2015年4月5日日曜日

ロンドン キャヴェンディッシュスクエア(Cavendish Square)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「入院患者(The Resident Patient)」では、10月の蒸し暑い雨の晩、フリートストリート(Fleet Street)やストランド通り(Strand)の散策に出かけたシャーロック・ホームズとジョン・ワトスンは午後10時過ぎにベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)に戻って来た。
部屋で待っていたのはパーシー・トレヴェリアン(Percy Trevelyan)で、ブルックストリート403番地(403 Brook Street)において開業する医師だった。彼の医院で非常に奇妙な出来事が連続して発生したので、ホームズに相談するために、ベイカーストリート221Bを訪ねて来たのである。トレヴェリアン博士はホームズに対して、まず自分の経歴について話し始めた。

キャヴェンディッシュスクエアガーデンズ(Cavendish Square Gardens)内にある像

「まず最初に、私の大学での経歴について話す必要があります。私はロンドン大学を卒業しました。大学在籍時の成績が良かったため、教授陣からは将来非常に有望だと思われていたと申し上げたとしても、決して自慢話ではないと考えております。大学卒業後、私はキングスカレッジ病院にちょとしたポストを得て、研修に没頭しました。その結果、幸いにも、私は強硬症(カタレプシー=特に精神的疾患からくる筋肉が硬直する状態)の病理学に関する研究でかなりの注目を得ました。そして、ホームズさんの御友人が先程言及された神経障害の研究論文が評価され、ついにブルース・ピンカートンの賞金とメダルを授与されたのです。その当時、私は前途洋々だと一般に思われていたと言っても、決して過言ではないと思います。」


「しかしながら、私には先立つ資金がないことが、非常に大きな障害となりました。容易に御理解いただけるものと思いますが、成功をおさめようと願う専門医は、キャヴェンディッシュスクエア地区の12ある通りのどこかで開業する必要があります。ただ、それには巨額な賃借料と内装設備費がかかります。この開業準備費用の他に、数年間分の生活費も手当てする必要がありますし、更に、相応の馬車も借りなくてはなりません。これらの費用を工面するには、私の財力を遥かに上回っていたため、なんとか倹約すれば、10年位で開業のための看板を架けられるだけの蓄えができるのではないかと願うしかありませんでした。しかし、予期せぬ出来事が突然起きて、全く新しい展望が私の前に開けたのです。」

キャヴェンディッシュスクエアの西側―
右手奥に見えるのは、ウィグモアストリート(Wigmore Street)

'I am compelled, to begin with, to say something of my own college career. I am a London University man, you know, and I am sure that you will not think that I am unduly singing my own praises if I say that my student career was considered by my professors to be a very promising one. After I had graduated I continued to devote myself to research, occupying a minor position in King's College Hospital, and I was fortunate enough to excite considerable interest by my research into the pathology of catalepsy, and finally to win the Bruce Pinkerton prize and medal by the monograph on nervous lesions to which your friend has just alluded. I should not go too far if I were to say that there was a general impression at that time that a distinguished career lay before me.'

キャヴェンディッシュスクエアの北側―
左右に走る通りはウィグモアストリート(Wigmore Street)

'But the one great stumbling-block lay in my want of capital. as you will readily understand, a specialist who aims high is compelled to start in one of a dozen streets in the Cavendish Square quarter, all of which entail enormous rents and furnishing expenses. Besides this preliminary outlay, he must be prepared to keep himself for some years, and to hire a presentable carriage and horse. To do this was quite beyond my power, and I could only hope that by economy I might in ten years' time save enough to enable me to put up my plate. Suddenly, however, an unexpected incident opened up quite a new prospect to me.'

キャヴェンディッシュスクエアの南側―
奥に見えるのは、デパートのジョン・ルイス

キャヴェンディッシュスクエア(Cavendish Square)は、ロンドン・ウェストミンスター区(City of Westminster)内にある広場で、各種店舗やデパート等が軒を連ねているリージェントストリート(Regent Street)とオックスフォードストリート(Oxford Street)の近くに位置している。地下鉄の最寄駅は、ベイカールーライン(Bakerloo Line)、セントラルライン(Central Line)とヴィクトリアライン(Victoria Line)が通るオックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)で、駅の出口から北西の方向へ歩いて5分程のところにある。広場の南側はデパートのジョン・ルイス(John Lewis)の裏口に面しており、広場の北側にはトレヴェリアン博士が医院を開業したいと願った通りの中で一番有名なハーリーストリート(Harley Street)があり、広場から北へ向かって延びている。また、広場の地下は、車とオートバイが600台程を収容できる巨大な地下駐車場となっている。

キャヴェンディッシュスクエアガーデンズ内に建つ
ウィリアム・ジョージ・フレデリック・キャヴェンディッシュ・ベンティンク卿のブロンズ像

キャヴェンディッシュスクエアは、1717年に第2代オックスフォード伯爵エドワード・ハーリー(Edward Harley, 2nd Earl of Oxford:1689年ー1741年)のロンドン用邸宅がここに建設されたことから始まる。広場の名前は、彼の妻であるヘンリエッタ・キャヴェンディッシュ・ハーリー(Henrietta Cavendish Harley)にちなんで名付けられた。その後、広場には他の貴族階級の邸宅も建てられ、発展していった。
広場の南側(デパートのジョン・ルイスに面している側)には、英国北東部にあるノーフォーク州(Norfolk)キングスリン(King's Lynn)選出の議員ウィリアム・ジョージ・フレデリック・キャヴェンディッシュ・ベンティンク卿(Lord William George Frederick Cavendish Bentinck:1802年ー1848年)のブロンズ像が1848年以来スクエアを見守っている。

キャヴェンディッシュスクエアの東側―
ジキル博士の親友であるラニョン博士が住んでいそうな建物

英国の作家ロバート・ルイス・スティーヴンスン(Robert Louis Stevenson:1850年ー1894年)が執筆した「ジキル博士とハイド氏(Dr. Jekyll and Mr. Hyde)」(1886年)において、ジキル博士の親友であるラニョン博士(Dr. Lanyon)の自宅がキャヴェンディッシュスクエア内にあるという設定になっている。

キャヴェンディッシュスクエアガーデンズ内では、多くの市民や観光客等が憩いをとっている

2015年4月4日土曜日

ロンドン ブルックストリート(Brook Street)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「入院患者(The Resident Patient)」では、10月の蒸し暑い雨の晩、フリートストリート(Fleet Street)やストランド通り(Strand)の散策に出かけたシャーロック・ホームズとジョン・ワトスンは午後10時過ぎにベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)に戻って来た。
すると、一台のブルーム型馬車(一頭立四輪箱馬車)が戸口のところに停まっており、ランプに照らされた馬車の内に吊るされた枝編み細工の籠に入っている医療道具から、ホームズは医者、それも開業医が事件の依頼にやって来たと推測する。彼らが部屋に入ると、30代半ば位の、やつれた表情で不健康そうな顔色をした男性が暖炉の側の椅子から立ち上がった。

ヘンデルハウス博物館(左から2番目の焦茶色の建物)を含むブルックストリート沿いの街並み

「こんばんわ、先生。」と、ホームズは快活に言った。「それ程長くはお待たせしなかったようなので、良かったです。」
「それでは、下に居る御者と話をされたのですか?」
「いいえ、サイドテーブルの上にあるロウソクを見れば判りますよ。どうぞおかけになって、私がどういったお役にたてるのかお話願えますか?」
「私は医師のパーシー・トレヴェリアンと申します。」と、訪問者は言った。
「ブルックストリート403番地に住んでいます。」
「未解明の神経障害に関する論文をお書きになられていませんか?」と、私は尋ねた。
私が彼の業績を知っていると判って、彼は青白い頬を喜びで赤く染めた。
「その研究のことはめったに耳にしないので、もう完全に忘れ去られたものと思っていました。」と、彼は言った。「私の出版社は、私の論文の売れ行きが全く芳しくないと話していました。推測するに、あなたも医学関係の方ですか?」
「退役軍医です。」
「私の本業はずっと神経障害です。この分野を専門に進めていきたいと思っていますが、もちろん、最初はできることをするしかないですね。しかしながら、これは私が御相談したい件とはズレています。シャーロック・ホームズさん、あなたのお時間が貴重なことは充分承知しております。御相談したいことなのですが、最近、ブルックストリートの私の自宅で非常に奇妙な出来事が連続して発生したのです。今晩、それが遂にピークに達したため、私としましては、一刻でも早く、あなたの助言と助力をお願いしたい気持ちで一杯なのです。」
シャーロック・ホームズは腰を下ろして、パイプに火をつけた。「両方とも大歓迎です。」と、彼は言った。「どういった状況にあなたが困っているのかについて、詳しい話をお聞かせ願います。」

ブルックストリートからグローヴナースクエア方面(西側)を望む

'Good-evening, doctor,' said Holmes cheerily. 'I am glad to see that you have only been waiting a very few minutes.'
'You spoke to my coachman, then?'
'No, it was the candle on the side-table that told me. Pray, resume your seat and let me know how I can serve you.'
'My name is Doctor Percy Trevelyan,' said our visitor, 'and I live at 403 Brook Street.'
'Are you not the author of a monograph upon obscure nervous lesions?' I asked.
His pale cheeks flushed with pleasure at hearing that his work was known to me.
'I so seldom hear of the work that I thought it was quite dead,' said he. 'My publishers gave me a most discouraging account of its sale. You are yourself, I presume, a medical man?'
'A retired army surgeon.'
'My own hobby has always been nervous disease. I should wish to make it an absolute speciality, but, of course, a man must take what he can get at first. This, however, is beside the question. Mr Sherlock Holmes, and I quite appreciated how valuable your time is. The fact is that a very singular train of events has occurred recently at my house in Brook Street, and tonight they came to such a head that I felt it was quite impossible fro me to wait another hour before asking for your advice and assistance.'
Sherlock Holmes sat down and lit his pipe. 'You are very welcome to both,' said he. 'Pray let me have a detailed account of what the circumstances are which have disturbed you.'

米国人のミュージシャン/シンガーであるジミ・ヘンドリックスが
ブルックストリート23番地に住んでいたことを示すブループラーク

ドイツ人の作曲家であるゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデルが
ブルックストリート25番地に住んでいたことを示すブループラーク

ブルックストリート(Brook Street)は、ロンドン中心部のメイフェア地区(Mayfair)内にある通りで、東側は「独身の貴族(The Noble Bachelor)」で紹介したハノーヴァースクエア(Hanover Square)から始まり、西側はこれも「独身の貴族」で紹介したグローヴナースクエア(Grosvenor Square)まで続いている。オックスフォードサーカス(Oxford Circus)とマーブルアーチ(Marble Arch)を結ぶ幹線道路であるオックスフォードストリート(Oxford Street)から南へ少し下ったところを、ブルックストリートは走っている。
この通りは18世紀前半に開発され、その名前は近くにあったパブ「タイバーン・ブルック(Tyburn Brook)」に由来している、とのこと。
ブルックストリート沿いには、前述の通り、「独身の貴族」の舞台となったハノーヴァースクエアとグローヴナースクエアが、また、「ソア橋の謎(The Problem of Thor Bridge)」の舞台となったホテルのクラリッジズ(Claridge's)等がある。
ハノーヴァースクエアの近くには、米国人のミュージシャン/シンガーであるジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix:1942年ー1970年→なお、本名はジェイムズ・マーシャル・ヘンドリックス(James Marshall Hendrix))が住んでいた「ブルックストリート23番地」とドイツ人(後に英国に帰化)の作曲家であるゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Handel:1685年ー1759年)が住んでいた「ブルックストリート25番地」が隣り合っている。ちなみに、「ブルックストリート25番地」は、現在、ヘンデルハウス博物館(Handel House Museum)となっているが、ブルックストリート側ではなく、建物の裏側から入館する扱いである。

ジミ・ヘンドリックスのブループラークの青色と
ヘンデルハウス博物館の旗の赤色が建物の外壁にうまくマッチしている

なお、パーシー・トレヴェリアンが開業していたブルックストリート403番地は、実際の住所としては存在しておらず、架空の住所である。

2015年3月29日日曜日

ロンドン ストランド通り(Strand)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「入院患者(The Resident Patient)」は、シャーロック・ホームズがジョン・ワトスンと一緒にフリートストリート(Fleet Street)やストランド通り(Strand)を散策する場面から始まる。

地下鉄チャリングクロス駅の構内にある地図―チャリングクロスからストランド通りは始まる

ストランド通り1番地の建物

チャリングクロス駅(→「ボヘミアの醜聞」や「アビー農園」等に登場)と
チャリングクロスホテル(→「ブルース・パーティントン型設計図」に登場)

10月の蒸し暑い雨の日だった。「ワトスン、生憎と良くない天気だが」とホームズが言った。「晩になって、心地よい風が吹いてきた。ロンドンの街を散策するというのはどうだい?」
私は小さな居間に居ることに飽き飽きしていたので、喜んで同意した。3時間程、我々はフリートストリートやストランド通りを流れて行く無限の変化に満ちた人生の万華鏡を眺めながら、一緒に散策した。鋭い細部観察と鋭敏な推理能力を伴うホームズ独特の話は、私にとって非常に面白く、また、魅了された。我々がベイカーストリートに戻って来たのは、10時過ぎだった。ブルーム型馬車(一頭立四輪箱馬車)が一台戸口のところに停まっていたのである。

旧チャリングクロス病院(現チャリングクロス警察署
→「高名な依頼人」に登場)

サヴォイホテル

ローストビーフが有名なシンプソンズ
(→「瀕死の探偵」や「高名な依頼人」に登場)

It had been a close, rainy day in October. 'Unhealthy weather, Watson,' said my friend. 'But the evening has brought a breeze with it. What do you say to ramble through London ?'
I was weary of our little sitting-room and gladly acquiesced. For three hours we strolled about together, watching the ever-changing kaleidoscope of life as it ebbs and flows through Fleet Street and the Strand. Holmes's characteristic talk, with its keen observance of detail and subtle power of inference, held me amused and enthralled. It was ten o'clock before we reached Baker Street again. A brougham was waiting at our door.

ストランドパレスホテル

ライシアム劇場(→「四つの署名」に登場)

ストランド通りの中州に建つセントメアリー・ル・ストランド教会

ストランド通りは、ロンドン中心部のウェストミンスター区(City of Westminster)内にある大通りである。ストランド通りの西側は、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から始まり、途中、道路の中州のような場所に建つセントメアリー・ル・ストランド教会(St. Mary Le Strand)とセントクレメントデインズ教会(St. Clement Danes)、そして、ロンドンの政治の中心地であるウェストミンスター(Westminster)とロンドンの経済の中心地であるシティー(City)を分けていた関所跡であるテンプルバー(Temple Bar)を過ぎると、フリートストリートへと名前を変える。フリートストリートは更にラドゲートヒル(Ludgate Hill)と変わり、セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)の正面へと至る。ストランド通り自体の長さは約1㎞である。

現在は使用されていない地下鉄ストランド駅

ストランド通りの中州に建つセントクレメントデインズ教会

テンプルバー―
ストランド通りは、ここからフリートストリートへと名前を変える

フリートストリートについては、「赤毛組合(The Red-Headed League)」において言及しておるので、御参照いただきたい。
歴史上、ストランド通りはローマ時代から登場する。11世紀には「strondway」、12世紀には「stronde」、そして、13世紀には「la Stranda」と呼ばれ、古英語の「浜」や「岸」を意味する「Strand」に行き着いた。これは、ストランド通り一帯が川幅がまだ広かったテムズ河(River Thames)の浅瀬に該ったことに由来している。

ホームズファンの聖地であるバーリーストリート12番地

ストランド通り沿いには、ホームズシリーズの舞台となるチャリングクロス駅(Charing Cross Station)、チャリングクロスホテル(Charing Cross Hotel)、旧チャリングクロス病院(Charing Cross Hospital:現チャリングクロス警察署)シンプソンズ(Simpson's)やライシアム劇場(Lyceum Theatre)等が所在している。また、ライシアム劇場の裏手、ストランド通りからコヴェントガーデン(Covent Garden)方面に向かって北へ延びるバーリーストリート(Burleigh Street)の12番地はホームズファンの聖地で、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」がここで創刊されたのである。

2015年3月28日土曜日

ロンドン ノーサンバーランドアベニュー(Northumberland Avenue)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「独身の貴族(The Noble Bachelor)」(出版社によっては、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」との対比から「花嫁失踪事件」と訳しているケースあり)において、1887年10月、ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert Walsingham de Vere St Simon)との結婚式の後、花嫁であるハティー・ドラン(Hatty Doran)が披露宴の席上、気分がすぐれないと言って自室に引き下がり、そのまま姿を消してしまったのである。セント・サイモン卿がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れ、ドラン嬢の行方を捜してほしいと依頼する。

「Corinthia Hotel London(=ホテル)」や
「The Northall(=レストラン)」等が入っている建物

セント・サイモン卿の話を一通り聞いただけで、ホームズは直ぐに事件の真相に辿り着いてしまった。そして、ホームズはジョン・ワトスンをベイカーストリート221B に残したまま外出する。ホームズは行方不明になっていたドラン嬢を無事見つけ出した。米国の鉱山労働者のキャンプがアパッチインディアンに襲われた際に死亡したと新聞で報道されていた夫フランシス・ヘイ・モールトン(Francis Hay Moulton)が実際には生存しており、彼女は夫とロンドンで再会していたのであった。ワトスンはホームズの手際の良さに感服する。

「Citadines Trafalgar Square London(=ホテル)」が
入っている建物の入口

同ホテルが入っている建物の外壁―
夕方になると、ライトアップされる

「一体どうやって彼ら二人を見つけ出したんだい?」
「やっかいな捜査になるかもしれなかったが、我らが友人レストレイド警部が必要な情報を入手してくれたのさ。彼自身はその情報の価値を判っていなかったがね。もちろん、イニシャルが非常に重要だったが、それよりももっと重要だったのは、彼(フランシス・ヘイ・モールトン)がここ1週間以内にロンドンの最も高級なホテルの一つで勘定をし支払ったことが判ったことなんだ。」
「どうして高級だと判ったんだい?」
「値段が高級だったからさ。一泊8シリングで、シェリー酒一杯が8ペンスということは、最も高級なホテルの一つであることを示していた。これだけの値段のホテルは、ロンドンではそんなに多くない。ノーサンバーランドアベニューの2軒目のホテルで宿泊者名簿を調べた結果、フランシス・ヘイ・モールトンという米国の紳士が前日ホテルをチェックアウトしていることが判った。そして、彼に関する記載事項を一通り確認したところ、勘定書きの複写で目にしたものとまさに同じ項目が見つかったんだ。彼の手紙はゴードンスクエア226番地へ転送されることになっていたので、そこまで出かけ、幸運にもその家で愛し合う二人を見つけ出したのさ。...」

ノーサンバーランドアベニューが
トラファルガースクエアに接する角(東側)にある建物の外壁に
施されている動物や魚類等の彫刻



'And how in the world did you find them ?'
'It might have been difficult, but friend Lestrade held information in his hands the value of which he did not himself know. The initials were, of course, of the highest importance, but more valuable still was it to know that within a week he had settled his bill at one of the most select London hotels.'
'How did you deduce the select ?'
'By the select prices. Eight shillings for a bed and eight pence for a glass of sherry pointed to one of the most expensive hotels. There are not many in London which charge at that rate. In the second one which I visited, in Northumberland Avenue, I learned by an inspection of the book that Francis H. Moulton an American gentleman, had left only the day before, and on looking over the entries against him, I came upon the very items which I had seen in the duplicate bill. His letters were to be forwarded to 226 Gordon Square, so thither I travelled, and being fortunate enough to find the loving couple at home, ...'

ノーサンバーランドアベニューが
トラファルガースクエアの接する角(西側)に建つもう一つのビル

ノーサンバーランドアベニューの中間辺りにある
「The Grand at Trafalgar Square(=ホテル)」

ヴィクトリアエンバンクメント通り近辺の
ノーサンバーランドアベニュー

ノーサンバーランドアベニュー(Northumberland Avenue)は、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からテムズ河(River Thames)へ向かって始まり、ヴィクトリアエンバンクメント通り(Victoria Embankment)に突き当たって終わる通りである。
1608年から1609年にかけて、ノーサンバーランド伯爵(Earl of Northumberland)がこの一帯にノーサンバーランドハウス(Northumberland House)を建設した。その後、通りの施設工事のため、1874年6月にノーサンバーランド公爵(Duke of Northumberland)が土地を売却し、工事竣工後、売却主のノーサンバーランド公爵の名前を採って、ノーサンバーランドアベニューと名付けられた。

ノーサンバーランドアベニューと
ノーサンバーランドストリートが接する角に建つ
シャーロック・ホームズパブ

現在も、ノーサンバーランドアベニューの両側には、いくつかの高級ホテルが軒を連ねている。このホテルのどれかで、ホームズはハティー・ドランの夫であるフランシス・ヘイ・モールトンが宿泊していたことを見つけ出したに違いない。ノーサンバーランドアベニューとノーサンバーランドストリート(Northumberland Street)が接する角には、奇しくも、シャーロック・ホームズパブ(Sherlock Holmes Pub)が営業している。
ちなみに、2012年夏に開催されたロンドンオリンピック/パラリンピックの際、ノーサンバーランドアベニューはマラソンコースに含まれていた。

ノーサンバーランドアベニューは、「ギリシア語通訳(The Greek Interpreter)」の中にも出てくる。マイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)経由、シャーロック・ホームズに事件を相談したギリシア生まれのメラス氏(Mr Melas)は、法廷で通訳をしたり、ノーサンバーランドアベニュー沿いのホテルに宿泊する裕福な旅行者のガイドをしたりして、生計を立てていた。ということは、メラス氏もこのノーサンバーランドアベニューを頻繁に歩いていた訳である。

2015年3月22日日曜日

ロンドン ローンロード3番地 / ローンロードフラッツ(3 Lawn Road / Lawn Road Flats aka The Isokon)

ローンロードフラッツの全景写真

1934年にアガサ・クリスティーは地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Gate Tube Station)の近くにあるシェフィールドテラス58番地(58 Sheffield Terrace)の家を購入したが、第二次世界大戦(1939年ー1945年)が勃発し、ロンドンの中心街がドイツ軍による爆撃を受けるようになり、シェフィールドテラス58番地も被弾して、地下室と3階に大きな被害を受けてしまった。そのため、エジプト学者スティーヴン・グランヴィルの勧めににより、アガサ・クリスティーは1941年に彼が住むロンドン北部ハムステッド(Hampstead)のローンロード(Lawn Road)沿いに建つローンロードフラッツ(Lawn Road Flats)の17号室へ移り住んだ。このフラッツは、設計事務所の名前に因んで、「イソコンビルディング(Isokon building)」と呼ばれている。

ローンロードフラッツ正面の壁に表示されている建物名表示

「イソコン(Isokon)」は、1929年にジャック・プリチャード(Jack Pritchard)とモリー・プリチャード(Molly Pritchard)の夫妻が設立した設計事務所で、近代的な建物(家屋やフラット等)の設計や建設を目的としていた。その他に、家具や内装等のデザインや製造も行っていた。
設立当初、設計事務所は「ウェルズ・コーテス・アンド・パートナーズ(Wells Coates and Partners)」と呼ばれていたが、ドイツのワイマールに設立されたデザイン学校「バウハウス(Bauhaus)」が起こした近代建築運動に呼応して、1931年に名前を「イソコン」へと変更した。

地下鉄ベルサイズパーク駅に近い方にあるローンロード入口

ハムステッドヒース駅(Hampstead Heath Station)の南東側に南北に延びるローンロードがあり、その中間辺りにローンロードフラッツが建っている。このフラットは1934年7月9日にオープンし、

・1寝室フラットー22室
・2寝室フラットー4室
・スタジオフラットー3室
・共同キッチン
・スタッフ用区画
・駐車場

を備えていた。1937年には、共同キッチンがバーに改装され、「イソバー(Isobar)」と呼ばれ、ロンドン北部に住む知識階級の間で有名となり、著名人が集い、賑わったとのこと。

夕陽を背に浴びるローンロードフラッツ

残念ながら、設計事務所イソコンは商業的には全く成功しなかった。1939年に第二次世界大戦が勃発したことに伴い、英国への合板(ベニヤ板)の供給が断たれたため、同年、家具の製造ができなくなった。
アガサ・クリスティーは、第二次世界大戦が終わり、世間がやや落ち着く1946年までローンロードフラッツに住んでいたようである。

現在、正面右側にある駐車場が
ギャラリースペースに改装されている

2014年7月にローンロードフラッツの駐車場がギャラリースペースに改装され、フラッツの歴史、著名な住人やイソコン等を紹介する常設展を行っている。

ベルサイズウッド・ネーチャーリザーブでは、
数多くの動植物が保護されている

ローンロードフラッツの右隣りには、ベルサイズウッド・ネーチャーリザーブ(Belsize Wood Nature Reserve)と呼ばれる自然保護森への入口があり、ローンロードフラッツの裏手に広がっている。地下鉄ベルサイズパーク駅(Belsize Park Tube Station)方面からの帰り道のショーットカットとして、付近の住民に使用されたりもしている。