2026年9月20日日曜日

ロンドン メクレンバーグスクエア37番地(37 Mecklenburgh Square)- その1

ドイツ軍による空襲を受けて、ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が、
1939年にタヴィストックスクエア 52番地から引っ越した
メクレンバーグスクエア37番地は、
画面中央奥にあり、現在は入口がないブロックの建物である。
<筆者撮影>


1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)英国の作家 / 出版業者 / 公務員であるレナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年の2人は、1914年の秋から約10年間を過ごしたリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)を離れ、ロンドンの中心部へと戻り、1924年3月、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にあるタヴィストックスクエア52番地(52 Tavistock Square → 2026年8月11日 / 8月17日付ブログで紹介済)に居を構えた。


レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が、
リッチモンドから引っ越した
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つ
タヴィストックホテル
<筆者撮影>


タヴィストックホテルの玄関左側の外壁に掛けられている
英国ヴァージニア・ウルフ協会のプラークには、
ヴァージニア・ウルフとレナード・ウルフの2人が、1924年から1939年までの間、
タヴィストックスクエア52番地の建物に住んでいたことが記されている。
<筆者撮影>


タヴィストックスクエア52番地は、ヴァージニア・ウルフがリッチモンドへ引っ越す前に住み慣れた住居の直ぐ近くだった。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


レナード・シドニー・ウルフが、1917年3月、パラダイスロード34番地 / ホガースハウス(Hogarth House, 34 Paradise Road → 2026年7月31日 / 8月5日付ブログで紹介済)に設立した出版社「ホガースプレス(Hogarth Press)」に参加したことにより、ヴァージニア・ウルフの精神状態が落ち着き、その結果、執筆にも脂がのってきたこと、また、ヴァージニア・ウルフ自身が若い頃から慣れ親しんできたロンドンの街の刺激が恋しくなったことが、彼らがロンドンの中心部へと戻った理由だった。


1915年3月に
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
リッチモンドグリーンから移り住んだパラダイスロード34番地の建物
<筆者撮影>



パラダイスロード34番地「ホガースハウス」の外壁に掛けられている
Greater London Council のプラークには、
レナード・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が、1915年から1924年までの間、
パラダイスロード34番地の建物に住んでおり、
また、1917年にここで出版社「ホガースプレス」を設立したことが記されている。
<筆者撮影>


2人がリッチモンドで経営した出版社「ホガースプレス」は、タヴィストックスクエア52番地の建物の地下に設置された。


画面奥に見える建物は、
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
約10年間を過ごしたリッチモンドを離れ、ロンドンの中心部へと戻り、
1924年3月に移った
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つタヴィストックホテル -
手前に見える庭園は、タヴィストックスクエアガーデンズ(Tavistock Square Gardens)。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、この頃、叔母からの遺言で、毎年500ポンド(現在価値で言うと、約500万円)の遺産を受け取るようになった。これにより、彼女には、金銭的な余裕ができて、小説等の執筆に専念することが可能となった。

ヴァージニア・ウルフは、1924年3月、タヴィストックスクエア52番地に移った後、


*長編第4作目「ダロウェイ夫人(Mrs Dalloway)」(1925年)

*長編第5作目「灯台へ(To the Lighthouse)」(1927年)

*長編第6作目「オーランドー(Orlando)」(1928年)

*長編第7作目「波(The Waves)」(1931年)

*長編第8作目「歳月(The Years)」(1937年)


を次々と意欲的に発表。


南側の入口近くに設置されている
タヴィストックスクエアガーデンズの沿革に関する説明板

<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人がロンドンの中心部へと戻って来た1924年3月当時は、第一次世界大戦(1914年ー1918年)を経て、戦勝国である英国の経済が急速に回復し、好景気に沸いている頃だった。

残念ながら、この好景気は一時的なものにすぎず、1929年の米国ニューヨーク株式市場における大暴落を皮切りに始まった世界恐慌(The Great Depression)は、全世界へと拡大して、各地に失業と貧困を引き起こした。その結果、ナチズムとファシズムが台頭、再び戦争の足音が聞こえ始めるのだった。

レナード・シドニー・ウルフはユダヤ人だったため、2人は反ユダヤ主義を伴ったファシズムを非常に恐れていた。こうして、ヴァージニア・ウルフの精神状態は、またもや悪化の一途を辿っていくのである。


タヴィストックスクエアガーデンズの南西の角に設置されている
ヴァージニア・ウルフのブロンズ胸像のアップ
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が恐れていたことが、やがて現実となった。1939年、英国がドイツに対して宣戦布告したため、第二次世界大戦(1939年ー1945年)が勃発。

ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフが住んでいたタヴィストックスクエア52番地の建物は、ドイツ軍によるロンドン爆撃を受けて、損壊。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
セントパンクラス地区近辺の地図を抜粋。



そのため、同年、ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、比較的安全な地域と考えられたカムデン区のセントパンクラス地区(St. Pancras)内にあるメクレンバーグスクエア37番地(37 Mecklenburgh Square)の最上階へと引っ越したのである。


画面右側から、メクレンバーグスクエア35番地(建物に入口あり)、
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が、
1939年にタヴィストックスクエア 52番地から引っ越した
メクレンバーグスクエア37番地(現在、建物に入口なし)、
そして、メクレンバーグスクエア39番地(建物に入口あり)と続いている。
<筆者撮影>


メクレンバーグスクエア37番地に引っ越したのも束の間、1940年9月から始まったドイツ軍によるロンドン大空襲(The Blitz)により被害を受け、ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、1919年に購入したイーストサセックス州(East Sussex)にある別荘モンクスハウス(Monk’s House)へと移動せざるを得なかった。

この頃、ヴァージニア・ウルフの精神状態は最悪の状況となっており、彼女にとって、モンクスハウスが終焉の地となるのであった。 


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