アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1962年に発表したミス・マープルシリーズ作品の長編第8作目「鏡は横にひび割れて(Mirror Crack’d from Side to Side)」の題名は、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson:1809年ー1892年)による詩「シャロット姫(The Lady of Shalott)」(1833年)をベースにしている。
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| 英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている アガサ・クリスティー作ミス・マープルシリーズ 「鏡は横にひび割れて」のペーパーバック版の表紙 <イラスト:ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)> |
Out flew the web and floated wide -
The mirror crack’d from side to side;
“The curse is come upon me,” cried
The Lady of Shalott.
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| 横にひび割れた鏡 - ジグソーパズル「アガサ・クリスティーの世界(The World of Agatha Christie)」の一部 |
織物はとびちり、ひろがれり
鏡は横にひび割れぬ
「ああ、呪いがわが身に」と、
シャロット姫は叫べり。
(橋本福夫訳)
1809年8月6日、英国国教会の牧師である父ジョージ・クレイトン・テニスン(George Clayton Tennyson)と母エリザベス(Elizabeth - 旧姓:Fytche)の三男として、リンカンシャー州(Lincolnshire)サマズビー(Somersby)に出生したアルフレッド・テニスンは、かなり裕福な家で育ち、少年時代、英国のロマン派詩人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年 → 2021年5月9日+2024年8月24日 / 8月30日付ブログで紹介済)の詩作に非常に魅了された。
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| ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている 第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンの肖像画の葉書 (Richard Westall / 1813年 / Oil on canvas 914 mm x 711 mm) |
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| 2020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された 英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、 第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(=バイロン卿)が選ばれている。 |
1827年にケンブリッジ(Cambridge)のトリニティーカレッジ(Trinity College)に入学した彼は、同年、兄であるフレデリック・テニスン(長男 / Frederick Tennyson:1807年ー1898年)やチャールズ・テニスン・ターナー(次男 / Charles Tennyson Turner:1808年ー1879年)と一緒に、最初の詩集「Poems by Two Brothers」を出版。
続いて、彼は、1830年、単独の詩集となる「Poems Chiefly Lyrica」を出版した。
1831年2月、父ジョージ・クレイトン・テニスンが亡くなり、学費を払えなくなったアルフレッド・テニスンは、学位を取得する前に、ケンブリッジから故郷のリンカンシャー州サマズビーへと戻った。
翌年の1832年2月、ケンブリッジ時代の学友で、英国の詩人であるアーサー・ヘンリー・ハーラム(Arthur Henry Hallam:1811年ー1833年)がアルフレッド・テニスンの元を訪れ、彼の家に滞在。そして、アーサー・ヘンリー・ハーラムは、アルフレッド・テニスンの妹エミリア・テニスン(Emilia Tennyson:1811年ー1887年)と婚約する。
同年7月、アルフレッド・テニスンとアーサー・ヘンリー・ハーラムの2人は、欧州大陸(ライン河流域)を旅行。
更に、その翌年の1833年8月、アーサー・ヘンリー・ハーラムは、父親と一緒に、欧州大陸へ出かけたが、同年9月15日、ウィーン(Vienna)で急死してしまう。
ケンブリッジ時代の学友で、妹エミリアの婚約者でもあったアーサー・ヘンリー・ハーラムの急死に強い衝撃を受けたアルフレッド・テニスンは、彼を弔う長詩「イン・メモリアム(In Memoriam A.H.H.)」を書き始め、その後の自己の成長を織り込んで、1849年に完成させた。
アルフレッド・テニスンは、1833年に詩「シャロット姫」を発表するも、酷評の憂き目に遭い、以降、約10年間沈黙してしまう。
アルフレッド・テニスンと家族は、1837年頃、故郷のリンカンシャー州サマズビーからエセックス州(Essex)エッピングフォレスト(Epping Forest)へ移住。
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| ロンドンのチェルシー地区(Chelsea)チェイニーウォーク(Cheyne Walk)沿いの 広場内に設置されているトマス・カーライル像 <筆者撮影> |
彼は、1839年頃、スコットランド出身で、ヴィクトリア朝時代の大英帝国を代表する歴史家で、評論家でもあるトマス・カーライル(Thomas Carlyle:1795年ー1881年 → 2016年10月15日付ブログで紹介済)と知り合い、以後、生涯にわたり、親交を深める。
そして、アルフレッド・テニスンは、1840年、ロンドンへと引っ越した。








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