2015年6月13日土曜日

ロンドン ヴィクトリア駅(Victoria Station)

ウィルトンロード(Wilton Road)側に面したヴィクトリア駅の入口

サー・アーサー・コナン・ドイル作「最後の事件(The Final Problem)」の冒頭、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を突然訪れた犯罪界のナポレオンと呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)に、自分から手を引くように告げられたシャーロック・ホームズは、これをキッパリと断る。そのため、ホームズはモリアーティー教授配下の者に命を狙われることになった。


1891年4月24日の昼間、オックスフォードストリート(Oxford Street)へ出かけたホームズであったが、最初は、ベンティンクストリート(Bentinck Street)とウェルベックストリート(Welbeck Street)の角で、突然暴走して来た二頭立て馬車に危うく轢き殺されそうになった。二度目は、ヴェアストリート(Vere Street)を歩いていると、ある家の屋根からレンガが落ちてきて、ホームズの足下で粉々に砕け散ったのであった。
スコットランドヤードがモリアーティー教授を含めた一味を一網打尽するまでの間、ホームズはジョン・ワトスンと一緒に欧州大陸へと身を隠すことにした。彼らはヴィクトリア駅(Victoria Station)から欧州大陸へ向かう計画をたてた。翌朝、ワトスンはホームズの指示に従って、行動を開始する。

ヴィクトリア駅の構内

翌日の朝、私はホームズの指示に忠実に従った。我々を待ち伏せしている馬車を避ける用心のために、ハンサム型馬車(二人乗り一頭立て二輪の辻馬車)を一台確保した。朝食後、私は直ぐにロウザーアーケードへ向けて出発し、道中全速力で走るよう、御者を急かした。アーケードの反対側には、黒いマントに身を包んだ非常にガッチリした体格の御者がブルーム型馬車(一頭立て四輪箱馬車)を停めて、私を待っていた。私が馬車に乗り込んだ瞬間、御者は馬に鞭を当て、ヴィクトリア駅へ向かって疾走した。ヴィクトリア駅で私が馬車から降りると、御者は馬車を返し、私の方を一瞥もしないで、再び走り去って行った。
ここまでのところは、全て非常にうまく事が運んだ。私の荷物は無事駅に到着していた。ホームズが指定した客車を見つけるのは全く難しくなかったし、客車の内で「予約済」と表示された客室はたった一つだけだったので、困ることはなかった。私の唯一の心配事は、ホームズが姿を見せないことだった。駅の時計は、我々の列車の発車時刻まであと7分を示した。私は旅行者や見送りの集団の中にホームズを探したが、彼の姿は影も形もなかったのである。

列車の発着ホーム

天井から吊り下げられている構内表示板

In the morning I obeyed Holmes's injunctions to the letter. A hansom was procured with such precaution as would prevent its being one which was placed ready for us, and I drove immediately after breakfast to the Lowther Arcade, through which I hurried at the top of my speed. A brougham was waiting with a very massive driver wrapped in a dark cloak, who, the instant that I had stepped in, whipped up the horse and rattled off to Victoria Station. On my alighting there he turned the carriage, and dashed away again without so much as a look in my direction.
So far all had gone admirably. My luggage was waiting for me, and I had no difficulty in finding the carriage which Holmes had indicated, the less so as it was the only one in the train which was marked 'Engaged'. My only source of anxiety now was the non-appearance of Holmes. The station clock marked only seven minutes from the time when we were due to start. In vain I searched among the groups of travellers and leave-takers for the little figure of my friend. There was no sign of him.

ターミナスプレイス(Terminus Place)側に面した駅ビル—
インフォメーションセンター等が入っている
手前では、2018年竣工を目指して、駅の改修工事が進められている

ヴィクトリア駅の正面入口—
手前は、ロンドン市内用バスが発着するバスターミナルになっている

ヴィクトリア駅(Victoria Station)はベルグラヴィア地区(Belgravia)内にあり、ロンドン市内ではウォータールー駅(Waterloo Station)に次いで2番目に列車の発着が多い駅である。1860年に建設された当初は、グローヴナーターミナス(Grosvenor Terminus)と呼ばれていたが、当時のヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年)に因んで、現在の名前となったものと思われる。

ヴィクトリアストリート(Victoria Street)沿いに建つ
ヴィクトリアパレス劇場(Victoria Palace Theatre)—
映画でもヒットした「ビリー・エリオット(Billy Elliot—
日本題:リトルダンサー)の講演が行われている

当駅からは、ロンドン南部、サセックス州(Sussex)やサリー州(Surrey)等へ向かうサザンライン(Southern Line)、ロンドン南東部やケント州(Kent)等へ向かうサウスイースタンライン(Southeastern Line)、そして、ガトウィック空港(Gatwick Airport)へ向かうガトウィックエクスプレス(Gatwick Express)等が出ている。
ヴィクトリア駅の正面入口前は、ロンドン市内用バスが発着するバスターミナルになっており、長距離バスが発着するヴィクトリアコーチステーション(Victoria Coach Station)は駅の裏手にある。

ヴィクトリア駅の近くにあるロウワーグローヴナーガーデン
(Lower Grosvenor Garden)内に設置されているオブジェ

また、駅の下には地下鉄ヴィクトリア駅(Victoria Tube Station)があり、サークルライン(Circle Line)、ディストリクトライン(District Line)とヴィクトリアライン(Victoria Line)の3線が乗り入れている。

2015年6月7日日曜日

ロンドン アディソンマンションズ(Addison Mansions)

オリンピア展示場の裏手ブライスロード(Blythe Road)沿いに建つフラット

第一次世界大戦(1914年ー1918年)が終わって1年が経った1919年に、実家のデヴォン(Devon)州アッシュフィールド(Ashfield)で一人娘のロザリンド(Rosalind)を出産したアガサ・クリスティーと(最初の夫である)アーチボルド・クリスティー(Archibald Christie:1889年ー1962年/通称 アーチー(Archie))は、ケンジントン区(Kensington)にアパートを見つけて、それまで住んでいたノースウィックテラス5番地(5 Northwick Terrace)から引っ越した。彼らが引っ越した先は、ケンジントン・オリンピア駅(Kensington Olympia Station)の近くで、オリンピア展示場(Olympia Exhibition Centre)の裏にあった二棟のアパート「アディソンマンションズ(Addison Mansions)」の25号室であった。

ケンジントンハイストリート側のオリンピア展示場

オリンピア展示場では、アンティーク本フェアが開催されていた

オリンピア展示場の裏側

その後、クリスティー夫妻は、中庭を挟んで別棟にあるより住環境が良い96号室へ移り、アガサ・クリスティーは4つの寝室と2つの居間の改装に取りかかった。アディソン・マンションズ96号室は、クリスティー夫妻と一人娘のロザリンドに加えて、乳母のジェシー・スワネル(Jessie Swannell)とメイドのルーシー(Lucy)が暮らすには充分な広さであった。そして、クリスティー一家はここで1922年1月まで心地良い暮らしを送った。1922年1月に、アガサ・クリスティーは、(1924年に開催予定の)大英帝国博覧会の宣伝使節の一員となったアーチボルドと一緒に、1年近く世界歴訪の旅に出かけることとなった。クリスティー夫妻は、娘のロザリンドをアガサの姉の元に預けて、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドや南アフリカ等を巡っている。

ブライスロード沿いにあるカフェ

ブライスロード沿いに建つ郵便局の集配施設—
建物の一部を大英博物館等が使用している模様

アガサ・クリスティーは、アディソンマンションズに住んでいた間、娘のロザリンドを乳母車に乗せて、ケンジントンハイストリート(Kensington High Street)を通り、ホーランドパーク(Holland Park)までよく散歩に出かけた。ただ、「乳母車を押して、ホーランドパークまで行って戻って来るのは、冗談にならない位、非常に大変だった。」と、彼女は後に述懐しているようである。
ケンジントンハイストリート沿いには街路樹が生い茂り、通りを一歩北側に入ると、ホーランドパークとケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)に挟まれた区域には、ヴィクトリア朝の住宅や大使館/領事館等が建ち並ぶ高級住宅街で、散歩するにはうってつけの場所だったと言える。

ハズリットロード(Hazlitt Road)と
マクリースロード(Maclise Road)の角に建つフラット(その1)

ハズリットロード(Hazlitt Road)と
マクリースロード(Maclise Road)の角に建つフラット(その2)

アガサ・クリスティーがアディソンマンションズに住んでいた頃(1919年ー1922年)から、近くにあった「ジョーゼフ・ライオンズ会社(Joseph Lyons and Co.)」という仕出し会社が、同社の敷地拡張のため、アディソンマンションズの取り壊しを計画しており、実際、その30年後に取り壊しが行われ、その跡地には同社の本社ビルであるキャドビーホール(Cadby Hall)が建てられたとのこと。

ただ、1970年代に入ると、同社の業績が傾き、1978年には他社に売却された後、1983年6月には本社ビルのキャドビーホールを含め、一帯の建物は取り壊されてしまったので、残念ながら、今現在、当時の面影は全く残っていない。

ライオンズウォーク—
当時あった仕出し会社の名前が通り名に残っている

2015年6月6日土曜日

ロンドン モーティマーストリート(Mortimer Street)

モーティマーストリートを東方面に望む―
突き当たりは、リージェントストリート

サー・アーサー・コナン・ドイル作「最後の事件(The Final Problem)」の冒頭、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を突然訪れた犯罪界のナポレオンと呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)に、自分から手を引くように告げられたシャーロック・ホームズは、これをキッパリと断る。そのため、ホームズはモリアーティー教授配下の者に命を狙われることになった。



1891年4月24日の昼間、オックスフォードストリート(Oxford Street)へ出かけたホームズであったが、最初は、ベンティンクストリート(Bentinck Street)とウェルベックストリート(Welbeck Street)の角で、突然暴走して来た二頭立て馬車に轢き殺されそうになった。二度目は、ヴェアストリート(Vere Street)を歩いていると、ある家の屋根からレンガが落ちてきて、ホームズの足下で粉々に砕け散ったのであった。
スコットランドヤードがモリアーティー教授を含めた一味を一網打尽にするまでの間、ホームズはジョン・ワトスンと一緒に欧州大陸へと身を隠すことにした。彼らはヴィクトリア駅(Victoria Station)から欧州大陸へ向かう計画である。ホームズからワトスンへの説明は続く。

南北に走るグレイトティッチフィールドストリート
(Great Titchfield Street)から見たモーティマーストリート

「どこで君と落ち合えばいいんだい?」
「ヴィクトリア駅でだ。先頭から二両目の一等車を僕達用に予約しておく。」
「それじゃ、その客車で落ち合うんだな。」
「そうだ。」
私はホームズに今夜は自分の家に泊まっていくように言ってみたが、無駄だった。
ホームズは、私の家に居ると厄介事を招きかねないと考えており、そのため、私の家から立ち去るつもりであることが、私には明らかだった。明日の計画について早口で話をすると、彼は立ち上がり、私と一緒に庭へ出た。そして、彼はモーティマーストリートに続く塀を乗り越えると、すぐに笛を吹いて、ハンサム型馬車(二人乗り一頭立て二輪の辻馬車)を呼んだ。庭に居る私には、ホームズが馬車に乗って去って行く音が聞こえた。

モーティマーストリートとグレイトティッチフィールドストリートの角に
建つ建物の外壁に掛けられているブループラーク

'Where shall I meet you?'
'At the station. The second first-class carriage from the front will be reserved for us.'
'The carriage is our rendezvous, then.'
'Yes.'
It was in vain that I asked Holmes to remain for the evening. It was evident to me that he thought he might bring trouble to the roof he was under, and that that was the motive which impelled him to go. With a few hurried words as to our plans for the morrow he rose and came out with me into the garden, clambering over the wall which leads into Mortimer Street, and immediately whistling for a hansom, in which I heard him drive away.

モーティマーストリートを西方面に望む―
突き当たりは、トッテナムコートロード

モーティマーストリート(Mortimer Street)は、地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)と地下鉄トッテナムコートロード駅(Tottenham Court Road Tube Station)を結ぶオックスフォードストリート(Oxford Street)の北側にあり、東西に並行して走る通りである。
また、モーティマーストリートは、リージェンツパーク(Regent's Park)へ向かって南北に走るリージェントストリート(Regent Street)から東側に延びている。リージェントストリートの西側には、ホームズ作品に複数回登場するランガムホテル(Langham Hotelー「四つの署名」、「ボヘミアの醜聞」や「レディー・フランシス・カーファックスの失踪」に登場)やハーレーストリート(Harley Streetー「入院患者」や「悪魔の足」に登場)等がある。モーティマーストリートは東へ延びる途中、グッジストリート(Goodge Streetー「青いガーネット」に登場)と名前を変えて、トッテナムコートロード(Tottenham Court Road)に突き当たる。

モーティマーストリートとグレイトポートランドストリート
(Great Portland Street)の角に建つパブ「ザ・ジョージ(The George)

ワトスンは、複数に渡る結婚生活の都度、ベイカーストリート221Bでのホームズとの共同生活を解消しているが、パディントン駅(Paddington Station)近辺、ハーレーストリート近くのクイーンアンストリート(Queen Anne Street)や今回のモーティマーストリート等、生活のベースを変えているものの、基本的には、何かあれば、ホームズが住むベイカーストリート221B へ直ぐに駆け付けられるように、地下鉄ベイカーストリート駅(Baker Street Tube Station)に近い場所となっている。なお、今回、ワトスンがモーティマーストリートに庭が面した家に住んでいたのは、同じ道路沿いにミドルセックス病院(Middlesex Hospital)があったためかもしれない。


モーティマーストリートを南へ下ったところにある
マーケットプレイス(Market Place)―レストランが数多く営業している

モーティマーストリートは、買い物客や観光客等で賑わうオックスフォードストリートから北側にやや離れているため、発展から取り残されていた感じがあった。ただし、賃料が非常に高いオックスフォードストリート沿いを嫌った服飾関係の店舗が近年いくつかモーティマーストリート近辺にオープンしており、少しずつではあるものの、お洒落な通りとなりつつある。

マーガレットストリート(Margaret Street)と
グレイトティッチストリートの角に建つフラット
「ザ・オードレーハウス(The Audley House)」

2015年5月31日日曜日

ロンドン バルダートンストリート / ボーモントホテル(Balderton Street / The Beaumont Hotel)

ボーモントホテルの正面全景

アガサ・クリスティー作「イタリア貴族殺害事件(The Adventure of the Italian Noble Man)」(「ポワロ登場(Poirot Investigates)」(1924年)に収録)は、エルキュール・ポワロとアーサー・ヘイスティングス大尉が、自分達のフラットで隣人のホーカー医師(Dr Hawker)と話をしているところから始まる。そこにホーカー医師の家政婦が飛び込んで来る。彼女によると、患者であるフォスカティーニ伯爵(Count Foscatini)から助けを求める変な電話があったと言う。そこで、ポワロ、ヘイスティングス大尉とホーカー医師の3人は、リージェンツコート(Regent's Court)にあるフォスカティーニ伯爵のフラットへと駆け付ける。
フォスカティーニ伯爵のフラットのドアが施錠されていたため、彼らはフラットの管理人に事情を説明して、フラットのドアを開けてもらう。そして、彼らがフラット内に入ると、フォスカティーニ伯爵が大理石の像で頭を撲られて殺されているのを発見する。テーブルの上には、3人分の食事の席が整えられていたが、既に食事は終わった後のようである。


警察が到着する最中、フォスカティーニ伯爵の従者グレーヴス(Graves)が戻って来る。グレーヴスによると、前日、アスカニオ伯爵(Count Ascanio)ともう1人の男性が夕食に招待された際、フォスカティーニ伯爵と彼らの間に何か脅迫めいた会話が交わされたのを耳にしたと言う。今夜も、フォスカティーニ伯爵は同じ2人を夕食に招待し、食事が終わると、グレーヴスは急に休みを与えられたと彼は証言した。警察は、フォスカティーニ伯爵の殺害犯として、アスカニオ伯爵を逮捕する。

建物横面にあるホテル名の表示

ポワロが建物のキッチンスタッフに確認すると、メインコースのサラは3人分ともきれいになくなっていたが、サイドメニューは少ししか手がつけられておらず、更にデザートに至っては全く手がつけられていなかったことが判る。そこにポワロは違和感を抱く。ポートワインに加えて、食後のコーヒーが出されているが、撲殺されたフォスカティーニ伯爵の歯は全く汚れておらず、真っ白だった。その上、ホーカー医師に電話で助けを求めた際に撲殺されたにもかかわらず、フォスカティーニ伯爵は普通に受話器を元に戻しているのである。果たして、警察が疑う通り、脅迫行為が嵩じて、フォスカティーニ伯爵はアスカニオ伯爵に撲殺されたのか?
そして、ポワロの灰色の脳細胞が真実を導き出すのであった。

ホテル正面の車寄せ近景

英国の TV 会社 ITV1 が放映し、世界的に人気があるポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「イタリア貴族殺害事件」(1993年)の回は、ヘイスティングス大尉が、新車購入のため、ポワロを連れて、イタリア車販売店エリスコ・フレッチア(Elisco Freccia)を訪れるところから始まる。TV のストーリー上、この販売店の経営者がフォスカティーニ伯爵から脅迫を受けており、また、ヘイスティングス大尉がここで購入する新車が物語終盤の犯人追跡劇やそのオチにうまく関わってくる。

バルダートンストリートを南側から望む―
奥に見えるのは、オックスフォードストリート

ヘイスティングス大尉がポワロを伴って新車の購入にやって来た Elisco Freccia の撮影場所となったのは、ロンドンの高級地区メイフェア(Mayfair)内にあり、オックスフォードストリート(Oxford Street)を間にして、デパートのセルフリッジズ(Selfridges)の正面入口の反対側にあるバルダートンストリート(Balderton Street)に面している。オックスフォードストリート側から見た右側で、以前はレンタカーの店舗であったが、建物が全面的に改装されて、今はボーモントホテル(The Beaumont Hotel)が営業している。
オリジナルの建物は1926年の建築ということなので、「イタリア貴族殺害事件」が収録されている短編集「ポワロ登場(Poirot Investigates)」が発表された1924年とほぼ同じ頃である。
現在、ホテルの正面左手には、英国の彫刻家サー・アントニー・マーク・デイヴィッド・ゴームリー(Sir Antony Mark David Gormley:1950年ー)による3階建ての高さのオブジェが設置されている。

サー・ゴームリー作のオブジェ

アガサ・クリスティーの原作では、フォスカティーニ伯爵の殺害現場には、3人分の食事の席が整えられているが、ITV1 で放映されたポワロシリーズでは、3人分ではなく、2人分の食事の席しか準備されていないという違いがある。

2015年5月30日土曜日

ロンドン ロウザーアーケード(Lowther Arcade)

ストランド通り側から見たロウザーアーケード跡地に建つ建物群

サー・アーサー・コナン・ドイル作「最後の事件(The Final Problem)」の冒頭、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を突然訪れた「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)に、自分から手を引くように告げられたシャーロック・ホームズはこれをキッパリと断った。そのため、ホームズはモリアーティー教授配下の者に2度命を狙われた。
1891年4月24日の昼間、オックスフォードストリート(Oxford Street)へある仕事を済ませに出かけたホームズであったが、一度目はベンティンクストリート(Bentinck Street)とウェルベックストリート(Welbeck Street)の角で、暴走して来た二頭立て馬車にあやうく轢き殺されそうになった。二度目はヴェアストリート(Vere Street)を歩いていると、ある家の屋根からレンガが落ちてきて、ホームズの足下で粉々に砕け散ったのであった。
スコットランドヤードがモリアーティー教授を含めた一味全員を逮捕する態勢が整うまでの数日の間、ホームズはジョン・ワトスンと一緒に欧州大陸へ身を隠すことにした。ホームズはワトスンに対して、その計画を説明し始める。

ロウザーアーケード跡地の真ん中に建つクーツ銀行のビル

「明日の朝、出発することはできるかい?」
「必要であれば。」
「そうだ。どうしても必要なんだ。それでは、こうしてほしい。ワトスン、僕の指示に忠実に従ってくれ。何と言っても、君は僕と二人一組になって、ヨーロッパで一番頭脳が優れた悪党と強力な犯罪組織に対して、ゲームをしているんだ。それでは、僕の指示を言うよ。君が欧州大陸へ持って行く荷物については、今夜、信頼できる配達員を使って、宛先なしでヴィクトリア駅へ発送してほしい。朝、君はハンサム型馬車(二人乗り一頭立二輪の辻馬車)を呼ぶんだ。ただし、使用人には、やって来た馬車のうち、最初と二番目の馬車は捕まえないように依頼してくれ。君は馬車に飛び乗って、ロウザーアーケードのストランド通り側へ行くんだ。そして、御者にその住所を書いた紙を渡して、その紙を捨てないように頼んでほしい。料金は事前に用意しておき、馬車が停まったら直ぐにアーケードを駆け抜けて、9時15分にアーケードの反対側に着くよう、時間を調整するんだ。縁石の側に小型のブルーム型馬車(一頭立四輪箱馬車)が君を待っているはずだ。御者は赤い襟付きの黒いコートを着ている。この馬車に乗れば、大陸特急に間に合う時間に、ヴィクトリア駅に到着することができるはずだ。」

クーツ銀行のガラス張りの外壁に、
ストランド通りの反対側に建つビルが綺麗に映り込んでいる

'And to start tomorrow morning?'
'If necessary.'
'Oh yes, it is most necessary. Then These are your instructions, and I beg, my dear Watson, that you will obey them to the letter, for you are now playing a double-handed game with me against the cleverest rogue and the most powerful syndicate of criminals in Europe. Now listen! You will dispatch whatever luggage you intend to take by a trusty messenger undresses to Victoria tonight. In the morning you will send for a hansom, desiring your man to take neither the first nor the second which may present itself. Into this hansom, you will jump, and you will drive to the Strand end of the Lowther Arcade, handing the address to the cabman upon a slip of paper, with a request that he will dash through the Arcade, timing yourself to reach the other side at a quarter-past nine. You will find a small brougham waiting close to the curb, driven by a fellow with a heavy black cloak tipped at the collar with red. Into this you will step, and you will reach Victoria in time for the Continental express.'

アデレード通り側から見たロウザーアーケード跡地に建つ建物外壁


ロウザーアーケード(Lowther Arcade)はストランド通り(Strand)沿いにあり、チャリングクロス駅(Charing Cross Station)やチャリングクロスホテル(Charing Cross Hotel)とはストランド通りを間にして反対側に位置している。
ロウザーアーケードは1831年に建設されたが、現在の建物の大部分には、クーツ銀行(Coutt's and Co Bank)が入居している。クーツ銀行は1962年に創設された英国内最大のプライベートバンクである。エリザベス2世をはじめとする英国王室がクーツ銀行の顧客であり、これが同銀行を有名にしている。

ストランド通り側からアデレード通りを望む

アデレード通りに設置されているオスカー・ワイルドのオブジェ

ワトスンはストランド通り側からロウザーアーケードに入り、同内を駆け抜けて、反対側のアデレードストリート(Adelaide Street)、もしくは、ウィリアム5世ストリート(William V Street)で彼を待っていた四輪馬車に乗り込んで、ヴィクトリア駅へ向かった訳である。

2015年5月24日日曜日

ロンドン タイトストリート34番地(34 Tite Street)

真ん中の建物が、オスカー・ワイルドが住んでいた
タイトストリート16番地(現在の34番地)

「幸福な王子その他(The Happy Prince and Other Tales)」(童話ー1888年)、「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)」(小説ー1890年)、「サロメ(Salome)」(戯曲ー1893年)や「ウィンダミア卿夫人の扇(Lady Windermere's Fan)」(戯曲ー1893年)等の作者で知られるオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)は、アイルランドのダブリン生まれの詩人、作家かつ劇作家である。
ダブリン大学トリニティーカレッジやオックスフォード大学モードリンカレッジに進学し、1878年にオックスフォード大学を首席で卒業すると、1879年にロンドンへ住まいを移した。大学在学中から既にロンドンの社交界へ顔を出し始めていたワイルドは、1878年に「ラヴェンナ(Ravenna)」という詩集を発表しただけであったが、持ち前の警句やウィットに富んだ話術で、この頃には社交界の人気者になっていた。


タイトストリート沿いに建つ住宅の外壁を覆う藤の花

1881年に、ロンドンにおいて、アイルランドの名士で、女王付弁護士(Queen's Counsel)のホレース・ロイド(Horace Lloyd)の娘コンスタンス・メアリー・ロイド(Constance Mary Lloyd:1859年ー1898年)に紹介されたワイルドは、1883年11月に彼女と婚約した。彼女は、耽美主義者で、ロンドンの社交界においてダンディーで鳴らすワイルドの大ファンであったが、彼女の家族はワイルドの生活態度に懸念を抱き、2人の結婚に難色を示していた。しかし、コンスタンスの熱意が彼女の家族の反対を押し切り、ワイルドとコンスタンスの2人は1884年5月に結婚して、ロンドンのチェルシー地区(Chelsea)内にあるタイトストリート16番地(16 Tite Street)に新居を構えた。2人が住んだタイトストリート16番地は、現在の住所表記上、タイトストリート34番地(34 Tite Street)に該る。1885年に、2人の間に長男のシリル(Cyril)が、そして、1886年には次男のヴィヴィアン(Vyvyan)が生まれ、ワイルドは講演で飛び回る日々をロンドンに定住した執筆生活へと変えたのである。そして、上記に述べたような童話、小説や戯曲等を発表していく。

タイトストリート16番地(現在の34番地)の外壁には、
オスカー・ワイルドがここに住んでいたことを示す
London County Council のプラークが掛けられている

ワイルドが妻コンスタンスと新居を構えたタイトストリート16番地は、テムズ河(River Thames)沿いのチェルシーエンバンクメント通り(Chelsea Embankment)とサークルライン(Circle Line)やディストリクトライン(District Line)が通る地下鉄スローンスクエア駅(Sloane Square Tube Station)方面から南西へ延びるロイヤルホスピタルロード(Royal Hospital Road)の2本の通りに囲まれた三角地帯内にあり、上記の通りを結ぶ閑静な住宅街内に位置している。この辺りは、場所柄、王立病院(Royal Hospital)や国立陸軍博物館(National Army Museum)等、英国陸軍関連の施設が多く存在している。また、ワイルドと同じく、アイルランドのダブリン生まれで、「ドラキュラ(Dracula)」(1897年)の作者であるブラム・ストーカー(Bram Stoker:1847年ー1912年)が住んでいたセントレオナルズテラス18番地(18 St. Leonard's Terrace)は、ワイルドが住んでいたタイトストリート16番地の割合と近くである。

タイトストリートは閑静な住宅街の内にあり、
日中でもほとんど人通りがない

ワイルドが結婚し、タイトストリート16番地に定住して執筆した作品のうち、シャーロック・ホームズシリーズと関連があるのは、1890年に発表された小説「ドリアン・グレイの肖像」である。

ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 

ベイカールーライン(Bakerloo Line)、セントラルライン(Central Line)やヴィクトリアライン(Victoria Line)が通る地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)の近くに建つランガムホテル(Langham Hotel)において、1889年8月、3人のアイリッシュ系の男性が食事会を行った。この食事会には、
(1)米国のフィラデルフィアに本社を構える「リピンコット・マンスリー・マガジン」のエージェント ジョーゼフ・マーシャル・ストッダート博士(アイルランド生まれの米国人)
(2)オスカー・ワイルド(アイルランド/ダブリンの名士に生まれた生粋のアイルランド人)
(3)サー・アーサー・コナン・ドイル(アイルランドの血をひくスコットランド人)
この食事会で、ストッダートは、ワイルドとドイルの2人から、それぞれ長編物を一作同誌に寄稿する約束を取り付けた。ドイルは早速執筆に取りかかり、約1ヶ月間で原稿を書き上げて、それをストッダート宛に送付。このタイトルが「四つの署名(The Sign of the Four)」で、行方不明となったモースタン大尉の宿泊先として、ランガムホテルが使用されたのである。「四つの署名」は、「リピンコット・マンスリー・マガジン」の1890年2月号に掲載されたが、同時に掲載されたワイルドの作品が「ドリアン・グレイの肖像」であった。
なお、ドイルの原稿料は、4万5千語の小説で100ポンドだったが、当時、英国の世紀末文学の旗手として期待されていたワイルの原稿料は倍の200ポンドだったとのこと。ドイルは「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」で爆発的な人気を得るかなり前であり、残念ながら、売れっ子のワイルドとは、それ位の開きがあったのである。

ロンドン・ブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にある
ゴードンスクエア(Gordon Square)の近くに以前設置されていたブックベンチ

このブックベンチの題材は、ワイルド作の喜劇
「真面目が肝心(The Importance of Being Earnest)」(1895年)

前述の通り、今にも残る有名な作品を次々に発表したワイルドであったが、1891年に、第9代クイーンズベリー侯爵の次男で、16歳年下の「ボウジー(Bosie)」こと、アルフレッド・ブルース・ダグラス卿(Lord Alfred Bruce Douglas:1870年ー1945年→当時、「オックスフォード大学在学中の学生で、ドリアン・グレイの肖像」を読み、大いに気に入った)と親しくなり、息子を気遣う第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ダグラス(John Douglas, 9th Marquess of Queensberry)から告訴を受け、最終的には男色行為を咎められた。そして、彼は、1895年5月に懲役2年の有罪判決を受け、投獄された上、更に破産を宣告されてしまった。英国当局に収監されるまで、ワイルドはタイトストリート16番地に住んでいたのである。

トラファルガースクエア(Trafalgar Square)の近くにある
アデレイドストリート(Adelaide Street)に設置されているオブジェ
「オスカー・ワイルドとの対話(Conversation with Oscar Wilde)」

服役後、1897年5月にワイルドは出所し、ダグラス卿と一緒にフランスとイタリアの各地を転々としたあげく、最後は、ダグラス卿にも去られてしまったワイルドは、1900年11月にパリ6区のホテルで梅毒による大脳髄膜炎で息を引き取ったのである。46歳という若さであった。