2025年9月26日金曜日

レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn )- その1

ロンドンのナショナルギャラリー(National Gallery)に所蔵 / 展示されている
レンブラント・ファン・レイン作
「34歳の自画像(Self Portrait at the Age of 34)」
Oil on canvas / Bought by National Gallery in 1861
<筆者撮影>

軽率だった夜盗(A Guest in the House / The Incautious Burglar → 2025年9月9日付ブログで紹介済)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1940年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの短編である。


軽率だった夜盗」は、英国の場合、ハミッシュ・ハミルトン社(Hamish Hamilton)から1963年に、また、米国の場合、ハーパー社(Harper)から1964年に出版された「奇跡を解く男(The Men Who Explained Miracles)」に収録されている。

軽率だった夜盗」は、1940年に「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」に掲載された際、「A Guest in the House」と言うタイトルだったが、 「奇跡を解く男」に収録される際に、「The Incautious Burglar」へ改題された。


日本の場合、日本の出版社である東京創元社が1970年に編集した「カー短編全集2 妖魔の森の家(The Third Bullet, The House in Goblin Wood and Other Stories)」に収録されている。


東京創元社から、創元推理文庫の一冊として出版されている
ジョン・ディクスン・カー作
「カー短編全集2 妖魔の森の家」の表紙
(カバー : アトリエ絵夢 志村 敏子氏) -
「軽率だった夜盗」(宇野 利奏訳)において、
夜盗がクランレイ荘に侵入した際、
「その(懐中電燈の)光が、食器棚に沿って匍っていくと、
銀色にきらめくものがあった。果物鉢である。
鉢の中のリンゴに、まるでそれが人間の胴であるかのように、
小型ナイフが不気味につき刺さったままだ。」や
「銀の食器類が一そろい、食器棚の前に散乱していた。
果物鉢も転げ落ちていた。
オレンジとリンゴ、そして葡萄の粒が潰れているあいだに、
死体が仰向けに倒れている。」と言う記述があるので、
表紙のデザインは、同作の内容を参考しているものと思われる。


ケント州(Kent)の荒涼たる平原を見下ろす丘の上に建つクランレイ荘が、物語の舞台となる。

ある夜、午後11時を過ぎると、屋敷に滞在する客を除く訪問客が帰り、以下のメンバーが山荘に残った。


(1)マーカス・ハント(Marcus Hunt - 企業家 / 投資家で、クランレイ荘の主人)

(2)ハリエット・ディヴィス(Harriet Davis - マーカス・ハントの姪)

(3)アーサー・ロルフ(Arthur Rolfe - 美術商)

(4)デリク・ヘンダースン(Derek Henderson - 美術批評家)

(5)ルイス・バトラー(表面上は、ハリエット・ディヴィスの友人であるが、実際には、スコットランドヤード犯罪捜査部(C. I. D.)の警部補)


マーカス・ハントは、クランレイ荘において、レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn:1606年ー1669年 / ネーデルラント連邦共和国(現オランダ王国)の画家)の絵画を2枚、そして、アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck:1599年ー1641年 / バロック期のフランドル出身の画家)の絵画を1枚を所蔵しており、これら3枚は、莫大な値打ちを持つ名画だった。

マーカス・ハントは、元々、これら3枚を2階の寝室の隣りにある鍵がかかる部屋で保管していたが、何故か、階下の庭に面した食堂の壁に移動させたのである。食堂から、フランス窓経由、容易に庭へ出ることができた。

不思議なことに、マーカス・ハントは、これら3枚に対して、保険を掛けていなかった。更に、奇妙なのは、彼はクランレイ荘内に設置されていた夜盗避けの警報装置を一つ残らず撤去してしまったのである。

まるで、マーカス・ハントは、盗みに入られることを待っているかのようだった。

にもかかわらず、彼は、スコットランドヤードに依頼して、内々でルイス・バトラー警部補を派遣してもらい、クランレイ荘内に張り込ませていた。

上記の通り、マーカス・ハントの行動には、全く一貫性がなかった。果たして、彼は何を考えているのか?


そして、夜中の午前2時過ぎ、夜盗が現れた。フランス窓のガラスを切り取り、開けると、食堂へと侵入。壁に掛かった額縁からレンブラント作「帽子をかぶった老婆」を抜き取ると、画布を丸く巻こうとした。その作業に熱中するあまり、夜盗は、室内にもう一人の人物が居ることに少しも気付かなかった。


金属製の物体が転げ落ちる音を聞いた皆が2階から階下の食堂へ駆け付けると、銀の食器類が散乱する中、食器棚の前に、夜盗がセーターとズボンを血で汚したまま、仰向けに倒れており、全く動かなかった。食器棚の中にあった果物鉢の果物ナイフで、肋の辺りを刺されて、既に死亡していた。

ルイス・バトラー警部補が死体の側へ歩み寄り、油染みた鳥打ち帽を脱がせ、冠っていた黒布のマスクを外したところ、なんと、夜盗の正体は、クランレイ荘の主人であるマーカス・ハントだった。彼自身の山荘に所蔵されている名画を盗み出す最中に、胸を刺されて殺害されると言う奇怪な様相を呈していた。


「自分の所有物を自分が盗みに入る」と言う一見馬鹿げた行動ではあるが、何らかの理由があったに違いない。

ルイス・バトラー警部補の上司であるデイヴィッド・ハドリー警視(Superintendent David Hadley)から依頼を受けたギディオン・フェル博士が現地へと赴き、この奇怪な事件の謎を解き明かすのである。


ジョン・ディクスン・カー作「軽率だった夜盗」において、マーカス・ハントが所有するクランレイ荘に所蔵され、謎の夜盗に狙われた絵画3枚のうち、2枚の作者であるレンブラント・ファン・レインは、1606年7月15日、スペインから独立する直前のオランダ(Spanish Netherlands)ライデン(Leiden)に出生。

彼の父親は、製粉業(miller)を営む中流階級であるハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レイン(Harmen Gerritszoon van Rijn)、彼の母親は、都市貴族でパン屋(baker)を生業とする一家の娘であるネールチェン・ヴィルムスドホテル・ファン・ザウトブルーグ(Neeltgen Willemsdochter van Zuijtbrouck)で、夫妻の9番目の子供だった。

一家の姓である「ファン・レイン」は、「ライン川の(van Rijn)」を意味しており、これは、彼の父ハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レインが、ライデンを流れる旧ライン川沿いに製粉の風車小屋を所有していたことに由来する。


2025年9月25日木曜日

ロンドン ブルネル博物館(Brunel Museum)- その1

レイルウェイアベニューから見たブルネル博物館
<筆者撮影>


サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作「瀕死の探偵(The Dying Detective → 2025年5月5日 / 5月21日付ブログで紹介済)」は、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、43番目に発表された作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1913年12月号に、また、米国の「コリアーズ ウィークリー(Collier’s Weekly)」の1913年11月22日号に掲載された。

同作品は、1917年に発行されたホームズシリーズの第4短編集「シャーロック・ホームズ最後の挨拶(His Last Bow)」に収録されている。



ジョン・H・ワトスンが結婚し、シャーロック・ホームズとの共同生活を解消してから、2年が経過していた。


ロザーハイズ駅(Rotherhithe Station)からブルネル博物館へと至る
レイルウェイアベニューに掛けられたブルネル博物館の案内垂れ幕
<筆者撮影>

世界最初の海底トンネルに該る「テムズ河トンネル」を完成させた
イザムバード・キングダム・ブルネルを称えるブループラークが、
ブルネル博物館の壁に掛けられている。
<筆者撮影>

11月の霧がかかって薄暗い午後、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)の家主であるハドスン夫人(Mrs. Hudson)が、ワトスンの家を訪れる。

ハドスン夫人曰く、ホームズが何か訳の分からない病に罹患して、「ここ3日間でどんどん衰弱して、瀕死の状態なのだ(’He’s dying, Dr Watson.’)。」と言う。更に、今朝、ハドスン夫人が「ホームズさんの許可があろうとなかろうと、今直ぐ、医者を呼びに行く。」と告げると、ホームズは、「それじゃ、ワトスンを呼んでくれ。」と答えたのだった。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1913年12月号に掲載された挿絵(その1) -
ジョン・H・ワトスンがシャーロック・ホームズとの共同生活を解消してから、
2年が経過していた。
ベイカーストリート221B の家主であるハドスン夫人が、
ワトスンの家を訪ねて来る。ホームズが謎の病に罹り、
瀕死の状態に陥っている、とのこと。
ハドスン夫人の依頼を受けて、ワトスンは、
直ぐにホームズの元へと向かい、
熱帯病に詳しい医師を連れて来ようと提案するものの、
何故か、ホームズは一切聞き入れず、
後で自分が指定する人物を読んで来るようにと言い張ったのである。
画面右側から、シャーロック・ホームズ、
そして、ジョン・H・ワトスン。
挿絵:ウォルター・スタンリー・パジェット
(Walter Stanley Paget:1862年 - 1935年)

なお、ウォルター・スタンリー・パジェットは、
シャーロック・ホームズシリーズのうち、

第1短編集の「シャーロック・ホームズの冒険

(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1892年)、

第2短編集の「シャーロック・ホームズの回想

(The Memoirs of Sherlock Holmes)」(1893年)、

第3短編集の「シャーロック・ホームズの帰還

(The Return of Sherlock Holmes)」(1905年)および

長編第3作目の「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」

「ストランドマガジン」1901年8月号から1902年4月号にかけて連載された後、

単行本化)の挿絵を担当したシドニー・エドワード・パジェット

(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)の弟である。


ハドスン夫人からの話を聞いたワトスンは、急いでコートと帽子を身に着けると、ハドスン夫人と一緒に、馬車でベイカーストリート221B へと向かった。

ベイカーストリート221B へと向かう馬車の中で、ワトスンは、ハドスン夫人に詳しい事情を尋ねる。

ハドスン夫人によると、ホームズは、ある事件のため、テムズ河(River Thames)南岸のロザーハイズ(Rotherhithe)へ出かけ、そこで病気を移されて、帰って来たらしい。そして、ホームズは、水曜日の午後から寝たきりで、この3日間、食事も飲み物もとっていないのだった。


ロザーハイズ地区からテムズ河の上流を見たところ -
画面中央奥に「シャード(Shard)」を望むことができる。
<筆者撮影>


午後4時頃、ベイカーストリート221B に着いたワトスンは、ホームズの様子を見て、愕然とする。

ベッドに横たわるホームズの顔は、痩せ衰えており、熱で目はぎらぎらとして、頬も紅潮していた。更に、ベッドカバーの上に置かれた細い手は、ひっきりなしに痙攣していたのである。


ワトスンがベッドに近寄ろうとすると、ホームズは、「下がれ!直ぐに下がれ!(Stand back! Stand right back!)」と言って、恐ろしい形相で制止する。

ホームズによると、自分が罹患した病気は、船乗りから感染したスマトラ島(Sumatra)のクーリー病(coolie disease)で、接触感染する、とのことだった。


ロザーハイズ地区からテムズ河の下流を見たところ
<筆者撮影>


ハドスン夫人によるワトスンへの説明では、ホームズは、ある事件の捜査のために、テムズ河(River Thames)南岸へ出かけ、そこで病気を移されて、帰って来たとのことだが、その場所であるロザーハイズ地区(Rotherhithe → 2025年8月31日 / 9月6日付ブログで紹介済)とは、ロンドンの特別区の一つであるサザーク区(London Borough of Southwark)内にある地区である。


「Rotherhithe - History, art and the Mayflower」の冊子から抜粋した
ロザーハイズ地区とその周辺地図


ロザーハイズ地区は、テムズ河(River Thames)の南岸にあり、テムズ河へ半島のように突き出している場所にある関係上、北側、東側と西側の三方はテムズ河に囲まれている。

ロザーハイズ地区の南西部分は、同じサザーク区のバーモンジー地区(Bermonsey)に、そして、南東部分は、ロンドンの特別区であるグリニッジ王立区(Royal Borough of Greenwich)/ ルイシャム区(London Borough of Lewisham)のデップフォード地区(Deptford)に接している。

そして、テムズ河を間に挟んで、ロンドンの特別区の一つであるロンドン・タワーハムレッツ区(London Borough of Tower Hamlets)のワッピング地区(Wapping)に面している。


テムズ河北岸のヴィクトリアエンバンクメント通り
(Victoria Embankment → 2018年12月9日付ブログで紹介済)沿いに設置されている
英国の技師であるイザムバード・キングダム・ブルネル
(1806年ー1859年)のブロンズ像
<筆者撮影>

イザムバード・キングダム・ブルネルは、
パディントン駅(Paddington Station → 2014年8月3日付ブログで紹介済)を初めとする
グレイトウェスタン鉄道の施設や車輌等を設計したことで有名である。
<筆者撮影>


ロザーハイズ地区の場合、以前(ホームズとワトスンが活躍をするヴィクトリア朝時代よりも前)は波止場が主体であったが、19世紀中頃(1843年)に、フランス生まれの技術者であるサー・マーク・イザムバード・ブルネル(Marc Isambard Brunel:1769年ー1849年)と彼の息子で、英国の技師であるイザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel:1806年ー1859年)が「テムズトンネル(Thames Tunnell)」を完成させたことにより、テムズ河の北岸(ワッピング地区)と南岸(ロザーハイズ地区)が接続。


ブルネル博物館を囲む塀に設置されている説明板(その1)
<筆者撮影>

ブルネル博物館を囲む塀に設置されている説明板(その2)
<筆者撮影>

ブルネル博物館を囲む塀に設置されている説明板(その3)
<筆者撮影>


テムズ河の川底に初めてトンネルを通したブルネル親子による功績を称えて、ロザーハイズ地区内には、ブルネル博物館(Brunel Museum)が開館し、ブルネル親子が完成させた「テムズトンネル」に関する資料を展示している。


ロザーハイズストリートの北側から見たブルネル博物館
<筆者撮影>

ブルネル博物館の入口
<筆者撮影>


ブルネル博物館は、


*東側:レイルウェイアベニュー(Railway Avenue)

*西側:トンネルロード(Tunnell Road)

*南側:ロザーハイズストリート(Rotherhithe Street

*北側:トンネルロード


と言う「テムズトンネル」に関連した通りに囲まれた敷地内に所在している。

ブルネル博物館が建つ敷地は、ブルネル親子が完成させた「テムズトンネル」の南端付近に辺っている。


2025年9月24日水曜日

ロンドン セントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)- その2

セントジェイムズ宮殿の建物正面
<筆者撮影>

テューダー朝(House of Tudor)の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年 → 2023年6月24日 / 7月2日付ブログで紹介済)は、未婚のまま(夫と子がないまま)、1603年3月24日に崩御したため、テューダー朝(House of Tudor)の初代イングランド王であるヘンリー7世(Henry VII:1457年ー1509年 在位期間:1485年ー1509年 → 2024年7月5日付ブログで紹介済)の直系で、既にスコットランド国王として即位して居たジェームズ6世(James VI:1566年ー1625年 在位期間:1567年ー1625年)が、イングランド国王のジェイムズ1世(James I - 在位期間:1603年-1625年)として即位して、ステュアート朝(House of Stuart)を開いた。

ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示されている
ジェイムズ1世の肖像画
(By Daniel Mytens
 / Oil on canvas / 1621年)
<筆者撮影>

ステュアート朝の第2代国王であるチャールズ1世(Charles I:1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年 → 2017年4月29日付ブログで紹介済)は、ステュアート朝の初代国王ジェイムズ1世の次男として出生したが、兄ヘンリー・フレデリック・ステュアート(Henry Frederick Stuart:1594年ー1612年)が腸チフスに倒れて18歳の若さで死亡したため、1616年に王太子(Prince of Wales)に叙位された。

1625年に父ジェイムズ1世の死去に伴い、王位を継承して、チャールズ1世となる。彼は、父王と同様に「王権神授説」を信奉して、議会と対立。1628年に議会は「権利の請願(Petition of Right)」を提出し、課税には議会の承認を得ることを求めたが、チャールズ1世は1629年に議会を解散して、議会の指導者を投獄する等、専制政治を実行した。更に、彼は国教統一にも乗り出し、ピューリタン(Puritan)を弾圧したため、各地での反乱を引き起こす引き金となった。


ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている
チャールズ1世の肖像画の葉書
(Daniel Mytens
 / 1631年 / Oil on canvas
2159 mm x 1346 mm) 


1642年、チャールズ1世が反国王派の議員を逮捕しようとしたことに伴い、議会派と王党派の内戦が勃発。これが、清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)である。

当初、内戦は王党派(Royalists)が優勢であったが、鉄騎隊を率いるオリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell:1599年ー1658年 → 2024年8月4日 / 8月7日付ブログで紹介済)が議会派(Parliamentarians)を勝利に導いた。1646年、チャールズ1世は議会派に降伏して、囚われの身となる。一旦脱出するものの、1648年、再度幸降伏する。


ルーベンスが描いたバンケティングハウス内の天井画
<筆者撮影>


1649年1月27日、チャールズ1世の処刑が宣告され、同年1月30日、フランドルの画家パーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577年ー1640年)に内装や天井画を依頼したホワイトホール宮殿(Whitehall Palace)のバンケティングハウス(Banqueting House)前で公開処刑(斬首)された。


バンケティングハウスの入口上に設置されているチャールズ1世の胸像
<筆者撮影>


なお、チャールズ1世は、処刑前夜、セントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)に泊まり、最後の夜を迎えている。


ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている
オリヴァー・クロムウェルの肖像画の葉書
(Robert Walker / 1649年頃 / Oil on canvas
1257 mm x 1016 mm) 


チャールズ1世を処刑した後、イングランド共和国(Commonwealth of England:1649年ー1660年)の初代護国卿( Lord Protector)となったオリヴァー・クロムウェルは、セントジェイムズ宮殿を引き継ぎ、共和制(1649年ー1660年)の間、兵舎として使用させた。


以降、ステュアート朝の歴代の国王は、セントジェイムズ宮殿において出生している。


*チャールズ2世(Charles II / ステュアート朝の第3代国王:1630年-1685年 在位期間:1660年ー1685年)- 1630年5月29日に、チャールズ1世の長男として出生。


ソーホースクエアガーデンズ(Soho Square Gardens)内に設置されている
チャールズ2世像 -
デンマーク人の彫刻家 Caius Gabriel Cibber (1630年―1700年)が制作
<筆者撮影>


*ジェイムズ2世(James II / ステュアート朝の第4代国王:1633年-1701年 在位期間:1685年ー1688年)- 1633年10月24日に、チャールズ1世の次男として出生。


*メアリー2世(Mary II / ステュアート朝の第5代国王:1662年-1694年 在位期間:1689年ー1694年)- 1662年4月30日に、ジェイムズ2世の長女として出生。


イングランド銀行博物館(Bank of England Museum)のエントランスホールの
右側の壁に掛けられているメアリー2世の肖像画 -
ドイツ生まれの英国の肖像画家である初代男爵サー・ゴドフリー・ネラー
(Sir Godfrey Kneller, 1st Baronet:1646年ー1723年)による
作品だと考えられている。
<筆者撮影>


*アン(Anne Stuart / ステュアート朝の第6代国王:1665年-1714年 在位期間:1702年ー1714年)- 1665年2月6日に、ジェイムズ2世の次女として出生。


ナショナルポートレイトギャラリーで所蔵 / 展示されている
アン女王の肖像画
(By Michael Dahl
 / Oil on canvas / 1702年)
<筆者撮影>

セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral
→ 2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)の正面前の広場に設置されている
アン女王像
<筆者撮影>


1688年の名誉革命(Glorious Revolution)を経て、ステュアート朝の第5代国王に就いたメアリー2世(Mary II:1662年ー1694年 在位期間:1689年ー1694年)との共同統治を行い、メアリー2世の没後、夫のウィリアム3世(William III:1650年ー1702年 在位期間:1689年ー1702年)が、単独統治を行っていた。


イングランド銀行博物館のエントランスホールの
左側の壁に掛けられているウィリアム3世の肖像画 -
メアリー2世の肖像画と同様に、
ドイツ生まれの英国の肖像画家である初代男爵サー・ゴドフリー・ネラーの
作品だと考えられている。
<筆者撮影>


ウィリアム3世による統治時の1698年、第一王宮であるホワイトホール宮殿が火事で焼失したため、セントジェイムズ宮殿が、ロンドンにおけるステュアート王家の第一王宮となり、ステュアート朝の行政の中枢として使用された。なお、この役割は、現在も残っている。


2025年9月23日火曜日

コナン・ドイル作「花婿失踪事件」<小説版>(A Case of Identity by Conan Doyle )- その5

1891年9月号に掲載された挿絵(その6) -
ベイカーストリート 221B を訪れたジェイムズ・ウィンディバンクから
「義理の娘メアリーを騙した男を捕まえられるのであれば、捕まえて下さい。」と言われた
シャーロック・ホームズは、部屋のドアに近寄り、鍵をかけると、
「彼を捕まえました。」と宣言した。
それを聞いたジェイムズ・ウィンディバンクは、
罠にかかったネズミのように、辺りを見回したのである。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)

サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作シャーロック・ホームズシリーズの短編第3作目に該る「花婿失踪事件(A Case of Identity)」において、シャーロック・ホームズが見破った真相は、以下の通り。


<事件の真相>


残念ながら、セントサヴィオール教会は実在しておらず、
セントパンクラス オールド教会(St. Pancras Old Church)が、その候補地と思われる。
<筆者撮影>


事件の依頼人であるメアリー・サザーランド(Mary Sutherland)の婚約者で、キングスクロスの近くにあるセントサヴィオール教会(St. Saviour's (Church) near King's Cross 2014年10月11日付ブログで紹介済)で挙げる結婚式の場から行方不明になったホズマー・エンジェル(Hosmer Angel)と彼女の母親の再婚相手であるジェイムズ・ウィンディバンク(James Windibank - メアリー・サザーランドの母親よりも15歳近く年下)は、同一人物だった。



ロンバードストリート(Lombard Street
→ 2015年1月31日付ブログで紹介済)から
フェンチャーチストリートを望む。
<筆者撮影>


フェンチャーチストリート(Fenchurch Street → 2014年10月17日付ブログで紹介済)にある大きな赤ワイン輸入業者ウェストハウス&マーバンクで外交員をしているジェイムズ・ウィンディバンクは、メアリー・サザーランドの母親と金目当てで結婚。

メアリー・サザーランドは、タイピストとして、それなりの収入を得ている他に、オークランド(Auckland)のネッド伯父(Uncle Ned)が遺してくれたニュージーランド公債(New Zealand stock)から、年に100ポンドの利子をもらっていた。メアリー・サザーランドは、母親とその再婚相手であるジェイムズ・ウィンディバンクと一緒に暮らしている間、この利子収入を彼らに渡していた。

メアリー・サザーランド自身、既に年頃で、いつまでも独身で居られる筈もなかったが、彼女が結婚した場合、ジェイムズ・ウィンディバンクにとって、年100ポンドの収入を失うことを意味しており、楽しく暮らすための財源を維持する必要があった。


当初、ジェイムズ・ウィンディバンクは、メアリー・サザーランドを家に閉じ込めて、同年代の男性との交際を禁じようとしたが、長い間通用する訳がなかった。

メアリー・サザーランドの母親の黙認と助力の下、ジェイムズ・ウィンディバンクは、ホズマー・エンジェルに変装して、メアリー・サザーランドと知り合い、彼女に対して愛を誓うことで、他の男性を遠ざけようとした。更に、メアリー・サザーランドと婚約することで、彼女が他の男性に心を奪われないと言う目的も達成。

最後のとどめとして、劇的な方法でこの出来事を終わらせる(=結婚式の場から突然行方不明になる)ことで、メアリー・サザーランドの心にホズマー・エンジェルと言う存在を永遠に残し、将来現れる可能性がある別の求婚者に対して、彼女が目を向けることを阻止しようとしたのである。


1891年9月号に掲載された挿絵(その7) -
部屋のドアに鍵をかけたことは、監禁と脅迫に該る。」と言う
ジェイムズ・ウィンディバンクの訴えを聞いた
シャーロック・ホームズは、鍵を外すと、ドアを開けた。
法律では罰することができないジェイムズ・ウィンディバンクを
狩猟用鞭で打ち据えようとして、
ホームズが鞭に向かって、素早く二歩歩み寄った。
その隙に乗じて、ジェイムズ・ウィンディバンクは、
開いたドアから脱兎の如く走り出ると、
全速力で通りを逃げて行ったのである。


<疑問点>


ジェイムズ・ウィンディバンクは、ホズマー・エンジェルに変装するに際して、鋭い目を色付き眼鏡で隠し、もじゃもじゃの揉み上げと口髭で顔を覆った。また、彼は、はっきり通る声を囁き声に弱めている。更に、ジェイムズ・ウィンディバンクは、ホズマー・エンジェルとして、メアリー・サザーランドと一緒に外へ出かけるのに、昼間よりも夜を選んだ。

上記の通り、ジェイムズ・ウィンディバンクとしては、ホズマー・エンジェルと言う存在が変装であることがばれないよう、かなりの努力と注意を払ってはいる。


一方、メアリー・サザーランドは、タイピストと言うヴィクトリア朝時代における最新の職業に就き、職業婦人ながら、お洒落を楽しむ余裕もある人物。

いくら、メアリー・サザーランドがかなりの「近視」な上に、彼女がホズマー・エンジェルに会うのが、昼間よりも夜間が多かったとは言え、婚約に至る関係までなっている訳で、ホズマー・エンジェルがいつも同じ家に同居している義理の父ジェイムズ・ウィンディバンクによる変装であることに全く気付かないのは、非常に考え難い。


それにもかかわらず、ホズマー・エンジェルが義理の父ジェイムズ・ウィンディバンクによる変装であることを見抜けないメアリー・サザーランドは、あまりにも騙されやすく、不注意な女性であると言わざるを得ない。


あるいは、コナン・ドイルの原作自体、現実味が薄いとも言える。


2025年9月22日月曜日

横溝正史作「黒猫亭事件」(Murder at the Black Cat Cafe by Seishi Yokomizo)- その1

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2025年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

横溝正史作「黒猫亭事件」の裏表紙
(Jacket illustration by Thomas Hayman /
Jacket design by Jo Walker)


日本の推理作家である横溝正史(Seishi Yokomizo:1902年ー1981年)による金田一耕助(Kosuke Kindaichi)シリーズの中編「黒猫亭事件(Murder at the Black Cat Cafe)」は、「小説」1947年(昭和22年)12月号に発表された。ただし、発表時の原題は、「黒猫」になっている。


黒猫亭事件」の場合、1947年(昭和22年)3月20日の深夜、東京近郊の武蔵野(Musashino)の面影が多く残る G 町(G - Town)が、事件の舞台となる。


英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2025年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

横溝正史作「黒猫亭事件」内に付されている
黒猫亭と
日蓮宗蓮華院の周辺地図


その夜、G 町派出所(police box)勤務の長谷川巡査(Constable Hasegawa)は、巡回中で、酒場「黒猫亭(Black Cat Cafe)」に差し掛かる。長谷川巡査の記憶によると、酒場「黒猫亭」は夫婦によって営まれていたが、彼らは既に酒場を売却しており、確か、1週間程前から空き家同然になっている筈だった。

ところが、長谷川巡査は、酒場「黒猫亭」の裏庭に、謎の人影を目撃した。長谷川巡査が眼を凝らしてよく見てみると、その人影は、酒場「黒猫亭」の裏庭に隣接する日蓮宗(Nichiren sect)蓮華院(Renge-in)の若い僧である日兆(Nitcho)で、裏庭で穴を掘っていたのである。

日兆の行動を不審に思った長谷川巡査が、日兆が掘った穴の中を確かめてみると、驚くことに、穴の中には、腐乱しかけた女性の全裸死体が横たわっていた。しかも、その女性の顔は完全に損壊しており、生前の容貌を判別すらできなかった。

警察による検死の結果、女性の死因は頭部の傷で、他殺であることが認定された。

不思議なことに、同じ場所に、黒猫の死体も埋められていた。「黒猫亭」には、酒場の店名に因んで、黒猫が飼われていたことから、その猫の死体かと思われたが、その直後、生きている黒猫が見つかり、「黒猫亭」では、、2匹の黒猫が飼われていたのではないかと考えられた。


長谷川巡査、そして、事件の捜査を担当した村井慶次(Detective Murai)により、以下のことが判明。


*「黒猫亭」には、糸島大伍(Daigo Itojima:42歳)とお繁(O-shige:29歳)の夫婦が暮らしていた。


*糸島大伍とお繁の2人は、中国からの引き揚げ者。ただし、2人は一緒に中国から引き揚げて来たのではなく、お繁の引き揚げが先で、糸島大伍が後となった。

お繁:中国 → 横浜(1945年10月)→ G 町(1946年7月)

糸島大伍:中国 → 長野(1946年4月)→ G 町(1946年7月)

と言うルートを辿り、2人は G 町にやって来て、酒場を借り、「黒猫亭」を営んでいたが、1947年3月14日に店を閉めて、神戸へ引っ越した。


*「黒猫亭」には、お君(O-Kimi:17歳)が住み込んで、働いていた。。


*「黒猫亭」で客の相手をしていたのは、通いの加代子(Kayoko:23歳)と珠江(Tamae:22歳)の2人。


糸島大伍とお繁の2人が「黒猫亭」を閉めて、神戸へ引っ越したのが、約1週間前の1947年3月14日。

警察の捜査により、お君、加代子と珠江の3人が生存していることは確認された。

また、「黒猫亭」閉店の際、お君、加代子と珠江の3人は、お繁に会った、とのこと。


一方で、警察による検死の結果、「黒猫亭」の裏庭の穴の中から見つかった女性の死体の死亡推定日時は、それよりも2週間も前だった。

そうなると、酒場「黒猫亭」の女性関係者であるお繁、お君、加代子および珠江の中には、の裏庭の穴の中から見つかった女性の死体に該当する者が居ないことになる。


それでは、「黒猫亭」の裏庭の穴の中から見つかった女性の死体は、一体、誰なのか?


           

2025年9月21日日曜日

ロンドン パントンストリート(Panton Street)

ヘイマーケット通りからパントンストリートを見たところ
<筆者撮影>

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1936年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第7作目に該る「アラビアンナイトの殺人(The Arabian Nights Murders → 2025年8月30日付ブログで紹介済)」の場合、クリーヴランドロウ(Cleveland Row → 2025年9月5日付ブログで紹介済)沿いに建つウェイド博物館(Wade Museum - 大富豪であるジェフリー・ウェイドが10年程前に開設した私立博物館で、中近東の陳列品(Oriental Art)を展示する他、初期の英国製馬車で、素晴らしい逸品も保存)が、殺人事件の舞台となる。


東京創元社から創元推理文庫として出版された
ジョン・ディクスン・カー作「アラビアンナイトの殺人」の表紙
(カバー:山田 維史)


天下の奇書アラビアンナイトの構成にならって、スコットランドヤードのお歴々である(1)ヴァインストリート(Vine Street → 2025年9月19日付ブログで紹介済)署勤務のジョン・カラザーズ警部(Inspector John Carruthers - アイルランド人)、犯罪捜査部(CID)のデイヴィッド・ハドリー警視(Superintendent David Hadley / イングランド人)と(3)副総監であるハーバート・アームストロング卿(スコットランド人)が、三人三様の観察力と捜査法を駆使して、この事件を解説する。

彼らの話の聞き手は、南フランスで4ヶ月間の休暇を楽しんで、アデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace → 2018年11月25日付ブログで紹介済)の自宅に戻ったばかりのギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)だった。


サヴォイプレイス(Savoy Place → 2017年1月29日付ブログで紹介済)から見上げた
アデルフィテラス
<筆者撮影>


アデルフィテラスにある
「アデルフィ(The Adelphi)」と呼ばれる新古典主義の集合住宅(テラスハウス)の記念碑
<筆者撮影>


まず最初に、ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部による陳述が始まる。



私がホスキンズ(巡査部長)と出会ったのは、六月十四日金曜日の夜、十一時を十五分過ぎたときでした。(ヴァインストリート)署の仕事がたてこんでいましたので、私はそんなおそくでも居残っておりました。仕事がすんだわけではなかったのですが、腹ごしらえの必要がありましたので、私は一度、外へ出ました。パントン・ストリートのかどに出ている屋台店で、コーヒーとサンドイッチをとって、それからあらためて、もう一度仕事にとりかかる考えだったのです。

<宇野 利泰訳>


ヘイマーケット通りの北側から南側を見たところ -
画面中央奥に見える横の通りが、パントンストリート。
<筆者撮影>


ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部が、腹ごしらのために、コーヒーとサンドイッチをとっていた屋台店が出ていたパントンストリート(Panton Street)は、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James's)内の東端にある通りである。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ピカデリーサーカス周辺の地図を抜粋。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から西へ向かう通りは、ヘイマーケット通り(Haymarket)とパル・マル通り(Pall Mall → 2016年4月30日付ブログで紹介済)の2つに分かれる。

ヘイマーケット通りは北上して、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)へと至る。

一方、パル・マル通りは更に西進して、進行方向左手にセントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)が見えたところで、セントジェイムズストリート(St. James’s Street → 2021年7月24日付ブログで紹介済)とクリーヴランドロウの2つに分かれる。



ヘイマーケット通りとパントンストリートが交差する南東の角に建つ建物 -
ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部が、腹ごしらのために、
コーヒーとサンドイッチをとっていた屋台店は、この辺りで営業していたものと思われる。
<筆者撮影>


パントンストリートの西側は、ヘイマーケット通りが北上して、ピカデリーサーカスへと至る途中から始まり、その東側は、シティー・オブ・ウェストミンスター区のストランド区(Strand)内にあるレスタースクエア(Leicster Square)に突き当たって、終わっている。つまり、パントンストリートは、レスタースクエアとヘイマーケット通りを東西に結ぶ通りである。


パントンストリートの北側を見たところ
<筆者撮影>


レスタースクエア周辺には、映画館が、また、ハイマーケット通り周辺には、劇場が多く点在しているため、パントンストリート沿いには、飲食店が数多く営業している。現在、特に、韓国系のレストランやカフェが多い。


パントンストリートの南側を見たところ -
画面右側から3番目の建物が、ハロルドピンター劇場である。
<筆者撮影>


また、東西に延びるパントンストリートと南北に延びるオックスエンドンストリート(Oxendon Street)が交差する南西の角には、ハロルドピンター劇場(Harold Pinter Theatre - 2011年までは、コメディー劇場(Comedy Theatre)と呼ばれていた)が所在している。