンがぶつかった北西の角に、学生寮として撮影された建物があり、今も撮影当時の外観をそのまま残している。

ディーンズコート通り側に面した
カーターレーン36番地の裏側

この建物の住所は、「36 Carter Lane, London EC4V 5AB」。以前は、聖歌隊少年歌手のための学校であったが、現在は、「YHA London St. Paul's」というユースホステルが営業しており、シティー内の観光名所であるセントポール大聖堂、ロンドン博物館(Museum of London)やテムズ河南岸にある美術館テートモダン(Tate Modern)等に距離的に近いこともあって、若い観光客によく利用されている。

2015年8月1日土曜日

ロンドン アデルフィ劇場(Adelphi Theatre)ーその1

ストランド通り(Strand)越しに望むアデルフィ劇場

1909年12月、サー・アーサー・コナン・ドイルは自作「ロドニー・ストーン(Rodney Stone)」を戯曲化し、「テンパリーの館(The House of Temperley)」と銘打って、ストランド地区(Strand)のアデルフィ劇場(Adelphi Theatre)で上演した。この興行にかかる経済的なリスクは高く、また、融資を受けることもできなかったため、コナン・ドイルは劇場を半年間賃借した上での上演であった。ところが、この興行は大失敗に終わる。興行を行えば行う程、赤字額が大きく膨らむのであった。
更に、間が悪いことに、英国王エドワード7世(Edward Ⅶ:1841年ー1910年 在位期間:1901年-1910年)が1910年5月6日に死去したのを受けて、ウェストエンドの劇場はどこの興行を中止して、喪に服した。コナン・ドイルは劇場を喜劇ミュージカルに転貸するというオファーを受けたが、これを拒否。彼としては、これ以上の赤字を防ぐために、何らかの思い切った打開策をくり出す必要に迫られていたのである。

アデルフィ劇場に隣接していたアデルフィ劇場レストラン
(Adelphi Theatre Restaurant)を示すプレート

コナン・ドイルは、米国人俳優のウィリアム・ジレット(William Gillette:1853年ー1937年)脚本・主演の戯曲「シャーロック・ホームズ(Sherlock Holmes)」が成功をおさめていることに着目する。困窮の中、コナン・ドイルはあるホームズ作品を記録的な早さで戯曲化した。その作品が戯曲版「まだらの紐(The Speckled Band)」であった。この「まだらの紐」は、コナン・ドイルにとって3つ目の戯曲で、ホームズものとしては、2作目に該っている。
コナン・ドイルの息子であるエイドリアン・マルコム・コナン・ドイル(Adrian Malcom Conan Doyle:1910年-1970年)によると、ホームズシリーズの中でも、短編「まだらの紐」は父親(アーサー・コナン・ドイル)の一番お気に入りの作品とのこと。実際、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1927年3月号において、コナン・ドイル自身が「まだらの紐」をホームズシリーズの短編の中で第1位に推している。

地下鉄ベイカーストリート駅(Baker Street Tube Station)内、ジュビリーライン(Jubilee Line)の
プラットフォーム壁に設置されている「まだらの紐」のイラスト

ウェストエンドの劇場がエドワード7世の喪に服してからまだ1ヶ月も経たない1910年6月4日、コナン・ドイルはアデルフィ劇場で戯曲版「まだらの紐」の上演を開始した。主な配役は以下の通り。
*シャーロック・ホームズ: ハリー・アーサー・セインツベリー(Harry Arthur Saintsbury:1869年ー1939年)
*ジョン・ワトスン: クロード・キング(Claude King:1875年ー1941年)
*グリムズビー・ライロット博士: リン・ハーディング(Lyn Harding:1867年ー1952年)

ホームズとワトスンが、グリムズビー・ロイロット博士邸の庭に
秘かに入り込んだ場面が描かれている

戯曲版「まだらの紐」の基本的な筋は、「ストランドマガジン」の1892年3月号に発表された短編と同じであるが、以下のような変更が加えられている。
(1)短編にはなかったヘレン・ストーナー(Helen Stoner)がホームズの元へ事件の相談に来る前の話が新たに追加されている。そのため、戯曲版は、大きく分けると、三幕の構成となっている。
・一幕目(Act 1): ストークモラン邸(Stoke Moran Manor)
・二幕目(Act 2): ベイカーストリート221B
・三幕目(Act 3): ストークモラン邸
そして、一幕目と二幕目の間では、2年が経過している。
(2)短編では、ホームズの元へ事件の相談に訪れるのは、妹のヘレン・ストーナーであるが、戯曲版では、名前がイーニッド・ストーナー(Enid Stoner)に変更されている。
(3)また、戯曲版では、イーニッドがインドに住んでいた幼少の頃、ワトスンも軍医としてインドで従軍していたため、彼女の母親と親交があり、そのため彼女とも知り合いであるという設定になっている。
(4)更に、一幕目でイーニッドの姉が謎の死を遂げた際、ワトスンはストークモラン邸に駆け付けており、何か問題が起きた場合、自分とホームズを頼るよう、イーニッドに助言している。よって、イーニッドがベイカーストリート221Bを訪れることになるが、それは2年後の二幕目で、ホームズが登場するのは二幕目の途中からになり、残念ながら、彼の出番は全体の半分位しかない。
(5)イーニッドの義父は、短編では、グリムズビー・ロイロット博士(Dr. Grimesby Roylott)であったが、戯曲版では、グリムズビー・ライロット博士(Dr. Grimesby Rylott)となっている。
(6)二幕目には、短編「チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン(Charles Augustus Milverton)」に登場した恐喝王ミルヴァートンが、出番は少ないが、イーニッドの前にベイカーストリート221Bのホームズの元を訪れる。
(7)戯曲版では、ワトスンの婚約者として、メアリー・モースタン(Mary Morstan)の名前が言及される。メアリー・モースタンは、長編「四つの署名(The Sign of the Four)」において、事件の依頼人として当初ベイカーストリート221Bを訪ねて来るが、物語の最後に彼女はワトスンと婚約する。この事件は1888年9月に発生したものと考えられているが、一方、短編「まだらの紐」は、物語の冒頭、1883年4月初め頃の事件と記されており、事件の発生時期が相前後している。

陽の下、アデルフィ劇場の白い壁が映えている

幸いにして、興行は大成功し、アデルフィ劇場において169回の上演が行われ、同年8月28日には興行場所がグローブ座(Globe)へと移った。その後、英国各地で興行が順次行われ、そして、1910年11月21日には、米国ニューヨークにあるガリック劇場(Garrick Theatre)において上演が行われるまでの成功をおさめた。
こうして、起死回生の打開策として、戯曲版「まだらの紐」を上演することによって、コナン・ドイルはなんとか自己破産から免れることができたのである。

2015年7月26日日曜日

ロンドン セントポールズチャーチヤード10番地(10 St. Paul's Churchyard) / 地下鉄ヒッコリーロード駅(Hickory Road Tube Station)

地下鉄ヒッコリーロード駅のセットが組まれた
セントポールズチャーチヤード10番地のオフィスビル裏側にある荷物搬入口

アガサ・クリスティー作「ヒッコリーロードの殺人(Hickory, Dickory, Dock)」(1955年)は、有能な秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)がタイプした手紙に、エルキュール・ポワロが誤字を3つも見つけるところから始まる。ポワロがミス・レモンに尋ねると、彼女のタイプミスの原因が、彼女の姉で、今はヒッコリーロード26番地(26 Hickory Road)にある学生寮で寮母をしている未亡人のハバード夫人(Mrs. Hubbard)から彼女が相談を受けていたたためであることが判明する。


ミス・レモンによると、姉のハバード夫人が寮母を務めている学生寮では、非常に奇妙なことが連続して発生していたのである。夜会靴、ブレスレット、聴診器、電球、古いフランネルのズボン、チョコレートが入った箱、硼酸の粉末、浴用塩、料理の本やダイヤモンドの指輪(後に、食事中のスープ皿の中から見つかった)等、全く関連性がないものが次々と紛失していた。更に、それに加えて、ズタズタに切り裂かれた絹のスカーフ、切り刻まれたリュックサック、そして、緑のインクで台無しになった学校のノート等が見つかり、盗難行為だけではなく、野蛮かつ不可解な行為も横行していたのだ。

セントポールズチャーチヤード10番地の正面外壁

ここのところ、興味を引く事件がなくて退屈気味だったポワロは、これ以上、ミス・レモンのタイプミスが続くことを避けるべく、彼女への手助けを申し出る。ポワロは、まずハバード夫人に自分の事務所に来てもらい、更に詳しい事情を尋ねるとともに、学生寮に現在住んでいる学生達の情報についても、彼女からヒアリングする。ポワロの灰色の脳細胞が、一見平和そうに見える学生寮の内で何か良からぬ企みが秘かに進行していると彼に告げる。そこで、ポワロはハバード夫人と再度話をして、学生寮に住む面々に犯罪捜査にかかる講演を行うという名目で、ヒッコリーロード26番地を訪ねることに決めた。
何ら脈絡がないと思えた盗難事件であったが、学生寮内での恐ろしい連続殺人事件へと発展するのであった。

カーターレーンの西側から見たオフィスビル裏側
(荷物搬入口を含む)

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「ヒッコリーロードの殺人」(1995年)の回では、ヒッコリーロード26番地の学生寮に滞在している学生2人がアムステルダムへの小旅行から戻って来た際、地下鉄ヒッコリーロード駅(Hickory Road Tube Station)で下車する。彼らは駅から出て来ると、すぐ近くに建つ学生寮へと入って行く。
地下鉄ヒッコリーロード駅は実在していないため、TV版では、英国の経済活動の中心地シティー(City)内にあるカーターレーン(Carter Lane)沿いに建つ建物の一部を使用して、地下鉄の駅のセットを組み、撮影を行っている。

カーターレーンの反対側から見た荷物搬入口

カーターレーンは、セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)の南側を通るセントポールズチャーチヤード(St. Paul's Churchyard)の一本南にある細い通りである。そこには、「コンドアハウス(Condor House)」というオフィスビルが建っていて、表玄関はセントポールズチャーチヤードに面しており、「セントポールズチャーチヤード10番地」がオフィスビルの住所となっている。カーターレーンはこのオフィスビルの裏通りに該り、ビルへの荷物搬入口がカーターレーン側に面している。

このオフィスビルは、通りを挟んで、
セントポール大聖堂の南側に面している

TV版では、この荷物搬入口を地下鉄ヒッコリーロード駅へと改装している。TV版の放映は1995年なので、撮影はもっと前の筈で、正確には、このコンドアハウスの前のビルの可能性がある。ただし、TV版を見る限りでは、地下鉄ヒッコリーロード駅のセットが組まれた場所は、現在のビルの荷物搬入口と全く同じ場所なので、ビルの外観だけをある程度残しつつ、ビルの内部だけを建て替えるといった大改装を行っているのかもしれない。実際調べてみると、ヴィクトリア朝時代の外壁を残して、建物の内部を改装の上、オフィスビルとして使用しているようである。

2015年7月25日土曜日

ロンドン ベイズウォーターロード100番地(100 Bayswater Road)

レンスターテラスの入口から見たベイズウォーターロード100番地

「ピーターパン(Peter Pan)」シリーズ等の作者として有名なサー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年)は、スコットランドのキリミュア(Kirriemuir)生まれの劇作家/童話作家である。シャーロック・ホームズシリーズの作者であるサー・アーサー・コナン・ドイルと同じスコットランドの出身で、彼の友人であった。
1860年、織工の父と石工の娘の母の下、彼は10人兄弟の9番目として出生(なお、そのうちの2人は、彼が生まれる前に既に死亡)。
彼の家族は彼に聖職者になってほしいと願ったが、彼は作家になりたいという希望が強く、エディンバラ大学(University of Edinburgh)に入学し、文学を専攻。1882年に大学を卒業した後は、ノッティンガムの新聞社(Nottingham Journal)に勤めながら、雑誌への寄稿等を行った。そして、1885年に彼はロンドンへ行き、文筆業に専念した。

ベイズウォーターロード100番地の入口は、
レンスターテラス側に面している

1888年に発表した「オールドリヒト物語(Auld Licht Idylls)」で成功をおさめ、一躍有名となった彼は劇作家としても活動するようになる。1891年、彼にとって3作目の劇で知り合った女優メアリー・アンセル(Mary Ansell)と1894年7月9日に彼の出生地であるキリミュアで結婚する。1893年から1894年にかけて、彼は体調が優れず、メアリーは彼の家族と一緒に彼の看病を行い、彼の体調が回復したことに伴い、結婚式が行われたのである。

ベイズウォーターロード100番地の入口

1895年にバリー夫妻はサウスケンジントン地区(South Kensington)内にあるグロースターロード(Gloucester Road)沿いに家を購入したが、彼がよく散歩に出かけるケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)からかなり距離があった。そのため、1900年にバリー夫妻はケンジントンガーデンズの北側のベイズウォーターロード(Bayswater Road)沿いの家を購入して、移り住んだ。

サー・ジェイムズ・バリーがここに住んでいたことを示す
ブループラーク

この家がベイズウォーターロード100番地(100 Bayswater Road)の建物で、東西に延びるベイズウォーターロードと南北に延びるレンスターテラス(Leinster Terrace)が交差する北西の角に建っている。ジェイムズ・バリーの希望通り、ベイズウォーターロード100番地の家からケンジントンガーデンズを一望することが可能な上、ベイズウォーターロードを横切れば、ケンジントンガーデンズは目と鼻の先という立地条件であった。
元々、この家は1820年に建てられて、バリー夫妻が購入するまでの間、庭師が住んでいた。1900年に彼らが購入した後、インテリアデザインに興味を持っていた妻のメアリーが家の大改装を行い、地下階に大きな応接室を2つ、また、ロンドン最初と言われる(家に付属する)温室を設置している。

ベイズウォーターロード100番地の側面

ジェイムズ・バリーは、このベイズウォーターロード100番地をベースにして、以下の有名な作新を執筆している。
・「小さな白い鳥(The Little White Bird)」(1902年)ー第13章から第18章にピーターパンが初めて登場。
・戯曲「ピーターパンー大人になりたがらない少年(Peter Pan, or The Boy Who Wouldn't Grow Up)」(1904年)
・「ケンジントン公園のピーターパン(Peter Pan in Kensington Gardens)」(1906年)
・「ピーターパンとウェンディー(Peter and Wendy)」(1911年)
これらの作品は、彼がよく散歩していたケンジントンガーデンズで1897年に知り合ったディヴィス夫妻とその息子達(5人兄弟)のうち、ディヴィス夫人のシルヴィア・ルウェリン・ディヴィス(Sylvia Llewelyn Davies:1866年ー1910年)と彼女の長男ジョージ・ディヴィス(George Davies:1893年ー1915年)がモデルとなっていると一般に言われている。

ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その1)

1908年に妻メアリーは夫の友人であるギルバート・キャナン(Gilbert Cannan)と不倫関係になり、これが1909年7月にジェイムズ・バリーの知るところとなる。当初、彼は妻メアリーに不倫関係を止めるよう説得するが、彼女はこれを拒否したため、最終的には、妻の不貞行為を理由にして、1909年10月に彼は妻と離婚する。
上記の離婚後、彼はベイズウォーターロード100番地を彼の友人で南極探検家だったロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott:1868年ー1912年)の未亡人キャスリーン・ブルース(Kathleen Bruce:彫刻家)に売却してしまう。

ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その2)

仲が良かったディヴィス夫妻の死亡(夫アーサー:1907年+夫人シルヴィア:1910年)に伴い、ジェイムズ・バリーは、ディヴィス夫妻の子供2人を養子にする。アーサーの死亡後から、彼はシルヴィア夫人への財政的な援助を始めている(ピーターパン関係の著作による収入が充分にあり、シルヴィア夫人への財政的な援助には全く問題なかった)が、こういった彼の行動が妻メアリーの不貞行為につながった要因の一つではないかと個人的には思う。

イタリアンガーデンズの南側にあるザ・ロング・ウォーター

1912年5月に彼はケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズ(Italian Gardens)の南側にある湖ザ・ロング・ウォーター(The Long Water)の西岸に養子マイケル(Michael Davies:1900年ー1921年 ディヴィス夫妻の四男)をモデルにしたピーターパンの像(Peter Pan Statue)を建てた。実際には、彫刻家サー・ジョージ・フランプトン(Sir George Frampton)は別の子供をモデルにして、ピーターパンの像を制作したため、ジェイムズ・バリーを大いに失望させた。彼によると、「ピーターパンの中に悪魔が表現されていない。(It doesn't show the devil in Peter.)」とのこと。

ピーターパンの像(その1)

悪いことは続き、ディヴィス夫妻の長男ジョージは、1915年に第一次世界大戦(1914年ー1918年)において死亡した上、四男のマイケルは、1921年に21歳の誕生日まであと1ヶ月を控えた20歳の若さで、オックスフォード(Oxford)の近くにある湖で友人(同性愛の相手と思われる)と一緒に溺死したため、ジェイムズ・バリーを非常に悲しませた。

ピーターパンの像(その2)

現在、ザ・ロング・ウォーターの畔に設置されたピーターパンの像は、そういった事情も知らずに訪れる観光客に囲まれつつ、静かに湖面を見つめている。