2019年12月29日日曜日

カーター・ディクスン作「第三の銃弾」(The Third Bullet by Carter Dickson)–その2

ハムステッドヒース(Hampstead Heath)の入口近辺から、
池越しにハムステッド地区内の住宅街を望む

ゲイブリエル・ホワイトは、6週間前の9月24日、刑務所から仮釈放されたが、判決時にチャールズ・モートレイク(元)判事を脅迫していたため、ジョン・ペイジ警部と彼の部下であるボーデン部長刑事は、ホワイトの動向に眼を光らせていた。


そして、昨日の夕方(午後4時頃)、彼らがよく知っている質屋から、ホワイトが拳銃(アイヴァー・ジョンソン38口径リヴォルヴァー)を買っていったという電話連絡が入った。更に、モートレイク元判事の次女で、ホワイトとも面識のあったアイダ・モートレイクからも、「ホワイトが、自分の父親を殺そうとしている。」という電話があった、そのため、ペイジ警部とボーデン部長刑事の二人は、警察車に飛び乗って、ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるモートレイク元判事邸へと大急ぎで向かったのである。


二人がモートレイク元判事邸に到着したのは、午後5時頃で、既に辺りは暗くなりかけていた。外は11月らしい荒れ模様の天候で、風雨が強かった。門番のロビンスンに教えられて、二人は母屋から200ヤード程離れた木立の中にある四阿(離れ)へと小径を進んだ。


二人が進む前方に四阿が見えてきた時、右手の木立から背の高い男が背を屈め出て来て、四阿の正面中央にあるドアの方へと走って行くのが見えた。雷が小止みなく鳴る中、その男が正面玄関のドアに手をかける直前、稲妻が閃き、その男が居る辺りを皓々と照らし出した。稲妻に照らし出された男は、二人が予想した通り、ホワイトで、ボーデン部長刑事の大声に呼ばれ、振り返って二人に気付くと、羽織っていた丈の長いコートのポケットから、その日の夕方質屋で購入した例の拳銃(アイヴァー・ジョンソン38口径リヴォルヴァー)を取り出して、そのまま四阿のドアを開け、中へと侵入した。そして、ホワイトは、左手にあるモートレイク元判事の書斎のドアへと向かった。


ペイジ警部のずっと前を走るボーデン部長刑事の大声が、モートレイク元判事を書斎の窓辺へと引き寄せた。モートレイク元判事は、四阿の正面玄関のドアに近い方の窓のカーテンを開け、窓を少し押し開くと、外を見た。
その時、ホワイトが、廊下から書斎に入るドアを開けて、中に飛び込むなり、ドアの鍵を閉めた。ボーデン部長刑事は、タッチの差でホワイトを捕まえそこなかったのである。

ボーデン部長刑事の後を追うペイジ警部が、一番の近道となった半開きの窓へと向かった正にその時、最初の銃声が聞こえた。半開きとなった窓から書斎の中を覗き込んだペイジ警部は、非常に不可解な現場を目撃するのであった。

2019年12月28日土曜日

山本周五郎作「シャーロック・ホームズ」–その3

地下鉄ベーカーストリート駅(Baker Street Tube Station)内の
ジュビリーライン(Jubilee Line)のプラットフォームの壁に描かれた
シャーロック・ホームズシリーズ7作品のうちの一つである「四つの署名」

初出:リピンコット・マンスリー・マガジン(米)1890年2月
事件の発生:1888年9月
収録:四つの署名

「樅の木は残った」(1954年ー1958年)、「赤ひげ診療譚」(1958年)、「五辯の椿」(1959年)、「青べか物語」(1960年)や「季節のない街」(1962年)等の作品(特に、時代小説ー市井に生きる
庶民や名もなき流れ者を書いた作品)で知られる日本の小説家である山本周五郎(本名:清水三十六 1903年ー1967年)が、新少年」の1935年12月別冊附録に発表した「シャーロック・ホームズ」というホームズのパスティーシュでは、

・異民族が残した莫大な財宝をめぐって、殺人事件が起きること
・その財宝の隠し場所について、四人の人物が関与していること
・物語内で発生する殺人事件において、異民族が使う毒矢が使用されていること

等があり、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)によるシャーロック・ホームズシリーズの長編第2作である「四つの署名(The Sign of the Four→2017年8月12日付ブログで紹介済)」(1890年)を、物語の基本設定にそのまま使っている。

1993年10月12日に、英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した
「シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手」
5種類のうちの一つである「最後の事件」

初出:「ストランドマガジン」(英)1893年12月
事件の発生:1891年4月–1891年5月
収録:シャーロック・ホームズの回想

物語の中盤過ぎ、ロンドン警視庁(スコットランドヤード)のお尋ね者であるディック・ドノバンの奸計にはまったシャーロック・ホームズは、真田男爵の別荘がある軽井沢の滝壺へ転落して、一時死亡したものと見做されるが、これは、同じく、「最後の事件(The Final Problem→「シャーロック・ホームズの回想(The Memoir of Sherlock Holmes)」(1893年)に収録)」をベースにしている。
スイスのライヘンバッハの滝が日本の軽井沢の滝に、そして、ホームズと一緒に滝壺へは転落しないものの、犯罪界のナポレオンであるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)が英国の犯罪王であるディック・ドノバンに置き換えられている。

また、物語の中盤の後半において、本牧の岬でホームズと凡太郎が乗る船舶が敵側の船舶を追撃する場面があるが、これは、前述の「四つの署名」のクライマックスシーンに該るテムズ河(River Thames)での船舶同士のチェイスが再現されている。

地下鉄ベーカーストリート駅(Baker Street Tube Station)内の
ジュビリーライン(Jubilee Line)のプラットフォームの壁に描かれた
シャーロック・ホームズシリーズ7作品のうちの一つである「まだらの紐」

初出:ストランドマガジン(英)1892年2月
事件の発生:1883年4月
収録:シャーロック・ホームズの冒険

そして、物語の終盤には、ホームズシリーズの中でも最も有名な短編の一つである「まだらの紐(The Speckled Band→「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1892年)に収録)」のストーリーが、ほぼ全て取り入れられているのである。

忘れてはいけないのは、今回、ホームズの助手となって活躍するホームレスの少年である凡太郎は、少年向けの物語であることに加えて、コナン・ドイル原作の「ベーカーストリート遊撃隊(Baker Street Irregulars)」の設定を踏まえていると言える。

2019年12月26日木曜日

クリスマス 2019(Christmas 2019)

UK Royal Mail stamps designed by Charlie Smith Design, featuring the illustrations by Hari & Deepti










2019年12月22日日曜日

カーター・ディクスン作「第三の銃弾」(The Third Bullet by Carter Dickson)ーその1

ハヤカワ文庫で出版されている
カーター・ディクスン作「第三の銃弾〔完全版〕」
(カバー装画: 山田 維史氏)

「第三の銃弾(The Third Bullet)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、別名義のカーター・ディクスン(Carter Dickson)で執筆の上、1937年に発表したノン・シリーズ作品の一つで、アンリ・バンコラン(Henri Bencolin)シリーズ、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズやヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズには属していない。

ロンドン市内を流れるテムズ河(River Thames)の北岸に沿って延びるヴィクトリアエンバンクメント通り(Victoria Embankment→2018年12月9日付ブログで紹介済)を見下ろすロンドン警視庁(スコットランドヤード)警視監のマーキス大佐の部屋の机の端には、

(1)チャールズ・モートレイク元判事の殺害を伝える新聞
(2)マーキス大佐の部下であるジョン・ペイジ警部の報告書
(3)2挺の拳銃(アイヴァー・ジョンソン38口径リヴォルヴァーとベルギー製のブローニング32口径オートマティック)

が置かれていた。
まだ朝の11時前であったが、外はうすら寒い雨模様の天気で、机の上では電気スタンドがつけられ、ペイジ警部からマーキス大佐に対して、事件の報告が行われていた。

チャールズ・モートレイク氏は、高等法院王座部の判事で、ロンドン中央刑事裁判所(Central Criminal Court→2016年1月17日付ブログで紹介済)に奉職し、先般退官。
退官前、モートレイク氏は、第一法廷で殺人等の重罪を担当しており、ゲイブリエル・ホワイトという青年に対して、強盗傷害罪で、15回の鞭打ちと18ヶ月間の重労働という刑罰を言い渡し、ホワイトからその場で脅迫を受けていた。
ホワイトは、刑務所から仮釈放で出所すると、昨日の夕方、ロンドン北西部のハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるモートレイク邸内に侵入し、午後5時半頃、離れの書斎において、モートレイク元判事に向けて、所持していた拳銃を発砲。モートレイク元判事は胸を撃たれて、死亡。

ペイジ警部と彼の部下であるボーデン部長刑事ん二人は、ちょうどその事件現場に居合わせて、ホワイトがモートレイク元判事を拳銃で殺害したということ以外には考えられない状況であったが、実際のところ、そうは思えない事実が出てきて、非常に不可思議な事件であった。

2019年12月21日土曜日

山本周五郎作「シャーロック・ホームズ」–その2

時代小説で知られる山本周五郎(1903年ー1967年)作
「ちいさこべ」を含む中編4編が収録された新潮文庫
(カバー装画: 横田 美砂緒氏)

警察庁の村田刑事課長からの依頼に基づいて、彼と一緒に、殺害現場である丸の内仲通りの五号館の3階の部屋に赴いたシャーロック・ホームズは、早速、現場検証を行うと、

(1)被害者である婦人は、殺害現場であるこの部屋へ一人でやって来たこと
(2)この部屋には、背の高さが180cm近くの相当な老人で、灰色の外套を着た肥った男が既に待っていたこと
(3)婦人と老人の両名は、この部屋で烈しく口論を行なったこと
(4)その後、老人は、婦人をこの部屋に残したまま、出て行ったこと
(5)老人が部屋から去った後、3階の窓から奇怪な小男が部屋の中に侵入して来て、吹き矢で毒矢を吹き付け、婦人を殺害したこと
(6)婦人を殺害した後、小男は侵入して来た窓から逃げ去ったこと

を忽ち看破するのであった。

五号館の前で村田刑事課長と別れたホームズが、一旦、ホテルへ帰ろうとしたところ、ホームレスの少年である凡太郎に声をかけられる。彼がこの事件の発見者であることを知ったホームズは、凡太郎に協力を求め、一緒に事件の捜査を進めることになる。

ホームズが密かに英国から来日した目的は、英国と日本が正当な所有権を有する「モンゴール王の宝石」を探し出すためであった。「モンゴール王の宝石」の隠し場所を知るためには、四つに分割された地図を全て手に入れる必要があった。

丸の内仲通りにある五号館の3階の部屋で殺害されたのは、男爵家を継いでいる真田市治郎氏の妹の八重子で、ある事務官に嫁いで満州へ行き、夫と死別した後も、18年の間、満州に留まり、昨年の春、日本に戻ったばかりだった。
一昨日の朝、彼女は、市治郎氏の金庫から、二人の父親である真田信吉氏(約40年前の日清戦争(1894年ー1895年)の際、奥蒙古地方で特殊任務に従事)の遺品で、銀製の小さなケースを勝手に持ち出していたのである。実は、この銀製の小さなケースの中に、「モンゴール王の宝石」の隠し場所を示す地図の 1/4 が入ったいたのである。

丸の内仲通りにある五号館において、八重子が殺害された事件の裏では、灰色外套の老人(寒石麒)、そして、四つの地図の独占を目論むロンドン警視庁のお尋ね者で、英国の犯罪王であるディック・ドノベンと彼の部下であるヒギンスが暗躍していた。

2019年12月15日日曜日

山本周五郎作「シャーロック・ホームズ」–その1

2018年12月に新潮社から出版された
「周五郎少年文庫 木乃伊(ミイラ)屋敷の秘密 怪奇小説集」の表紙
(カバー装画: 影山 徹氏)

「樅の木は残った」(1954年ー1958年)、「赤ひげ診療譚」(1958年)、「五辯の椿」(1959年)、「青べか物語」(1960年)や「季節のない街」(1962年)等の作品(特に、時代小説ー市井に生きる
庶民や名もなき流れ者を書いた作品)で知られる日本の小説家である山本周五郎(本名:清水三十六 1903年ー1967年)は、異色ではあるが、「新少年」の1935年12月別冊附録に「シャーロック・ホームズ」というホームズのパスティーシュを発表している。
当作品は、2018年12月に新潮社から出版された「周五郎少年文庫 木乃伊(ミイラ)屋敷の秘密 怪奇小説集」に収録されている200ページ弱の中編である。

深夜の1時過ぎ、ホームレスの少年 凡太郎は、森閑と静まりかえって、犬の影も見えない丸の内仲通りのビル街を歩いていた。彼は、昼のうちは、ビル街の使い走りをして、駄賃を貰い、生活の糧とし、夜になると、ビル街の建物の隅へ潜り込んで寝るという風来坊の生活を続けていた。

凡太郎が五号館の建物の前まで来ると、その3階の窓に灯火の火がチラチラと動いているのが見えた。五号館が半年前から空き家であることを知っている凡太郎が不審に思っていると、突然、その3階から助けを求める女性の悲鳴が聞こえてきた。
凡太郎が、脱兎の如く、3階まで駆け上がると、蝋燭(ろうそく)の光が漏れてくる右端の部屋の中には、一人の婦人が仰向けに倒れており、彼女の顔は物凄い死の苦痛に歪んでいた。彼が素早く室内を見廻したものの、どこにも人の居る気配はなかった。
丸の内警察署へ知らせるべく、凡太郎が夢中で階段を駆け下りて、五号館の外へ走り出ると、怪しい男がよろよろと左右とよろめきながら、次第に闇の彼方へ遠ざかって行くのが見えた。酔っぱらいだと思った凡太郎は、警察署へと急ぐため、その男の側をそのまま走り抜けたのであった。

翌朝の午前9時、警察庁刑事課長の村田俊一は、丸の内の帝国ホテル、その15号室に、3週間程前から滞在している英国人ウィリアム・ペンドルトンの元を訪れた。ウィリアム・ペンドルトンという名前は偽名であって、実は、彼は英国の名探偵シャーロック・ホームズで、ある目的のため、英国からはるばると海を渡って、密かに日本へと来ていたのである。

警察庁の村田刑事課長は、シャーロック・ホームズに対して、前夜、丸の内仲通りにある五号館で発生した殺人事件の捜査を依頼した。

2019年12月14日土曜日

北原尚彦作「シャーロック・ホームズの蒐集」(’The Collection of Sherlock Holmes’ by Naohiko Kitahara)–その2

「シャーロック・ホームズの蒐集」の創元推理文庫版の表紙
カバーイラスト: 鈴木 康士氏
           カバーデザイン: 岩郷 重力氏+K.K

日本のミステリー/SF/ホラー小説家、翻訳家で、古書研究家でもある北原尚彦氏(1962年ー)は、「シャーロック・ホームズの蒐集(The Collection of Sherlock Holmes)」を執筆する際、「シャーロック・ホームズの功績(The Exploits of Sherlock Holmes)」を一番手本にしたと語っている。

「シャーロック・ホームズの功績」は、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の息子(三男)で、レーサー、探検家、そして、作家でもあったエイドリアン・マルコム・コナン・ドイル(Adrian Malcolm Conan Doyle:1910年ー1970年)とサー・アーサー・コナン・ドイルに傾倒して、彼の評伝「コナン・ドイル」を執筆し、1950年に MWA 賞を特別賞を受賞した米国の推理作家で、アンリ・バンコラン(Henri Bencolin)シリーズ、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズやヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズ等で知られるジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)の二人が合作して、1954年に刊行したシャーロック・ホームズのパスティーシュである。

エイドリアン・コナン・ドイルとジョン・ディクスン・カーは、サー・アーサー・コナン・ドイルの正典において言及されていた「語られざる事件」の中から12編を選び、正典を仔細に研究し、詳細な設定をした上で、1952年から1953年にかけて執筆を行なった。
ただし、ジョン・ディクスン・カーが途中でエイドリアン・コナン・ドイルと執筆方針で喧嘩をした挙句、彼が当時患っていた病気により体調が芳しくなかったため、12編のうち、6編が完成した段階で、執筆から降りてしまった。そのため、残りの6編については、エイドリアン・コナン・ドイルが単独で書き上げている。

上記のような経緯はあったものの、「シャーロック・ホームズの功績」は、正典の記録者であるジョン・H・ワトスンによる筆致そのままの上質なパスティーシュと、一般に評価されている。

2019年12月8日日曜日

北原尚彦作「シャーロック・ホームズの蒐集」(’The Collection of Sherlock Holmes’ by Naohiko Kitahara)–その1

「シャーロック・ホームズの蒐集」の創元推理文庫版の表紙
カバーイラスト: 鈴木 康士 氏
           カバーデザイン: 岩郷 重力 氏+K.K

「シャーロック・ホームズの蒐集(The Collection of Sherlock Holmes)」は、日本のミステリー/SF/ホラー小説家、翻訳家で、古書研究家でもある北原尚彦氏(1962年ー)が、2014年11月に東京創元社から刊行したシャーロック・ホームズのパスティーシュ(連作短編集)である。
当作品は、2015年に第68回日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)の候補となり、2018年3月に文庫化されている。

「シャーロック・ホームズの蒐集」には、以下の6編が収録されており、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)が執筆した正典(長編:4+短編:56)における「語られざる事件」を題材にしている。

(1)遅刻しがちな荷馬車事件
「独身の貴族(The Noble Bachelor→「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventure of Sherlock Holmes)」(1892年)に収録)」において、「例のグローヴナースクエア(Grosvenor Square→2015年2月22日付ブログで紹介済)の家具運搬事件」として言及されている事件を題材にしている。

(2)結ばれた黄色いスカーフの事件
「金縁の鼻眼鏡(The Golden Pince-Nez→「シャーロック・ホームズの帰還(The Return of Sherlock Holmes)」(1905年)に収録)」において、「アドルトンの悲劇」として言及されている事件を題材にしている。

(3)ノーフォークの人狼卿の事件
「恐怖の谷(The Valley of Fear)」(1915年)において、「スコットランドヤードのアレック・マクドナルドがまだ一介の若手刑事だった頃に、ホームズが彼に協力して解決した事件」と言及されている話を題材にしている。

(4)詮索好きな老婦人の事件
「五つのオレンジの種(The Five Orange Pips→「シャーロック・ホームズの冒険」に収録)」において、「パラドール・チェンバーの怪事件」として言及されている事件を題材にしている。

(5)憂慮する令嬢の事件
「孤独な自転車乗り(The Solitary Cyclist→「シャーロック・ホームズの帰還」に収録)」において、「煙草王として知られる百万長者ジョン・ヴィンセント・ハーデンに対して、奇怪な迫害が加えられた事件」と言及されている話を題材にしている。

(6)曲馬団の秋分の事件
「サセックスの吸血鬼(The Sussex Vampire→「シャーロック・ホームズの事件簿(The Case-Book of Sherlock Holmes)」(1927年)に収録」において、「サーカスの美女ヴィットリアが関わった事件」として言及されてる話を題材にしている。

北原尚彦氏は、日本シャーロック・ホームズクラブの会員で、世界中のシャーロック・ホームズ関連の書籍収集でも有名な日本有数のシャーロキアンである。また、彼は、サー・アーサー・コナン・ドイル作品やホームズ関連のアンソロジーを数多く編纂/翻訳している。
それもあって、「シャーロック・ホームズの蒐集」は、ホームズのパスティーシュとして、サー・アーサー・コナン・ドイルによる正典の雰囲気にかなり近づけられており、正典に引けを取らない位、出来が良く、上質なパスティーシュである。

2019年12月7日土曜日

島田荘司作「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」(’A Study in 61 : Soseki and the Mummy Murder Case in London’ by Soji Shimada)–その4

集英社ハードーカバー版(1984年9月)の表紙

スコットランドヤードのレストレード警部から事件の発生を知らせる電報を受け取ったシャーロック・ホームズは、ジョン・H・ワトスンと一緒に、メアリー・リンキイが住むロンドン北西部にあるプライオリーロード(Priory Road→2019年10月13日付ブログで紹介済)へと急いだ。

ホームズとワトスンを乗せた辻馬車がメアリー・リンキイ邸に到着し、いかめしい飾りの付いた鉄の門を抜け、大理石の車寄せのある玄関へと向かうと、そこには二人を待ち構えるレストレード警部が立っていた。
ホームズとワトスンの二人は、早速、レストレード警部にメアリー・リンキイ邸の二階のほぼ中央に該り、廊下に沿って四つ並んだ部屋のうち、西側から二つ目の部屋へと案内された。問題の部屋の前に立つと、ぷーんと焦げ臭い匂いがした。

レストレード警部に促されて、ホームズとワトスンの二人が問題の部屋へ入ると、部屋の中のあらゆるものが焦げていて、茶褐色か黒色に変色していた。しかし、ホームズは、周囲のものに目もくれず、ベッドへ一直線に向かった。
ホームズが向かったベッドの上には、パジャマを着たミイラが横たわっていたのである。パジャマから覗く胸元、顔、そして、手足の先は、骨と皮だけで、水分がすっかりと抜けて、ミイラとなっていた。ベッドのシーツは、所々火がくすぶった跡があったが、ミイラが着ていたパジャマは、ほとんど燃えていなかった。

ミイラの左の額から眉にかけて、斜めに大きな傷跡があったため、一昨日の2月6日、ベーカーストリート221Bを訪れたメアリー・リンキイの話によれば、ベッドの上に横たわるミイラは、彼女の弟であるキングスレイだと思われた。メアリー・リンキイの話では、最近、かなり痩せて、体からみるみると肉が落ちて、骨と皮のようになってきたとは言え、一夜のうちに、キングスレイは、からからに干上がって、完全なミイラと化していたのである。非常に奇怪千万な事件と言えた。
その上、スコットランドヤードのレストレード警部達は、ミイラの喉から、ランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)で出している便箋の切れ端に、少し文字がかすれているものの、「61」という数字らしきものが書かれた紙片を発見したのであった。

メアリー・リンキイの弟キングスレイは、一体どうやって、一夜のうちに、完全なミイラと化したのであろうか?また、ミイラの喉から出てきた紙片に書かれていた「61」という数字らしきものは、何を意味しているのだろうか?
ホームズは、一夜にして、キングスレイがミイラになってしまった奇怪な事件に挑む。そして、日本から英国へ留学中の夏目漱石(本名:夏目金之助 1867年ー1916年)が、事件の解決に一役買うことになる。

集英社文庫版(1987年10月)の表紙

「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」は、全部で13の章から成る物語で、奇数章では、夏目漱石が語り手となり、偶数章では、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arther Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)によるホームズシリーズのスタイル通り、事件の記録者であるワトスンが語り手となって、二人の語りが交互に続く。
夏目漱石が語り手となる奇数章において、物語のクライマックスの直前に該る第11章まで、ホームズをコカイン中毒で精神に異常をきたした人物として描いていて、名探偵としての活躍は、全く見られない。その一方、ワトスンが語り手となる偶数章においては、通常通り、ホームズを名探偵として描いており、章毎にホームズの造形が大きく変動して、その趣向が面白い。

最終章である第13章において、英国留学を終えた夏目漱石は、日本への帰国の途に着くのである。正直ベース、謎の紙片を含む事件そのものやその解決については、概ね予測がつくため、作者である島田荘司氏による御手洗潔シリーズ(「占星術殺人事件」(1981年)、「斜め屋敷の犯罪」(1982年)、「ロシア幽霊軍艦事件」(2001年)や「摩天楼の怪人」(2005年)等)に見られるような奇想天外な内容はないものの、第13章の終盤には、「そこに繋がるのか!」というようなトリック以上のオチが待っているのである。

2019年11月7日木曜日

島田荘司作「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」(’A Study in 61 : Soseki and the Mummy Murder Case in London’ by Soji Shimada)–その3


毎週、個人教授を受けているウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare:1564年ー1616年)の研究者であるウィリアム・ジェイムズ・クレイグ(William James Craig:1843年ー1906年)からの提言を受けて、夏目漱石(本名:夏目金之助 / 1867年ー1916年)は、ベーカーストリート221Bを訪ね、シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンに対して、自分が体験した不可解な出来事について相談した。すると、ホームズは夏目漱石に対して、「僕の考えが間違っていなければ、その幽霊は二度とあなたのところには現れない確率が随分と高いように思いますね。」と答えるのであった。



ホームズの簡単な説明にがっかりして、夏目漱石が帰って行ったのと入れ違うように、裕福そうな身なりの婦人が、事件の相談のために、ホームズの元を訪ねて来た。
彼女の名前はメアリー・リンキイ(旧姓:ホプキンス)で、現在、40歳。昨年の9月に彼女は御主人を亡くし、ロンドン北西部のプライオリーロード(Priory Road→2019年10月13日付ブログで紹介済)沿いの土地屋敷を相続して、現在、そこに執事夫婦と三人暮らしをしている、と言う。
彼女には、10代の頃に生き別れになった6歳違いの弟が居て、生きていれば、現在、34歳になる筈、とのこと。彼女としては、苦しい生活の末、運良く、一応以上の生活の安定を得たため、弟を捜し出そうとして、新聞に尋ね人の広告を出したところ、暫くの間、全く反応がなかったが、尋ね人捜しを職業としているジョニー・ブリッグストンと名乗る男性が彼女の元を訪ねて来た。ジョニー・ブリッグストンが経験豊富な人物に思えたメアリー・リンキイは、彼に弟ギングスレイを捜すように依頼したのである。



1ヶ月程して、メアリー・リンキイは、ジョニー・ブリッグストンから、弟ギングスレイが見つかった旨の電報を受け取った。そこで、彼女は、弟が住むスコットランドのエディンバラ(Edinburgh)へ大急ぎで出かけた。ジョニー・ブリッグストンに連れられて、雪原の中にポツンと建った粗末な小さい一軒家で、彼女が会った弟のギングスレイは、すっかりと老けた上に痩せていて、昔の面影はほとんどなかったが、亡くなった父から二人がもらったお揃いのロケットと父母の写真を持っていたので、彼女には直ぐに弟と判った。
弟のギングスレイはまだ独身だったため、メアリー・リンキイは、彼に対して、自分の屋敷で一緒に暮らすように話した。彼は、彼女の話に応じて、ロンドンのプライオリーロードへと引っ越して来たが、エディンバラの一軒家内にあった大量の東洋の骨董品も一緒に運び込んだ。彼は、長い間、中国へ行っていたとのことで、これらの骨董品は全て中国で買い込んだようだったが、何故か、中国時代のことは尋ねられても、あまり話したがらなかったのである。ギングスレイは、中国時代、自分に対して、あまり胸を張れる仕事をしていなかったのはないかと、メアリー・リンキイは考えていた。



ギングスレイがエディンバラの一軒家から運び込んだ東洋の骨董品の中に、中国の独特な装飾が施された長行李があり、彼は特にそれを大事にしているようだったので、メアリー・リンキイは、前々から非常に気になっていた。そこで、彼女は、ある日、弟の部屋に入って、彼に無断で長行李を開けたのである。長行李は厳重にロープで縛ってあったが、中には東洋の絹のようなものが一杯詰まっていて、その下に絹で包んだ古い仏像のようなものがほんの少し見えた。その時、背後から弟のギングスレイがやって来て、恐ろしい勢いで長行李の蓋を閉めると、真っ青な顔になった。
それ以来、ギングスレイはすっかりとふさぎ込むようになり、あまり眠っているとは思われず、呪文ともうわ言ともつかないことをぶつぶつと言いながら、一日中、部屋の中で強い匂いの香をたくようになった。終いには、ギングスレイは、中国製のナイフの柄を両手で握り、切っ先を左の眉の上辺りの額に当てがうと、自分の顔の左の額から左の眉にかけてを、斜めに切り裂くという自刃騒ぎまで起こしたのである。



メアリー・リンキイがホームズの元を訪ねた日の翌々日である2月8日、ホームズは、スコットランドヤードのレストレード警部から電報を受け取り、ワトスンと一緒に、プライオリーロードのメアリー・リンキイ邸へと呼び出された。非常に不可解な事件が発生したのである。


2019年11月3日日曜日

ジョン・ディクスン・カー作「曲がった蝶番」(The Crooked Hinge by John Dickson Carr)–その1

東京創元社が発行する創元推理文庫「曲がった蝶番」の表紙−
カバーイラスト:榊原 一樹氏
カバーデザイン:本山 木犀氏

「曲がった蝶番(The Crooked Hinge)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1938年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第9作目に該る。当作品は、1938年に米国のハーパー社(Harper)から、そして、同年に英国のハーミッシュ・ハミルトン社(Harmish Hamilton)から出版された。

1937年7月29日(水)、英国ケント州(Kent)マリンフォード村の庭を見渡す窓辺で、作家のブライアン・ペイジは、「イングランドの主席裁判官列伝」を執筆していた。ふと目を上げると、ファーンリー邸へと続く道を、彼の友人で、州都メイドストン(Maidstone)の事務弁護士であるナサニエル・バローズが運転する車が、猛スピードでこちらへ向かって来るのが、目に入った。

ブライアン・ペイジの部屋に入って来たナサニエル・バローズは、暑い昼にもかかわらず寒そうで、かなり青ざめて見えた。ナサニエル・バローズは、準男爵であるサー・ジョン・ファーンリー(Sir John Farnleigh)の顧問弁護士を務めているが、彼によると、「本物のジョン・ファーンリーだと名乗る人物が現れた。」とのことだった。

現在のサー・ジョン・ファーンリーは、1897年にサー・ダドリとレディー・ファーンリーの次男として生まれた。嫡子のダドリー・ジュニアは優等生だったが、ジョンは不機嫌で、無口で、愛想がなく、非常に気難しかった。ジョンは、以前から魔術や悪魔崇拝といった神秘学を熱心に学んでいて、父のサー・ダドリーは心良く思っていなかった。ジョンは、イートン校を放校になった上に、1912年、15歳でメイドストンのバーのウェイトレスとのスキャンダルが明るみに出て、サー・ダドリーは、次男のジョンを悪魔崇拝をしていたファーンリー一族の先祖返りで、矯正できないと考え、米国で暮らしているレディー・ファーンリーの従兄弟であるレンウィックのところへ追いやり、二度と会わないようにした。

ジョンがイートン校から放校された後、ケネット・マリーという22~23歳の青年が、ジョンの家庭教師として、ファーンリー邸に来ていた。犯罪科学を趣味としていたケネット・マリーに、ジョンは惹きつけられ、マリーの言うことだけは聞いていた。偶然なことに、ケネット・マリーにバミューダのハミルトンにある学校の副校長という非常に魅力的な勤め口の話が舞い込んだため、ケネット・マリーは、ジョンと一緒に、ニューヨークまで旅をして、そこでジョンをレディー・ファーンリーの従兄弟に引き渡した後、バミューダへと向かうことになったのである。

不幸なことに、ジョン・ファーンリーとケネット・マリーが英国から米国へと向かうために乗船したのは、不沈船と呼ばれたあのタイタニック号だった。英国から米国への航行中、氷山に衝突したタイタニック号は、1912年4月15日の夜、大西洋上で沈没したのである。その際、ジョン・ファーンリーとケネット・マリーは離ればなれになったが、ケネット・マリーの方は、木の格子につかまって、凍える海を18時間もの間漂流した後、バミューダ行きの貨物船コロフォーン号に救助され、本来の目的地であるバミューダへそのまま連れて行かれた。一方、ジョン・ファーンリーは、ニューヨーク行きのイトラスカ号に救助され、到着地でレディー・ファーンリーの従兄弟に迎えられた後、コロラド州で25年近く農夫として暮らした。以降、ジョン・ファーンリーとケネット・マリーが再会することはなかった。

英国では、レディー・ファーンリーが1926年に、そして、サー・ダドリーが1930年に亡くなり、嫡子のダドリー・ジュニアが称号と全ての領地を引き継いだが、結婚しないまま、1935年8月に食中毒で世を去った。そのため、1936年、ジョン・ファーンリーは、ファーンリー家の継承者として、ケント州マリンフォード村へ戻って来て、幼い頃から彼にぞっこんだったモリー・ビシップと同年5月に結婚し、1年余りが経過したのが、今の状況だった。

2019年10月20日日曜日

カーター・ディクスン作「白い僧院の殺人」(The White Priory Murders by Carter Dickson)–その4

東京創元社が発行する創元推理文庫「白い僧院の殺人」内に付されている
「白い僧院」と「王妃の鏡」の位置関係図
                                        地図原案:高沢 治氏
                                        地図作成:TSスタジオ

英国の陸軍省情報部長の要職にある伯父のヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)のオフィスを訪ねた後、米国の外交官であるジェイムズ・ボイントン・ベネットは、義理で招待を受けたパーティーを途中で退席すると、早朝、サリー州(Surrey)エプサム(Epsom)へと車を走らせた。迷路のようなロンドン市街を抜け出した後、道に迷ってしまい、午前6時半頃、寒さに震えながら、小さな地図を頼りにして、雪で滑る道を車を飛ばしていた。間もなく、東の空が白み始め、星の明かりも薄らいで、夜が明けてきた。

灰色の景色の中に、白い道標が見えたので、ジェイムズ・ベネットは、ギアをローに入れなおすと、両側に木々が鬱蒼と生い茂る狭い道を進み、「白い僧院」左手の近代的な屋根付き車寄せに自分の車を駐めた。すぐ近くには、女優のマーシャ・テイト(Marcia Tait)が主演する新作芝居の製作を務めるジョン・ブーンの車ヴォクスホールが既に停まっていた。
屋根付き車寄せからは、三本の道が出ていて、右側の一本目は、屋敷の裏へと回り、真ん中の二本目は、常緑樹の並木道が見える緩斜面へと繋がっていた。そして、左側の三本目は、厩舎らしい低い屋根が見える辺りへと続いていた。その方角から、犬の遠吠えが聞こえた。

馬丁の呼ぶ声に対して、ジョン・ブーンの声が答える。真ん中の二本目の道の方からだった。ジェイムズ・ベネットは、常緑樹の狭い並木道をカーブしながら下って行くと、その先には、円形の低木林が広がっていた。その中央には、マーシャ・テイトが宿泊している別館「王妃の鏡(Queen’s Mirror)」があった。足許の積雪は半インチ程で、ジェイムズ・ベネットの前には、「王妃の鏡」へと一筋の足跡が続いていた。

ジェイムズ・ベネットが「王妃の鏡」に近付くと、戸口からぬっと人影が現れた。彼が予想した通り、ジョン・ブーンだった。ジョン・ブーンに連れられて、ジェイムズ・ベネットが「王妃の鏡」内に入ると、そこには、頭を強打されたマーシャ・テイトの死体が横たわっていたのである。
別館「王妃の鏡」の周囲は、氷った人工池と深夜に降り積もった雪に覆われていて、その新雪の上に残されていたのは、死体の発見者であるジョン・ブーンと、たった今到着したばかりのジェイムズ・ベネットの二人の足跡だけで、他には何もなかった。

ところが、死体を検死したところ、マーシャ・テイトの死亡推定時刻は午前3時から午前3時半の間と判明したが、それでは、雪が止んだ午前2時から1時間以上も後ということになる。そうなると、マーシャ・テイトを殺害した犯人は、どのようにして自分の足跡を全く残さないで、別館「王妃の鏡」内に侵入の上、マーシャ・テイトを殺害した後、そこから脱出できたのか?ジェイムズ・ベネットには、皆目見当がつかなかった。
「雪の密室」という謎に対して、ジェイムズ・ベネットのことを案じて、「白い僧院」へとやって来たヘンリー・メリヴェール卿が挑む。

明智小五郎シリーズ等で有名な日本の推理作家である江戸川乱歩(1894年ー1965年)は、「別冊宝石」(1950年8月)で行った「カー問答」において、カーの作品を第1グループ(最も評価が高い作品群)から第4グループ(最もつまらない作品群)までグループ分けしていて、「白い僧院の殺人(The White Priory Murders)」(1934年)を第2グループ(7作品)の2番目に位置付けている。本作品について、江戸川乱歩は、「犯人の足跡がないという不思議を変なメカニズムなんか使わないで、心理的に巧みに構成している。私はこれはカーの発明したトリックの内で最も優れたものの一つと考えている。」と高く評価している。

2019年10月13日日曜日

ロンドン プライオリーロード(Priory Road)


1900年(明治33年)5月、夏目漱石(本名:夏目金之助 / 1867年ー1916年)は、英語教育法研究のため、文部省より英国への留学を命じられ、同年9月10日に日本を出発して、同年10月28日、英国に辿り着いた。晩秋の倫敦(ロンドン)で、彼は留学生活を始めることとなった。


夏目漱石は、当初、ロンドン中心部のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内のガウワーストリート(Gower Street)沿いの下宿に入り、一旦荷を解いたが、下宿代が非常に高かったため、もっと安い下宿を早急に探す必要があった。
夏目漱石が2番目の下宿に決めたのは、ロンドン北西部のサウスハムステッド地区(South Hampstead)内にあるプライオリーロード(Priory Road)の高台にあった。そして、同年11月12日、彼はガウワーストリートの下宿から新しい下宿へと移って来た。


夏目漱石がプライオリーロードの下宿に移って来て、少し経った同年12月初旬のある夜、彼が寝床でうとうとしていると、パチンと何かが爆ぜるような不審な物音を聞いたのである。最初はごく小さな音だったが、次第に大きくなってくるように聞こえた。当初は不審な物音だけだったが、息遣いのような音が更に聞こえてきて、次の夜には、「出て行け…。この家から出て行け…」という囁くような声に変わった。


これが、日本の推理小説家 / 小説家である島田荘司(1948年ー)氏が1984年に発表した推理小説「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」(’A Study in 61 : Soseki and the Mummy Murder Case in London’ by Soji Shimada)の冒頭の話である。
物語では、その後、恐ろしい呪いをかけられた弟キングスレイ・ホプキンスが一夜にしてミイラになってしまうという奇怪な事件が発生するが、その事件が発生した姉のメアリー・リンキイが住む屋敷が、プライオリーロード沿いに所在している。


プライオリーロードは、実在する通りで、ロンドン北西部のサウスハムステッド地区(South Hampstead)内に所在している。
プライオリーロードの北側は、ジュビリーライン(Jubilee Line)が通る地下鉄フィンチリーロード駅(Finchley Road Tube Station)と地下鉄ウェストハムステッド駅(West Hampstead Tube Station)を東西に結ぶブロードハーストガーデンズ通り(Broadhurst Gardens)から始まり、サウスハムステッド地区内を南下。プライオリーロードは、ビートルズ(Beatles)が発表したアルバム「アビーロード(Abbey Road)」のカバー写真でも有名なアビーロード(Abbey Road)を横切った後、同じくジュビリーラインが通る地下鉄スイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)から西方面へ延びるベルサイズロード(Belsize Road)と交差したところで、プライオリーロードの南側は終わっている。


現在、プライオリーロードの両側には、一軒家やフラットが建ち並び、住宅街となっている。島田荘司氏作「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」では、夏目漱石により、リンキイ邸について、「行く手の霧の中に、いかにも貴族の館であるといったような、金属細工の装飾も派手派手しい鉄の門が近づいてきた。」や「門をくぐると邸内は広大な敷地である。上野のお山全部ほどもありそうだ。」と記述されている。残念ながら、プライオリーロードの両側には、現在、そういった広大な敷地を有する邸宅は存在していない。


夏目漱石は、「リンキイ邸は以前の自分の下宿のすぐ近所である。歩けば十分もかからぬと思われる。」と述べている通り、彼は、英国留学中(1900年ー1902年)、1900年11月中旬に、最初の下宿(ガウワーストリート)から2番目の下宿(プライオリーロード)へと移って来たが、同年12月には、テムズ河(River Thames)南岸のキャンバーウェル地区(Camberwell→2017年12月9日付ブログで紹介済)内にあるフロッデンロード(Flodden Road)沿いにある下宿へと、また引っ越している。