2024年8月1日木曜日

初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington)- その1

古い英国5ポンド紙幣に描かれている初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー


作家 / 編集者であるニック・カイム(Nick Kyme)作「シャーロック・ホームズ / 遺産」(Sherlock Holmes : The Legacy of Deeds → 2024年7月8日 / 7月14日 / 7月19日 / 7月23日付ブログで紹介済) において、ウェリントンストリート(Wellington Street → 2024年7月22付ブログで紹介済)沿いにあるグレイスンギャラリー(Grayson Gallery)に勤める学芸員のアシスタントであるエドムンド・ガレット(Edmund Garret)と言う男性が、ベーカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れて、「殺人事件が起きたので、ギャラリーまで一緒に来てほしい。」と依頼。

彼に連れられて、グレイスンギャラリーに着いたホームズとジョン・H・ワトスンの2人がギャラリー内に入ると、驚くことに、床の上にギャラリーのパトロンである30名以上の男女が死んでいたのである。その中には、学芸員のアーサー・マボット(Arthur Mabbot)と2名のウェイターも含まれていた。

(ちなみに、グレイスンギャラリーは、架空の場所である。)


ウェリントンストリートは、ロンドンの中心部に位置するシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内に所在しており、その名前は、英国の軍人 / 貴族 / 政治家である初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington:1769年ー1852年)に因んでいる。

初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーは、1815年のワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)において、フランス第一帝政の皇帝であるナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte:1769年-1821年 在位期間:1804年ー1814年 / 1815年)と会戦して、彼を打ち破った軍人として、非常に有名である。軍人としての最終階級は、陸軍元帥(Field-marshall)。

また、彼は、保守党の政治家としても活躍して、2度にわたり、英国首相(在職期間:1828年ー1830年 / 1834年)を務めている。


アーサー・ウェズリーは、アイルランド貴族 / 音楽家である初代モーニントン伯爵ギャレット・コリー・ウェズリー(Garret Colley Wesley, 1st Earl of Mornington:1735年ー1781年)の三男として、1769年5月1日、アイルランド王国の首都であるダブリン(Dublin)に出生。

ロンドンで初等教育を受けた後、1781年に名門パブリックスクールであるイートン校(Eaton College)に入学。父の初代モーニントン伯爵死去のため、学費支払に困った母親のアンの指示に基づき、イートン校を退学した後、当時オーストリア領だったブリュッセル(Brussels)に移住し、1786年から乗馬学校に通う。その後、フランス西部のアンジェ(Angers)にあるピニロール陸軍士官学校に入学。


1787年3月、英国陸軍第73歩兵連隊に18歳で入隊。いくつかの連隊を経て、1791年9月に「大尉」へ昇進。

兄(長男)である第2代モーニントン伯爵リチャード・コリー・ウェズリー(Richard Colley Wesley, 2nd Earl of Mornington:1760年ー1842年)から借りた資金で、1793年4月に「少佐」の階級を購入し、同年中に「中佐」に昇進。


フランス革命戦争時の1794年9月15日、ベルギーのフランドル(Flandre)で、第33歩兵連隊を率いて、英国陸軍の退却作戦を支援して、活躍。これが、アーサー・ウェズリーにとっての初陣となった。

1795年4月に英国へ帰国し、同年5月に、兄の第2代モーニントン伯爵リチャード・コリー・ウェズリーが家名をウェズリー(Wesley)から旧家名のウェルズリー(Wellesley)に戻したことに合わせて、アーサー・ウェズリーも、アーサー・ウェルズリーとなった。


1796年5月に「大佐」に昇進したアーサー・ウェルズリーは、同年6月、配下の第33歩兵連隊と共に、英国東インド会社(East India Company)が統治するインドへと派遣される。

インド総督(在職期間:1798年ー1805年 / 当時は、ベンガル総督)となった兄の第2代モーニントン伯爵リチャード・コリー・ウェルズリーの下、インド征服戦争の指揮を執り、


*第4次マイソール戦争:マイソール王国侵攻(1799年)

*マイソール統治 / ウォー盗賊団との戦い(1799年ー1802年)

*第2次マラータ戦争:マラータ同盟戦争(1803年)


等で数々の戦功を挙げ、1802年4月に「少将」に昇進し、1804年9月にバース勲章(Order of the Bath)を授与されて、「サー・アーサー・ウェルズリー(Sir Arthur Wellesley)」となった。

また、兄の第2代モーニントン伯爵リチャード・コリー・ウェルズリーは、1799年にウェルズリー侯爵(Marquess Wellesley)に叙されて、初代ウェルズリー侯爵(1st Marquess Wellesley)となっている。


ただ、1804年のムクンドワラ峠の戦いにおける敗戦やバラトプル攻囲戦における攻略失敗等により、兄の初代ウェルズリー侯爵リチャード・コリー・ウェルズリーは、1805年に英国本国へ召喚されることになり、弟であるアーサー・ウェルズリーも、同年、インドでの職を退く形となったのである。


                                            

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