2025年6月8日日曜日

エドワード7世(Edward VII)- その4

ヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)の
メイン入口の左側に設置されているエドワード7世像


腸チフスのため、1861年12月14日に夫のアルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)を亡くした後、ワイト島(Isle of Wight)にある英国王室の離宮オズボーンハウス(Osborne House)やスコットランド(Scotland)アバディーンシャー(Aberdeenshire)にあるバルモラル城(Balmoral Castle)等で隠遁生活を続けるハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王で、かつ、初代インド女帝であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)に代わり、1860年代のヨーロッパ国際政治の「王室外交」と言う分野において、後にサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝(House of Saxe-Coburg and Gotha)の初代英国国王 / インド皇帝であるエドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年)となるアルバート・エドワード(Albert Edwardは、ウェールズ公(Prince of Wales)自分の美点を遺憾なく発揮した。


ヴィクトリア&アルバート博物館のメイン入口を
下から見上げたところ


ところが、妻であるレディー・ハリエット・サラ・モーダント(Harriet Sara, Lady Mordaunt:1848年ー1906年)が非嫡出子を産んだことに伴うサー・チャールズ・モーダント準男爵(Sir Charles Mordaunt, 10th Baronet:1836年ー1897年 / 保守党の議員でもあった)の離婚訴訟の場に、アルバート・エドワードは、証人として出廷する事態となった。これは、レディー・ハリエット・サラ・モーダントがサー・チャールズ・モーダント準男爵と1866年に結婚した後も、アルバート・エドワードを含む複数の貴族達と愛人関係を続けていたからである。その結果、アルバート・エドワードは、世間からウェールズ公としての資質を疑問視され、ヴィクトリア女王が隠遁生活を続けていることも相まって、英国王室の人気は池に落ちた。


ヴィクトリア&アルバート博物館のメイン入口の上部に設置されている
ヴィクトリア女王像

しかし、アルバート・エドワードは、1871年11月から同年12月にかけて、父アルバート公崩御の要因となった腸チフスに罹患し、命の危機に瀕したが、父とは異なり、劇的に回復したため、彼の人気は復活。


ヴィクトリア&アルバート博物館のメイン入口のすぐ上に設置されている
アルバート公像


腸チフスからの回復後、アルバート・エドワードは、特定の国や人物を敵視することが減り、より宥和的な態度を示すようになった。


(1)

1873年5月に開催したウィーン万国博覧会(Expo 1873)を支援し、同地で初代ドイツ皇帝 / 第7代プロイセン王であるヴィルヘルム1世(Wilhelm I:1797年ー1888年 第7代プロイセン王在位期間:1861年ー1888年 / 初代ドイツ皇帝在位期間:1871年ー1888年)と会見して、親睦を深める。


(2)

1874年1月に訪露して、弟のアルフレッド・アーネスト・アルバート(Alfred Ernest Albert:1844年ー1900年 / ヴィクトリア女王の第4子で次男)とロマノフ朝第12代ロシア皇帝であるアレクサンドル2世(1818年ー1881年 在位期間:1855年ー1881年)の皇女マリア・アレクサンドロヴナ(1853年ー1920年)の結婚式出席、ロシア皇室との友好関係を深める。


(3)

1875年11月から1876年3月にかけてヴィクトリア女王の名代として、英領インド帝国(British Raj)を公式に訪問。


(4)

1878年5月に開催したパリ万国博覧会(Expo 1878)を支援して、英仏間の友好関係に尽力。


(5)

1881年3月にロマノフ朝第12代ロシア皇帝のアレクサンドル2世が暗殺された際、訪露して、その葬儀に出席。また、アレクサンドル2世と同様に、ロマノフ朝第13代ロシア皇帝となったアレクサンドル3世(1845年ー1894年 在位期間:1881年ー1894年)に対して、ガーター勲章(Order of the Garter)を授与することに尽力、ロシア皇室との更なる親善を図る。


上記の通り、アルバート・エドワードは、1860年代に続き、1870年代から1880年代にかけても、ヨーロッパ国際政治において、「王室外交」で活躍したものの、1890年6月に発生した「ロイヤルバカラスキャンダル(royal baccarat scandal)をめぐって訴えられ、1891年6月に再度法廷に立つ羽目に陥り、彼に対する批判が強まった。


ヴィクトリア&アルバート博物館のメイン入口の右側に設置されている
アレクサンドラ・オブ・デンマーク像 -
なお、
アレクサンドラ・オブ・デンマーク(Alexandra of Denmark:1844年ー1925年 )は、
デンマーク国王クリスチャン9世の娘(王女)で、
エドワード7世の妃である。


不幸なことは続き、年末に罹った風邪気味の中、狩猟に出かけたアルバート・エドワードの長男であるクラレンス=アヴォンデイル公爵アルバート・ヴィクター・クリスチャン・エドワード王子(Prince Albert Victor Christian Edward, Duke of Clarence and Avondle:1864年ー1892年)が、インフルエンザと肺炎を併発して、1892年1月14日に逝去。

その結果、アルバート・エドワードの後継者は、彼の次男であるヨーク公爵ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート王子(Prince George Frederick Ernest Albert, Duke of York:1865年ー1936年 → 後のジョージ5世(George V  在位期間:1910年ー1936年))がなった。


アビんドンストリート(Abingdon Street)を挟んで、
国会議事堂(House of Parliament)の反対側に建つジョージ5世像

ウェールズ公としてのアルバート・エドワードの忍従は、まだまだ続くのであった。


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