2019年11月3日日曜日

ジョン・ディクスン・カー作「曲がった蝶番」(The Crooked Hinge by John Dickson Carr)–その1

東京創元社が発行する創元推理文庫「曲がった蝶番」の表紙−
カバーイラスト:榊原 一樹氏
カバーデザイン:本山 木犀氏

「曲がった蝶番(The Crooked Hinge)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1938年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第9作目に該る。当作品は、1938年に米国のハーパー社(Harper)から、そして、同年に英国のハーミッシュ・ハミルトン社(Harmish Hamilton)から出版された。

1937年7月29日(水)、英国ケント州(Kent)マリンフォード村の庭を見渡す窓辺で、作家のブライアン・ペイジは、「イングランドの主席裁判官列伝」を執筆していた。ふと目を上げると、ファーンリー邸へと続く道を、彼の友人で、州都メイドストン(Maidstone)の事務弁護士であるナサニエル・バローズが運転する車が、猛スピードでこちらへ向かって来るのが、目に入った。

ブライアン・ペイジの部屋に入って来たナサニエル・バローズは、暑い昼にもかかわらず寒そうで、かなり青ざめて見えた。ナサニエル・バローズは、準男爵であるサー・ジョン・ファーンリー(Sir John Farnleigh)の顧問弁護士を務めているが、彼によると、「本物のジョン・ファーンリーだと名乗る人物が現れた。」とのことだった。

現在のサー・ジョン・ファーンリーは、1897年にサー・ダドリとレディー・ファーンリーの次男として生まれた。嫡子のダドリー・ジュニアは優等生だったが、ジョンは不機嫌で、無口で、愛想がなく、非常に気難しかった。ジョンは、以前から魔術や悪魔崇拝といった神秘学を熱心に学んでいて、父のサー・ダドリーは心良く思っていなかった。ジョンは、イートン校を放校になった上に、1912年、15歳でメイドストンのバーのウェイトレスとのスキャンダルが明るみに出て、サー・ダドリーは、次男のジョンを悪魔崇拝をしていたファーンリー一族の先祖返りで、矯正できないと考え、米国で暮らしているレディー・ファーンリーの従兄弟であるレンウィックのところへ追いやり、二度と会わないようにした。

ジョンがイートン校から放校された後、ケネット・マリーという22~23歳の青年が、ジョンの家庭教師として、ファーンリー邸に来ていた。犯罪科学を趣味としていたケネット・マリーに、ジョンは惹きつけられ、マリーの言うことだけは聞いていた。偶然なことに、ケネット・マリーにバミューダのハミルトンにある学校の副校長という非常に魅力的な勤め口の話が舞い込んだため、ケネット・マリーは、ジョンと一緒に、ニューヨークまで旅をして、そこでジョンをレディー・ファーンリーの従兄弟に引き渡した後、バミューダへと向かうことになったのである。

不幸なことに、ジョン・ファーンリーとケネット・マリーが英国から米国へと向かうために乗船したのは、不沈船と呼ばれたあのタイタニック号だった。英国から米国への航行中、氷山に衝突したタイタニック号は、1912年4月15日の夜、大西洋上で沈没したのである。その際、ジョン・ファーンリーとケネット・マリーは離ればなれになったが、ケネット・マリーの方は、木の格子につかまって、凍える海を18時間もの間漂流した後、バミューダ行きの貨物船コロフォーン号に救助され、本来の目的地であるバミューダへそのまま連れて行かれた。一方、ジョン・ファーンリーは、ニューヨーク行きのイトラスカ号に救助され、到着地でレディー・ファーンリーの従兄弟に迎えられた後、コロラド州で25年近く農夫として暮らした。以降、ジョン・ファーンリーとケネット・マリーが再会することはなかった。

英国では、レディー・ファーンリーが1926年に、そして、サー・ダドリーが1930年に亡くなり、嫡子のダドリー・ジュニアが称号と全ての領地を引き継いだが、結婚しないまま、1935年8月に食中毒で世を去った。そのため、1936年、ジョン・ファーンリーは、ファーンリー家の継承者として、ケント州マリンフォード村へ戻って来て、幼い頃から彼にぞっこんだったモリー・ビシップと同年5月に結婚し、1年余りが経過したのが、今の状況だった。

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